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祝音少女《五色ノ契》〜音に選ばれた少女たちは、祝福の旋律で世界を救う〜  作者: たいしょう
第四譜 試練の変奏曲 -静と騒と虚と闇の四重奏-
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第五十六音 ひとりで終わらない音

 孤立の夜に、細い亀裂が走っていた。


 そこから音が漏れているわけではない。


 けれど、詠にはわかった。


 澪がいる。


 さっきまで見えているだけだった存在が、今は確かにこちらへ手を伸ばしている。


 聴こえない。


 それでも、いる。


 詠は《祝華》を構え直した。


 息を吸う。


 澪も同じタイミングで息を吸った。


 二人の距離は変わらない。


 ノクターンの結界はまだ深い。


 それでも、二人は同じ場所へ向かっていた。


「今ここで、鳴っている」


 詠はもう一度歌った。


 自分にしか聴こえない声。


 でも、今度は怖くなかった。


 澪の藍色の光が、同じ言葉をなぞる。


 完全には聴こえない。


 けれど、息づかいのようなものが胸に触れる。


 詠の歌が、澪の一音を探す。


 澪の旋律が、詠の声を探す。


 二つの音は夜の中で何度もすれ違い、少しずつ近づいていった。


 ノクターンが低く言う。


「やめろ」


 声はまだ全員に届く。


 けれど、さっきより遠い。


「聴こえない者同士が歌っても、何も変わらない」


 澪は首を横に振った。


「変わっている」


「何が」


「私は、閉じていない」


 澪の声は、自分にしか返らないはずだった。


 それでも、言葉は夜の亀裂へ入っていく。


「昔は、ひとりで弾いているほうが楽だった」


 詠は歌を止めずに、澪を見る。


 澪は続けた。


「誰にも合わせなければ、ずれない。誰にも聴かせなければ、傷つかない。そう思っていた」


 ノクターンの藍色の瞳が澪を捉える。


「それが真実だ」


「でも、詠の音を受け取った」


 澪は弦を鳴らした。


 音は澪の耳にしか届かない。


 でも、藍色の光が強くなる。


「怖かった。でも、受け取ってよかった」


「いずれ失う」


「そうかもしれない」


「なら、なぜ」


「今、鳴っているから」


 澪はまっすぐ言った。


「終わるかもしれない音でも、今鳴っているなら本物」


 夜の結界が揺れた。


 ノクターンの黒いコートが、風もないのに翻る。


「本物だったから、失った時に痛い」


 澪はノクターンを見た。


「あなたの約束も、そうだったんでしょう」


 ノクターンが動きを止める。


「最後まで一緒に音を紡ごうとした人」


「……」


「その人との音は、終わったから偽物になったんじゃない」


 澪の声が、少しだけ震える。


「本物だったから、今も痛い」


 ノクターンの瞳が揺れた。


 詠は、その揺れを見逃さなかった。


「ノクターン」


 詠が呼ぶ。


「約束が果たせなかったことは、なかったこととは違う」


「黙れ」


「一緒に鳴るはずだった音は、あなたの中に残ってる」


「黙れと言っている」


 ノクターンの夜が一気に濃くなる。


 詠の視界が暗くなる。


 澪の姿も、琴羽も、天音も、理央も、黒い膜の向こうへ沈んでいく。


「失ったものは戻らない」


 ノクターンの声が響く。


「約束は果たされなかった」


「音は鳴らなかった」


「終わった」


「終わっていない」


 澪が言った。


 その言葉は、今度は詠にも届いた。


 ほんの一瞬。


 藍色の声が、桜紅の耳に触れた。


 詠の胸が熱くなる。


 澪も気づいたように目を見開いた。


 届いた。


 完全ではない。


 でも、確かに。


「澪!」


 詠の声も、わずかに澪へ届いた。


 澪が頷く。


「終わっていない」


 もう一度、澪は言った。


「あなたが覚えている限り、その音は続いている」


 ノクターンの結界に、大きな亀裂が入る。


 琴羽がその光を見た。


「聴こえた……?」


 自分の声はまだ届かない。


 でも、詠と澪の声が一瞬だけつながったのが見えた。


 琴羽は鍵盤を押す。


 桃色の光が、二人の亀裂へ向かって伸びる。


「私も、いるよ」


 タンバリンを鳴らす。


 チン、と自分の耳に鳴る。


 でも、光は夜を渡る。


 天音がその桃色を見て、にやりとした。


「やっと道が見えた」


 《雷陣》を叩く。


 金色の拍が、自分の周りで跳ね返る。


 だが、天音はその跳ね返りを使った。


 腕の動きで、光の拍を置く。


 一、二、三、四。


 聴こえなくても、見える拍。


「ここだ。ここに乗れ」


 理央が紫の低音を置く。


 音は届かない。


 だが、地面に走る紫の線が、五人の足元をつないだ。


「音響ではなく、律の視覚化」


 理央は自分で言って、少し息を吐く。


「理屈はあとでいい」


 五色の光が、夜の中で同じ拍を探し始める。


 詠と澪の二重旋律。


 琴羽の桃色の和音。


 天音の金色の拍。


 理央の紫の根。


 五つはまだ完全には聴こえない。


 でも、見える。


 感じる。


 思い出せる。


 そして、そこには六番目の音もあった。


 詠の《祝華》の奥で、カナミの弦が震える。


 紫がかった桜色の残響。


 届かなかった音。


 それでも、消えなかった音。


 詠はその弦を鳴らした。


