第五十七音 乱音、暴走する鼓動
赤黒い揺らぎが見えた翌日から、神響女学院の空気は少しだけ熱を持った。
静かになったわけではない。
むしろ、逆だった。
廊下を歩く生徒の声。教室で椅子を引く音。放課後の校庭から聞こえる掛け声。
どれも普段と同じはずなのに、耳の奥で一拍だけ速く鳴っているように感じる。
詠は音楽準備室の扉を開けて、思わず足を止めた。
中には琴羽がいた。
まだ集合時間よりずいぶん早い。窓際の椅子に座り、《花奏鍵》を膝の上に置いている。鍵盤の上に指を添えたまま、音を出さずに何度も動かしていた。
「琴羽ちゃん、早いね」
琴羽ははっと顔を上げた。
「詠ちゃんこそ。まだ誰も来てないと思ってた」
笑顔はいつもの琴羽だった。
柔らかくて、相手を安心させる笑い方。
けれど、詠にはその笑顔の奥で、何かが小さく軋む音が聞こえた気がした。
「練習?」
「うん。ちょっとだけ」
琴羽は《花奏鍵》の端を撫でた。
「みんなの音、最近すごく変わったでしょう。詠ちゃんはカナミさんの音を抱えたまま前に進んでるし、澪ちゃんは一人でも鳴れるって決めた。天音ちゃんはどんどん強くなるし、理央ちゃんは、理央ちゃんだし」
最後だけ少し困ったように笑う。
「だから、私もちゃんと支えられるようにならなきゃって」
「支えるだけ?」
詠が聞くと、琴羽の指が止まった。
ほんの一瞬だった。
「支えるの、好きだよ」
「うん」
「みんなの音がばらばらになりそうなとき、そっと包んであげられたら、それでいいの」
言葉は優しかった。
けれど、その奥にある音は、少しだけ濁っていた。
「それでいい、って」
詠が言いかけたところで、扉が勢いよく開いた。
「二人とも早いな」
天音だった。肩に《雷陣》をかけ、眠そうなのに目だけが妙に冴えている。
「天音ちゃんも早い」
「寝つけなかった。昨日の気配、まだ残ってる感じがしてさ」
天音はスティックを指先で回した。いつもなら軽く笑って見せるところだが、今日はその回転が少し速い。
「なんか、じっとしてると体の中で音が跳ねるんだよ」
「私も」
琴羽が小さく言った。
天音は意外そうに琴羽を見た。
「琴羽も?」
「うん。なんだろうね。落ち着かないの」
二人の声が重なったとき、詠は昨日の赤黒い揺らぎを思い出した。
熱。
怒り。
乱れた鼓動。
それは、外から来る敵の気配でありながら、内側にある何かを呼び起こす音にも似ていた。
放課後。
五人は校舎の西階段へ向かった。
律の穴の反応は、昨日より濃くなっていた。階段の踊り場に近づくほど、空気が赤く滲んで見える。壁に貼られた掲示物が、風もないのに細かく震えていた。
理央が端末を見つめる。
「律の揺れが一定じゃない。周期がばらばら。計測値としては扱いにくい」
澪が《音幻》の弦に指を添えた。
「音が怒ってるみたい」
「怒ってる?」
詠が聞き返した瞬間、踊り場の中央で赤と黒の線が絡み合った。
それは人の形になりかけて、すぐに崩れた。
腕が伸びる。肩が裂ける。顔がいくつも重なったように揺れる。輪郭の内側で、叫び声と笑い声と泣き声が同時に鳴っている。
「やっと来た」
声は一つではなかった。
低い声。高い声。掠れた声。弾けるような声。
全部が重なって、ひとつの言葉になっている。
「五色ノ契」
天音が一歩前に出た。
「今度はお前か」
赤黒い影が笑った。
「サイレンシアは黙らせた。ノクターンは閉じ込めた。でも、どちらも足りない」
「足りない?」
琴羽が呟く。
「感情を抑えすぎだ。泣きたいなら泣けばいい。怒りたいなら怒ればいい。欲しいなら欲しいって叫べばいい」
影の中で、いくつもの口が開いた。
「私は乱音カコフォニア」
赤黒い音が階段を駆け上がる。
「隠した鼓動を、全部鳴らしてやる」
詠は《祝華》を握った。
「みんな、行くよ」
澪、琴羽、天音、理央が頷く。
「響け、私たちの祝音。途切れた律を、もう一度つなぐために」
五つの祝具が光を放つ。
詠の制服が桜紅の装束へ変わり、《祝華》の弦が胸元で一閃した。澪の水色の裾が静かに広がり、《音幻》の刃のような弦が光を裂く。琴羽の袖に春桃の花弁が舞い、《花奏鍵》の鍵盤が二段に開いた。天音の金色の雷紋が腕を走り、《雷陣》が背で唸る。理央の紫夜の譜面が足元に展開し、《律盤》の線が五人を結んだ。
「五色ノ契、奏装」
その瞬間、カコフォニアが両腕を広げた。
「感情増幅、ディソナント・クラッシュ」
赤黒い波が踊り場いっぱいに広がる。
攻撃の形をしていない。刃でも槍でもない。けれど、触れた瞬間に胸の奥を直接叩かれた。
天音が歯を食いしばる。
「上等だ」
《雷陣》のドラムが鳴った。
