第五十九音 音にするための拍
天音の一打が、踊り場の床を鳴らした。
さっきまでの雷は、ただ速かった。強く、荒く、前へ前へと走っていた。
今の音は違う。
強いまま、そこに立っている。
詠はその拍に足を置いた。澪が水色の旋律を重ねる。理央の紫夜の譜線が階段の壁を伝い、琴羽の《花奏鍵》からこぼれた春桃の和音を支えた。
琴羽はまだ泣いていた。
涙は止まっていない。指も震えている。
けれど、もう鍵盤から手を離してはいなかった。
「琴羽」
天音が前を向いたまま言う。
「泣きながらでいいから、鳴らせ」
琴羽が息を呑む。
「怒ってても、寂しくても、羨ましくてもいい。さっきの音、ちゃんと聞こえた」
「天音ちゃん」
「だから、次は届くように鳴らせ」
その言い方は少し乱暴だった。
でも、琴羽はそれを聞いて、小さく笑った。
「うん」
赤黒い濁りが、鍵盤の上で震える。
琴羽は両手を置いた。
今までなら、まずみんなの音を包む和音を探していた。誰かが前に出やすいように。誰かの傷が目立たないように。自分の音が強くなりすぎないように。
今日は違う。
琴羽は自分の胸に残る痛みを、そのまま一音目にした。
鋭い音だった。
寂しい音だった。
でも、ただの不協和音ではない。
天音の拍が、その音の足元を支える。理央の譜線が、逃げ場ではなく進む道を作る。澪の水音が、琴羽の揺れを薄めずに隣へ並ぶ。詠の《祝華》が、桜紅の弦で旋律を拾い上げる。
カコフォニアの輪郭が揺れた。
「何をしている」
複数の声が重なる。
「それは怒りだ。寂しさだ。欲しさだ。そんなものを混ぜたら、美しい音にはならない」
「美しくなくてもいい」
琴羽が答えた。
声は震えていたが、逃げてはいなかった。
「私の音だから」
カコフォニアの赤黒い影が膨れ上がる。
「なら、もっと壊れろ。もっと叫べ。誰かに合わせるな。お前だけの感情で全部塗り潰せ」
「それは違う」
琴羽は首を振った。
「私だけの感情だけど、私だけで終わらせたくない」
《花奏鍵》の二段鍵盤が光る。
春桃の音に、少しだけ濁った赤が混じる。怒りと寂しさの色だった。けれど、それは黒く沈まず、琴羽の指の下で揺れながら旋律になっていく。
「前に出たい。見てほしい。包んでほしい」
琴羽はカコフォニアを見た。
「そう思ったこと、もう隠さない」
タンバリンを持つ手に力が入る。
「でも、誰かを傷つけるためだけには鳴らさない」
チン、と音が鳴った。
軽いはずのタンバリンの音が、踊り場の空気をまっすぐ貫いた。
天音がその音を拾う。
《雷陣》のドラムが、四拍を刻む。
一拍目、琴羽の足元へ。
二拍目、詠の弦へ。
三拍目、澪の旋律へ。
四拍目、理央の譜線へ。
五人の音が、初めて同じ方向を向いた。
「いくよ」
詠が息を吸う。
「怖いままでも」
澪が続ける。
「震えたままでも」
琴羽が目元を拭う。
「寂しいままでも」
天音がスティックを構える。
「怒ったままでも」
理央が《律盤》の中心を指で叩いた。
「拍に乗せれば、音になる」
五人の声が重なった。
「響け、五色ノ祝音」
桜紅、水色、春桃、雷金、紫夜。
五つの色が混ざり合い、赤黒い嵐を押し返す。
カコフォニアが両腕を広げた。
「黙れ! 感情は爆発するものだ! 形に閉じ込めた瞬間、また誰かに都合よく並べられる!」
その叫びに、詠は聞いた。
敵意の奥にある、ひび割れた音。
「カコフォニア」
「その名を呼ぶな」
「あなたも、言われたんだね」
赤黒い影が止まる。
詠は《祝華》を構えたまま、声を落とした。
「うるさいって。乱すなって。みっともないって」
複数の声が、わずかに乱れた。
「黙れ」
「感情を出すたびに、誰かに押さえつけられた」
「黙れ」
「だから、今度は全部壊す側に回った」
「黙れと言っている!」
カコフォニアの叫びが、赤黒い衝撃波になって広がる。
天音が前に出た。
「琴羽、乗れ!」
「うん!」
ドラムとタンバリンが重なった。
荒い。
きれいにそろった音ではない。
けれど、そこには意志があった。
怒りがある。寂しさがある。焦りがある。誰かに届いてほしいという、むき出しの願いがある。
それを詠が歌にする。
澪が旋律を細く研ぎ、理央が譜線で支える。
カコフォニアの衝撃波と、五人の音がぶつかった。
階段の窓が震える。
掲示物が壁から剥がれ、赤黒い火花が散る。
一瞬、五人の音が押し戻された。
カコフォニアが笑いかける。
「ほら見ろ。感情は強い。お前たちの作った形なんて」
「形じゃない」
琴羽が言った。
その声に、カコフォニアの笑いが止まる。