 今度は、自分の耳だけではなかった。


 澪の胸に、琴羽の指先に、天音の足元に、理央の低音の奥に、ほんの少しずつ触れていく。


 カナミの音は、孤立した五人の間を通る細い糸になった。


 ノクターンが息を呑む。


「なぜ」


「届かなかった音でも、残るから」


 詠が言う。


「カナミさんの音が、そうだった」


 澪が続ける。


「あなたの約束した音も、そう」


 ノクターンの仮面の下で、表情が歪む。


「あいつは、いない」


「いない」


 澪は否定しなかった。


「でも、あなたが今も弾いている」


「……」


「約束した相手が、今も音楽を続けている」


 澪の声が、今度は五人全員に届き始める。


「それは、その人の音があなたの中で終わっていないってこと」


 夜の結界が大きく裂けた。


 詠の耳に、琴羽のタンバリンが戻る。


 天音の拍が戻る。


 理央の低音が戻る。


 最後に、澪の《音幻》がはっきり聴こえた。


 詠は笑いそうになった。


 戦闘中なのに。


 怖いのに。


 それでも、澪の音が戻ってきたことが嬉しかった。


「澪!」


「詠」


 二人の声が今度こそ重なる。


 五人の音が、一斉に鳴った。


 孤立の夜が砕ける。


 昼の中庭が戻ってくる。


 風の音。


 生徒たちの声。


 遠くのボールの音。


 そして、五人の祝音。


 ノクターンは一歩退いた。


 夜の影が足元へ縮んでいく。


「……なぜだ」


 その声は、低く、かすれていた。


「なぜ、途切れると知っていて重ねる」


 詠は《祝華》を下ろさずに答えた。


「今、重ねたいから」


 澪も続ける。


「終わるかもしれないことは、今を偽物にしない」


 琴羽が小さく頷く。


「ひとりの音も本物だと思う」


 天音が言う。


「でも、閉じっぱなしじゃつまらない」


 理央が最後に言った。


「つながりは永続を保証しません。しかし、存在した事実は消えません」


 ノクターンは五人を見ていた。


 仮面の下の藍色の瞳が、深く揺れている。


「……甘い」


「うん」


 詠は認めた。


「サイレンシアにも言われた」


「その甘さが、ディスコード様の前で折れる」


「折れるかもしれない」


「それでもか」


「それでも」


 詠は言った。


「ひとりで終わりたくない」


 ノクターンは長い間、黙っていた。


 やがて、夜の影が薄くなる。


 敗走。


 五人には、それがわかった。


 だが、ノクターンは消える前に一度だけ振り返った。


「……あの曲」


 詠が顔を上げる。


「お前たちが歌った、あの曲」


 ノクターンの声は、とても小さかった。


「あいつが、好きそうな曲だった」


 それだけ言って、孤音は夜の影に溶けた。


 ※ ※ ※


 中庭に音が戻った。


 昼休みのざわめきが、少しずつ戻ってくる。


 けれど五人は、すぐには動かなかった。


 琴羽が目元を拭う。


「……今の、つらかった」


「うん」


 天音が短く答える。


「ひとりで叩くのは嫌いじゃないけど、あれは嫌だ」


 理央はノートを出して、また閉じた。


「今日は、記録より先に確認したいことがあります」


「何?」


 詠が聞く。


「全員、聴こえていますか」


 その問いに、五人は顔を見合わせた。


 天音がスティックを軽く打つ。


 小さな音。


 琴羽がタンバリンを当てる。


 澪が一音だけ弾く。


 理央が低音を置く。


 詠が最後に《祝華》を鳴らす。


 全部、聴こえる。


 五人は、同時に息を吐いた。


「聴こえる」


 詠が言った。


 澪も頷く。


「聴こえる」


 その言葉だけで、十分だった。


 放課後。


 詠と澪は少しだけ音楽準備室に残った。


 他の三人は先に帰っている。


 窓の外は夕方に変わりかけていた。


 澪は《音幻》をケースにしまわず、膝の上に置いている。


 詠も《祝華》を抱えたままだ。


「澪」


「何」


「さっき、歌ってた」


 澪の視線が少し逸れる。


「歌ったというほどじゃない」


「歌ってた」


「……」


「きれいだった」


 澪は黙った。


 耳のあたりが、少し赤い。


 詠は笑わないようにした。


「澪の声、好きだよ」


 澪が詠を見る。


「前にも言った」


「また言う」


 澪はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく息を吐く。


「ノクターンの約束した人」


「うん」


「幸せだったと思う」


「どうして?」


「ノクターンが、今も弾いているから」


 澪は《音幻》の弦に触れた。


「約束した相手が、いなくなっても、音楽をやめていない」


「うん」


「それは、きっと、その人の音が残っているということだから」


 詠は頷いた。


 カナミの六番目の弦が、小さく震える。


 届かなかった音も、残る。


 終わったように見える音も、誰かの中で続く。


 沈音と孤音。


 二つの否定を越えても、律の傷はまだ消えていない。


 窓の外、夕焼けの端に赤黒い揺らぎが見えた。


 熱のような。


 怒りのような。


 乱れた鼓動のような気配。


 澪がそれを見上げる。


「次は、静かじゃなさそう」


 詠も頷いた。


「うん」


 遠くで、何かが激しく鳴った。


 それは、乱れる音だった。



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