最初の一打は鋭かった。二打目はさらに強い。三打目で、雷の拍が階段の手すりを震わせた。
「天音、速い」
理央が警告する。
けれど天音は止まらない。
「速いくらいでちょうどいいだろ」
床を蹴る。雷をまとったスティックがカコフォニアの腕を弾き飛ばす。続けて回し蹴り。さらにドラムの衝撃波。
いつもの天音なら、そこで一拍置く。
詠が斬り込み、澪が支え、琴羽が整え、理央が道を作るための間を残す。
けれど、今の天音には間がなかった。
「まだだ!」
雷の連打が走る。
詠が前に出ようとして、足元を崩された。味方の拍が速すぎて、踏み込む場所が消える。
澪の《音幻》も振り抜く途中で軌道を逸らされた。
「天音、合わせて」
「合わせる?」
天音の目が熱を帯びる。
「こっちは止まったら負けるんだよ」
「止まれとは言ってない」
理央が《律盤》を展開する。紫の譜線が天音の周囲を囲み、拍を落ち着かせようとする。
だが、赤黒い波がその譜線に絡みついた。
カコフォニアが笑う。
「いいね。もっと鳴れ。もっと速く。もっと強く。誰かに合わせるなんて、つまらないだろう」
「黙れ!」
天音が叫ぶ。
その声さえ、いつもの天音より荒い。
《雷陣》の音が暴れ、階段の壁にひびを走らせた。
琴羽が慌てて《花奏鍵》を開く。
「天音ちゃん、私が包むから」
春桃の光が広がる。荒れた雷を受け止め、五人の足元に柔らかな和音を敷こうとする。
だが、その音が天音に届く前に、カコフォニアの視線が琴羽へ向いた。
「次は、お前」
琴羽の肩が跳ねた。
「え」
「いつも包んでいるんだろう。いつも優しいんだろう。なら、その奥に隠した音も聞かせろ」
赤黒い指が、琴羽の胸元へ伸びる。
詠が斬り込んだ。
「琴羽ちゃんに触らないで」
《祝華》の一閃がカコフォニアの腕を裂く。けれど、裂けた赤黒い影は笑い声になって、琴羽の周りに散った。
「触れる必要なんてない。もう鳴っている」
琴羽の《花奏鍵》が震えた。
優しい和音の下から、低く濁った音が滲み出る。
「やめて」
琴羽が鍵盤を押さえる。
「やめて、そんな音、出さないで」
「本当に?」
カコフォニアの声が、耳元で囁くように重なる。
「本当は、前に出たかった」
「違う」
「詠と澪が二人で笑っているのが、羨ましかった」
「違う」
「天音と理央の昔からの距離が、寂しかった」
「違う」
「誰かの特別になりたかった」
琴羽の指が止まった。
音楽準備室で、詠が聞きかけた言葉。
支えるだけ。
それでいい。
そう言ったとき、琴羽の奥で軋んだ音。
今、その蓋が無理やり開けられていた。
「やめてよ」
琴羽の声が震える。
「私、そんなこと思ってない」
「思っている」
「思ってない」
「思っている」
複数の声が、琴羽の言葉を踏みつける。
《花奏鍵》の鍵盤が赤黒く染まり、不協和音を鳴らした。
琴羽が耳を塞ぐ。
それでも音は止まらない。
春桃の光が歪み、五人の足元に敷かれていた和音が乱れる。詠の弦が軋み、澪の水音が揺れ、理央の譜線がばらばらにほどけた。
「琴羽」
澪が呼ぶ。
琴羽は顔を上げた。
いつもの柔らかな笑顔は、もうなかった。
目に涙が浮かんでいる。けれど、それ以上に、怒りがあった。
「うるさい」
小さな声だった。
カコフォニアが嬉しそうに身を乗り出す。
「もっと」
「うるさい!」
琴羽が叫んだ。
踊り場の空気が震える。
天音のドラムも、詠の弦も、澪の水音も、理央の譜線も、その一声に押し返された。
「わかってる! 羨ましいって思ってた! 寂しいって思ってた!」
琴羽の《花奏鍵》が荒れた和音を叩きつける。
「詠ちゃんと澪ちゃんが一緒にいるとき、いいなって思った! 天音ちゃんと理央ちゃんが昔の話をしてるとき、私だけ知らないんだって思った!」
「琴羽ちゃん」
詠が手を伸ばす。
琴羽は首を振った。
「言っちゃだめだって思ってた! みんなのこと大好きだから、こんなこと思ったらだめだって!」
春桃の光が赤黒く弾ける。
「でも、ずっと思ってた!」
涙が頬を伝った。
「私だって、前に出たい! 私だって、誰かに見てほしい! 包むだけじゃなくて、包んでほしい!」
カコフォニアが笑う。
「それがお前の本当の音だ」
琴羽は震えながら、鍵盤に両手を置いた。
優しい音ではなかった。
癒やす音でも、整える音でもなかった。
傷ついて、怒って、寂しくて、それでも誰かを求めている音。
琴羽が、泣きながら叫ぶ。
「私のことは、誰が包んでくれるの!」
その声と同時に、《花奏鍵》が激しい不協和音を放った。
赤黒い春の嵐が、五人を呑み込んだ。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




