第五十八音 怒りを消さない
赤黒い春の嵐が、踊り場を吹き荒れた。
音が刃になって飛んでくる。けれど、その刃は外から切りつけるだけではなかった。胸の奥にある柔らかい場所を、内側から乱暴に叩いてくる。
詠は《祝華》を床に突き立て、踏みとどまった。
弦が軋む。指先が痺れる。耳の奥で、琴羽の叫びが何度も反響していた。
私のことは、誰が包んでくれるの。
その声は、敵の攻撃より痛かった。
痛いのに、消してはいけない音だった。
「琴羽ちゃん」
詠は嵐の中で顔を上げる。
琴羽は《花奏鍵》の前に立ち尽くしていた。両手は鍵盤に置かれたまま震えている。春桃の光は赤黒く濁り、乱れた和音を吐き続けていた。
「違う」
琴羽が呟く。
「違うの。こんなの、私じゃない」
カコフォニアが笑った。
「違わない。やっと出たんだよ。きれいな顔の下に隠していた、本当の音が」
「違う」
「癒し? 包容? 優しさ? そんなものは、都合のいい飾りだ。お前の中にあったのは、羨望と寂しさと怒りだ」
琴羽の肩が震える。
「やめて」
「やめない。もっと鳴らせ。もっと汚く、もっと激しく。調和なんて嘘だ。隠した感情こそ、本物だ」
赤黒い波がさらに強くなる。
澪が《音幻》を構え直し、詠の隣へ立った。水色の光が不安定に揺れている。
「詠」
「うん」
「あれは、敵の音だけじゃない」
「わかってる」
詠は一歩踏み出した。
嵐が正面からぶつかる。胸を叩かれ、喉が詰まる。足元が揺れた。
「詠ちゃん、来ないで」
琴羽が叫ぶ。
「来ないでよ。こんな音、聞かないで」
「聞くよ」
詠はもう一歩進んだ。
「聞きたい」
「だめ」
「だめじゃない」
赤黒い和音が詠の腕を掠める。装束の袖が裂け、桜紅の光が散った。
天音が反射的に踏み込もうとする。
「詠!」
けれど、その一歩は雷の衝動に呑まれていた。天音の足元で《雷陣》が暴れ、拍が速く跳ねる。助けに行こうとした動きが、攻撃の勢いに変わりかける。
理央が譜線を伸ばした。
「天音、今の拍では詠に当たる」
「わかってる」
天音は歯を食いしばる。
「わかってるのに、止まんないんだよ」
カコフォニアが低く笑う。
「止める必要なんてない。怒りは走らせるためにある。心配も焦りも、全部燃料にすればいい」
「うるさい」
天音のスティックが震えた。
だが、詠は振り返らなかった。
今は、琴羽の音を聞く。
そのために前へ出る。
「琴羽ちゃん」
「聞かないでって言ってるでしょ!」
《花奏鍵》が激しく鳴った。
音の波が詠の体を打つ。肺の空気が抜ける。膝が折れそうになる。
それでも詠は、琴羽の目を見る。
「痛い」
琴羽の顔が凍った。
「ごめ」
「でも、琴羽ちゃんの音だ」
詠は《祝華》を握り直した。
「だから聞く」
「やめて。私、嫌な子だよ。みんなのこと大好きなのに、羨ましいって思った。寂しいって思った。私だけ見てほしいって思った」
「うん」
「うん、じゃないよ」
琴羽の声が掠れる。
「そんなの、優しくない」
「優しいよ」
「違う」
「違わない」
詠はゆっくり首を振った。
「誰かを羨ましいって思っても、誰かに見てほしいって思っても、それで琴羽ちゃんが優しくなくなるわけじゃない」
琴羽の指が鍵盤の上で震える。
「でも、私が言ったら、みんな困る」
「困るかもしれない」
琴羽が目を見開いた。
詠はその反応を受け止めてから、続けた。
「でも、困ってもいいよ。わからなくても、考える。どうしたら琴羽ちゃんが寂しくないか、みんなで考える」
澪が一歩前に出た。
「私も、気づいていなかった」
琴羽の視線が澪へ動く。
「詠と一緒にいるのが、当たり前になっていた。琴羽がどう見ていたか、考えていなかった」
「澪ちゃんは悪くない」
「悪いかどうかじゃない」
澪は静かに言った。
「琴羽が寂しかったなら、聞く」
理央も譜線を張り直しながら口を開いた。
「天音との昔の話は、私にとっては記憶。でも、外から見れば壁に見えた可能性がある」
