第六十一音 証明できない残響
石畳に落ちたノートは、ひどく軽い音を立てた。
その音も、すぐに消えた。
理央は指先を動かせなかった。
落ちたノート。転がったペン。途中で止まった問い。
感動しても現実が変わらない場合、音楽の意味は証明できるか。
答えは出なかった。
答えが出ないという事実だけが、胸の奥に重く残る。
「理央!」
天音が叫んだ。
《雷陣》の拍が旧市街に響く。だが、その拍は鳴った端から薄くなり、熱を残さないまま消えた。
天音の顔が歪む。
「またかよ」
「下がって」
澪が《音幻》を構え、理央とヴォイドリズムの間へ水色の線を引いた。刃のような旋律が黒い影を裂く。
当たる。
裂ける。
けれど、その手応えがすぐになかったことにされる。
澪は唇を噛んだ。
「切った感覚まで消える」
「なら、感覚に頼らない」
詠が《祝華》を鳴らした。
桜紅の弦が旧市街の壁を震わせる。歌声が石畳を伝い、五人の祝具へ広がろうとする。
ヴォイドリズムは、動かなかった。
「残響抹消」
その一言だけで、詠の歌は空白に変わった。
喉は震えた。声も出た。
なのに、歌ったという感覚が胸に戻ってこない。
詠は一瞬、息の吸い方を忘れた。
琴羽が《花奏鍵》を鳴らす。
「詠ちゃん、澪ちゃん、天音ちゃん、理央ちゃん」
名前を呼ぶように、和音を重ねる。
だが、名前に添えた音も薄れていく。
届く前に消えるのではない。
届いたあと、残らない。
それが一番怖かった。
ヴォイドリズムは落ちたノートを見下ろしていた。
「お前は賢い」
理央へ向けた声は、冷たいというより、乾いていた。
「だから、もうわかっている」
理央はゆっくり顔を上げた。
「音楽が現実を救うという証明は、できない」
「それは」
声が出た。
けれど、続きが出ない。
ヴォイドリズムの黒い瞳には、何も映っていない。理央の揺れも、仲間の必死さも、ただ通り過ぎるだけのもののようだった。
「反論するか」
「前提を」
理央は喉を鳴らした。
「理解する必要がある」
詠が理央を見る。
理央は震える指を握り込んだ。
「何が変わらなかった」
ヴォイドリズムの輪郭が、ほんの少しだけ揺れた。
「聞いてどうする」
「反論できるかはわからない。でも、知らなければ、考えることもできない」
しばらく、誰も動かなかった。
旧市街の音が薄い。
遠くで自転車のベルが鳴ったはずなのに、すぐにその輪郭が消えていく。
ヴォイドリズムは、やがて口を開いた。
「大切な人がいた」
その声は平らだった。
けれど、完全な空白ではなかった。
「病気だった。金もなかった。助けを求めても、必要なものは届かなかった」
琴羽が息を呑む。
ヴォイドリズムは続ける。
「私は弾いた」
黒い指が、見えない弦を押さえるように動く。
「その人は、私の音を聞いて笑った。救われると言った。あなたの音があるから大丈夫だと言った」
声がほんの少し掠れた。
「だが、何も変わらなかった」
黒い影の周囲で、空気が沈む。
「病は治らなかった。明日の食事は増えなかった。薬代も、部屋の寒さも、誰かの無関心も、何一つ変わらなかった」
詠は《祝華》を握る手に力を込めた。
「そして、その人は死んだ」
ヴォイドリズムの声から、また感情が抜け落ちた。
抜け落ちたのではない。
抜き取って、捨てたような声だった。
「最後に私の音を聞いて、笑って、死んだ」
誰も言葉を挟めなかった。
「あの笑顔に意味があったと言うのか」
ヴォイドリズムの黒い瞳が、理央を見据える。
「その笑顔は、命を救ったか」
理央は答えられない。
「世界を変えたか」
答えられない。
「明日を買ったか」
答えられない。
「何も変えなかった。音は鳴った。心は動いた。だが、現実は変わらなかった」
ヴォイドリズムが手を上げる。
旧市街の空白が深くなる。
「だから私は知った。感動は、痛みの上に薄く塗った膜にすぎない。音楽は、救えなかった現実を一瞬だけ忘れさせるだけのものだ」
「違う」
詠が声を上げた。
だが、その声もすぐに薄くなる。
「違うなら、証明しろ」
ヴォイドリズムは理央だけを見ている。
「お前が証明しろ。音楽に意味があると。感動が、失われたものに届くと。現実を救えなかった音が、無意味ではないと」
理央は落ちたノートを見る。
答えを組み立てるための紙。
前提、反論、検証、結論。
それらは理央にとって武器だった。
けれど今、その武器は石畳の上に落ちている。
拾おうとして、指が止まる。
論理で、あの人の死に反論できるのか。
薬代を用意できなかった音に、意味があったと証明できるのか。
死んだ人が戻らない現実を前に、音楽の価値を計算できるのか。
できない。
その答えだけは、はっきりしていた。
「理央」
天音の声が聞こえた。
今度の拍は、さっきより弱い。
それでも、消えかけながら続いている。
「無理に答えなくていい」
理央は天音を見た。
天音は歯を食いしばっている。
「でも、黙って飲まれるな」
琴羽も頷く。
「理央ちゃんの言葉、待ってる」
澪が短く言った。
「証明じゃなくても」
詠が《祝華》を胸に寄せる。
「理央の音を聞きたい」
音を聞きたい。
その言葉が、理央の中に落ちた。
理央はゆっくり、《律盤》に触れた。
紫夜の盤面の奥で、カナミの残響が淡く揺れている。
カナミは数百年、届かなかった音を鳴らし続けた。
仲間は戻らなかった。
失敗した過去は変わらなかった。
それでも、カナミの音は詠たちに届いた。
今も、ここに残っている。
理央は目を閉じた。
証明できるか。
できない。
カナミの数百年が報われたと、式で示すことはできない。
ヴォイドリズムの大切な人の笑顔が何を変えたか、数値に置き換えることもできない。
けれど。
証明できないものを、すべて無意味と呼んだら。
詠が怖いまま前に出たことも。
澪が孤独を抱えたまま弾いたことも。
琴羽が寂しいと言えたことも。
天音が怒りを拍にしたことも。
カナミが最後まで音を捨てなかったことも。
全部、消えてしまう。
理央は落ちたノートを拾わなかった。
代わりに、《律盤》を両手で構えた。
ヴォイドリズムがわずかに首を傾ける。
「答えは出たか」
「出ていない」
理央は正直に言った。
詠たちが息を呑む。
理央は続ける。
「音楽が現実を救うと、論理では証明できない」
ヴォイドリズムの黒い瞳が、少し細くなる。
「なら」
「でも」
理央は紫夜の譜線を足元に広げた。
今までのように、すべてを計算で閉じるためではない。
閉じられないものを、閉じられないまま置くために。
「証明できないことと、意味がないことは、別の話だ」
その言葉が、消えずに旧市街へ残った。
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