「これは、受け取ってもらうための音」
琴羽は一歩前へ出た。
今までなら詠の後ろにいた場所。
今日は、隣に立つ。
「私は包むだけじゃない。前に出る」
《花奏鍵》の光が広がる。
「でも、一人で前に出るんじゃない」
天音が笑う。
「足元は任せろ」
雷の拍がさらに深くなる。
琴羽のタンバリンが、その拍の上で跳ねた。
澪の《音幻》が赤黒い波を切り裂き、理央の《律盤》が裂け目を固定する。詠の《祝華》が最後の旋律を走らせた。
「爆発だけじゃ、届かない」
詠が言う。
「殺した感情も、届かない」
澪が続ける。
「抱えたまま」
琴羽が鍵盤を叩く。
「叩きつけるんじゃなく」
天音が四拍を刻む。
「届けるために」
理央が譜線を結ぶ。
五人の音が、ひとつの歌唱戦闘へ変わった。
赤黒い嵐の中心に、春桃と雷金の拍が突き刺さる。
カコフォニアが呻いた。
「なぜだ」
複数の声が割れていく。
「お前たちの中にも混沌があった。怒りがあった。寂しさがあった。なのに、なぜ壊れない」
「壊れそうにはなったよ」
琴羽が答えた。
「でも、受け取ってもらえた」
カコフォニアの輪郭が大きく揺れる。
「受け取る」
その言葉だけ、声が一つに近づいた。
「そんなもの」
「なかった?」
詠が静かに聞く。
カコフォニアは答えない。
けれど、赤黒い影の奥で、一瞬だけ小さな音が鳴った。
叫びではない。
泣き声に近い音だった。
「だったら、今は聞く」
琴羽が言った。
「あなたの怒りも、本物だと思う」
カコフォニアが顔を歪める。
「本物なら、なぜ止める」
「本物だから」
琴羽の声は、もう揺れていなかった。
「壊すだけで終わらせたくない」
五人の合奏が高くなる。
カコフォニアの赤黒い嵐が、音に押されて剥がれていく。階段の踊り場に染み込んでいた濁りが、少しずつ薄くなる。
最後に残ったのは、いくつもの声ではなかった。
一人分の、小さな声だった。
「受け取ってもらえるなら」
その声は、驚くほど幼く聞こえた。
「混沌でなくても、よかったのか」
詠は答えようとした。
けれど、その前にカコフォニアの姿が崩れた。
赤黒い影は霧になり、踊り場の端へ逃げるように流れていく。
敗走。
浄化ではない。
救えたわけではない。
それでも、最後に残した声だけは、五人の中に小さく残った。
その夜、音楽準備室には、いつもより長く明かりが灯っていた。
戦闘後の確認は終わっている。律の穴も一時的に閉じた。ミヨリは神妙な顔で、カコフォニアの気配が完全に消えたわけではないと告げてから、祝具の点検に戻った。
五人だけが、丸椅子を寄せて座っていた。
琴羽は膝の上でタンバリンを握っている。
「さっき言ったこと」
誰も急かさなかった。
琴羽は少しだけ息を吸って、続けた。
「全部、本当です」
詠は頷いた。
澪も、天音も、理央も、目を逸らさなかった。
「詠ちゃんと澪ちゃんが一緒にいるの、羨ましかった。天音ちゃんと理央ちゃんが昔から知ってることも、羨ましかった。私だけ、後から入ったみたいで」
「後からじゃない」
天音がすぐに言った。
琴羽が驚いて顔を上げる。
天音は気まずそうに頬をかいた。
「少なくとも、今は違う。あたしが昔話しすぎてたのは、悪かった」
「悪いっていうか」
理央が淡々と補足する。
「情報共有の範囲が偏っていた」
「それ言うと急に反省会っぽくなる」
「必要な反省ではある」
琴羽が小さく笑った。
その笑い声に、詠の胸が少し軽くなる。
澪が静かに言った。
「琴羽が前に出たいときは、言って」
「うん」
「言わなくても、見落とさないようにする」
琴羽の目がまた潤む。
「ありがとう」
詠は琴羽の隣へ座り直した。
「包んでほしいときも、言って」
琴羽は少し迷ってから、詠の肩に額を預けた。
「今、ちょっとだけ」
「うん」
詠はそっと琴羽の背に手を回した。
琴羽が小さく息を吐く。
天音はそれを見て、何か言いかけ、やめた。代わりに《雷陣》の縁を指で軽く叩く。
こつん。
落ち着いた拍だった。
琴羽のタンバリンが、それに小さく応える。
チン。
怒りは消えていない。
寂しさも、羨ましさも、なかったことにはならない。
それでも、音にできる。
音にすれば、誰かに届く。
窓の外で、夜の神響が静かに息をしていた。
その静けさの向こうで、ほんの一瞬だけ、音のない穴が開いた気がした。
何も鳴らない。
何も残らない。
そんな空白の気配。
詠は顔を上げる。
次に来る音は、怒りよりも深く、冷たかった。
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