天音が苦しそうに笑う。
「あたし、昔話になると止まらないしな」
「自覚があるなら改善余地はある」
「今それ言うか」
短い言葉だった。
けれど、そのやりとりに、琴羽の瞳がわずかに揺れた。
五人の間に、ほんの少しだけ息が戻る。
カコフォニアが舌打ちした。
「くだらない。慰め合っても、感情は消えない」
「消さない」
詠が答えた。
カコフォニアの複数の声が止まる。
「消さないよ。琴羽ちゃんの寂しさも、羨ましさも、怒りも。なかったことにしない」
《祝華》の弦が低く鳴る。
「でも、カコフォニアの好きな形にはしない」
「好きな形?」
「爆発させて、壊して、こんなのが本物だって言わせる形」
詠は琴羽へ手を伸ばした。
「琴羽ちゃん。怒っていい。寂しいって言っていい。前に出たいって言っていい」
「本当に?」
「うん」
「包んでほしいって、言っていいの?」
「言って」
琴羽の唇が震えた。
「じゃあ」
鍵盤から、赤黒い濁りが少しだけ引いた。
「今、包んで」
詠は頷き、琴羽の手を取った。
桜紅の光が、春桃の光に重なる。
嵐は止まらない。
けれど、琴羽の不協和音は、ほんの少しだけ形を変えた。
怒りが消えたわけではない。寂しさが消えたわけでもない。
ただ、誰かに届いた。
その瞬間、天音の中で暴れていた雷が、鈍く震えた。
琴羽の声が、雷の奥まで届いたのだ。
私のことは、誰が包んでくれるの。
天音はスティックを握りしめたまま、息を止めていた。
自分は今、何をしている。
助けようとした。守ろうとした。敵を殴り飛ばそうとした。
でも、その拍は速すぎた。
詠の足場を消した。澪の刃を逸らした。理央の譜線を乱した。
そして、琴羽の声をかき消しかけた。
「あたしは」
天音は奥歯を噛む。
カコフォニアが近づいてくる。
「いいじゃないか。お前は強い。誰より前に出たいんだろう。仲間が泣いているなら、怒ればいい。怒りのまま叩けばいい」
赤黒い手が、《雷陣》に触れかける。
「その方が、お前らしい」
天音は一瞬だけ、目を閉じた。
胸の奥にある熱は、本物だった。
敵への怒り。琴羽を泣かせたことへの怒り。何も気づかなかった自分への怒り。
全部ある。
消えない。
消したくもない。
けれど。
天音はスティックの先を床に置いた。
こつん、と小さな音がした。
暴れていた雷が、その一音に引っかかる。
「一拍」
天音が呟く。
カコフォニアの動きが止まった。
「二拍」
今度は、左のスティック。
こつん。
「三拍」
右。
こつん。
「四拍」
左。
こつん。
雷が、少しずつ足元へ戻ってくる。
理央が驚いたように目を細めた。
「外部制御なしで拍を戻している」
澪が小さく息を吐く。
「天音らしい」
「らしい、って何だよ」
天音は目を開けた。
まだ声は荒い。手も震えている。
それでも、拍は戻っていた。
「感情はある」
天音はカコフォニアを見る。
「怒ってる。焦ってる。ぶっ飛ばしたいって思ってる」
「なら、そのまま鳴れ」
「違う」
天音は《雷陣》を構え直した。
「感情に叩かせるんじゃない」
一打。
雷が床を走る。
今度は、五人の足元を崩さない。
詠の弦と、澪の水音と、琴羽の春桃の光と、理央の譜線。その全部が乗れる場所に、拍が置かれていく。
「あたしが、感情を拍にする」
カコフォニアの赤黒い輪郭が大きく揺れた。
「抑えるのか」
「抑えない」
天音が笑った。
荒くて、でも確かな笑みだった。
「怒りを消さない。走らせもしない。音にする」
《雷陣》が、深く鳴った。
その拍に合わせて、琴羽の《花奏鍵》が小さく応えた。
春桃の和音はまだ乱れている。
けれど、もう一人ではなかった。
カコフォニアが初めて、笑わなかった。
次の一打で、戦いの形が変わる。
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