表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祝音少女《五色ノ契》〜音に選ばれた少女たちは、祝福の旋律で世界を救う〜  作者: たいしょう
第四譜 試練の変奏曲 -静と騒と虚と闇の四重奏-
PR
55/60

第五十五音 閉じた音にも意味はある

 澪の一音は、詠の耳には届かなかった。


 夜の結界の中で、詠が聴けるのは自分の《祝華》だけだ。


 澪の《音幻》も、天音の《雷陣》も、琴羽の《花奏鍵》も、理央の《幽紫》も、すぐそこにあるのに遠い。


 それでも、詠は顔を上げた。


 何かが触れた気がした。


 音ではない。


 風でもない。


 胸の奥を、藍色の細い光がかすめたような感覚。


「澪……?」


 声は自分の耳にしか返ってこない。


 澪は遠くに見える。


 実際には数歩先にいるだけのはずなのに、夜の深さが距離を歪めていた。


 詠は弦を握る。


 澪が今、こちらへ向けて弾いた。


 聴こえない。


 でも、わかる。


 ずっと一緒に鳴らしてきた音だから。


 サイレンシアの結界では、音が出なくても手が覚えていた。


 ノクターンの結界では、音が出ているのに届かない。


 なら、今度は何を信じればいい。


 詠は一度目を閉じた。


 澪の音を思い出す。


 静かで、少し冷たくて、でも奥に熱を隠している音。


 初めて合わせた時、詠の音を拒むようでいて、実はずっと耳を澄ませていた音。


 あの音が、どこかで鳴っている。


 詠は《祝華》を鳴らした。


 桜紅の音は、詠の耳にだけ返る。


 でも、それでいい。


 今は、自分の音を閉じたまま終わらせないことから始めるしかない。


「澪」


 詠は、届かない名前を呼んだ。


「聴こえなくても、いるから」


 その言葉が誰にも届かなくても、詠は弾いた。


 ※ ※ ※


 澪の世界では、詠の音は聴こえない。


 けれど、夜の結界の向こうで、桜紅の光が震えた。


 澪はそれを見た。


 詠が、こちらへ向けて弾いている。


 音は来ない。


 でも、姿勢でわかる。


 詠の肩の角度。


 右手の振り方。


 弦を押さえる左手の迷いのなさ。


 それは、澪に向けた音だった。


 澪の胸が小さく鳴った。


 ノクターンの言葉がまだ残っている。


 いずれ途切れる。


 どんな共鳴も、どんな約束も、終わる。


 確かに、そうかもしれない。


 詠の音がいつも隣にある保証はない。


 五人でいられる時間も、永遠ではない。


 それを考えると、胸の奥が冷える。


 昔の澪なら、そこで閉じた。


 失うくらいなら、最初から受け取らない。


 途切れるくらいなら、最初から重ねない。


 でも、今は。


「受け取ってよかった」


 声にしてみる。


 誰にも届かない。


 でも、自分には届く。


 澪は《音幻》を鳴らした。


 詠の光へ向けて。


 二つの音は、まだ互いに聴こえない。


 けれど、夜の結界の中で、桜紅と藍の光だけが少しずつ近づいていった。


 ノクターンが、二人の間に立つ。


「無駄だ」


 その声だけは届く。


「聴こえない相手へ弾くことに、何の意味がある」


 澪は答えた。


「意味があるかどうかは、あなたが決めることじゃない」


「届かなければ同じだ」


「届く前に、やめたら終わる」


 ノクターンの仮面の奥で、藍色の瞳が細くなる。


「その言葉は、誰の受け売りだ」


 澪は少しだけ息を呑んだ。


 詠が言った言葉に似ていた。


 でも、今は澪の言葉だった。


「私の言葉」


 澪は弦を強く弾いた。


 自分にしか聴こえないはずの音が、夜の結界をかすかに揺らす。


 ※ ※ ※


 琴羽は、その光を見ていた。


 詠の桜紅と、澪の藍。


 二つはまだ重ならない。


 でも、近づこうとしている。


 琴羽はタンバリンを握った。


 自分の音は、自分にしか聴こえない。


 けれど、二人が近づこうとしているのを見て、胸の奥に少しだけ火が灯る。


「私も」


 声は届かない。


 それでも言った。


「私も、そこに行きたい」


 鍵盤を押す。


 桃色の光が生まれる。


 詠にも澪にも聴こえないかもしれない。


 でも、光は見えるはずだ。


 自分の音が、誰にも届いていないように感じても。


 見える形で、そこにいると伝えられる。


 琴羽はタンバリンを当てた。


 チン、と自分の耳にだけ小さく鳴る。


 桃色の光が、桜紅と藍へ向かって伸びた。


 天音も、理央も、それを見た。


 天音は舌打ちする代わりに、拍を刻んだ。


 自分にしか聴こえない拍。


 でも、腕の動きは見える。


 理央は《幽紫》の低音を鳴らしながら、全員の位置を目で追った。


 聴こえないなら、見る。


 見えないなら、思い出す。


 思い出せるほど、五人は一緒に鳴ってきた。


「認識経路が切断されているだけです」


 理央は自分に言い聞かせるように呟いた。


「関係そのものが消えたわけではありません」


 紫の光が、足元に広がる。


 五色の光は、まだばらばらだった。


 けれど、ひとりずつ閉じ込められた夜の中で、互いのいる場所を探し始めていた。


 ノクターンが立ち止まる。


「なぜだ」


 低い声に、ほんの少しだけ苛立ちが混じった。


「音は届いていない」


 詠が答える。


「でも、いる」


「いるだけで、何になる」


「弾ける」


「ひとりでか」


「ひとりでも」


 詠は《祝華》を鳴らした。


「でも、ひとりで終わらせない」


 ノクターンの夜が、深くなる。


「終わる」


 声が低く沈む。


「必ず終わる」


「お前たちは、今隣にいる相手が、明日も隣にいると思っている」


「次の曲も、その次の曲も、一緒に鳴らせると思っている」


「だが、終わる」


 夜の奥に、別の景色が滲んだ。


 詠たちは、それを同時に見た。


 古い駅のホーム。


 雨。


 黒いケースを持った誰かが、時計を見上げている。


 隣にいるはずの人を待っている。


 顔は見えない。


 けれど、ノクターンだとわかった。


 まだ今ほど夜をまとっていない。


 手には、黒いヴァイオリンのケース。


 ホームの端で、もう一つの楽器ケースを抱えた人を待っている。


 来ない。


 時計の針だけが進む。


 電車の音が、遠くで鳴る。


 その音が急に途切れた。


 雨が強くなる。


 知らせが来る。


 事故。


 間に合わなかった。


 さよならも言えなかった。


 最後まで一緒に音を紡ごうと約束した人は、音もなくいなくなった。


 記憶はそこで途切れた。


 夜の中庭に戻る。


 ノクターンは動いていない。


「見たか」


 声は静かだった。


「約束など、そういうものだ」


 詠は言葉を失った。


 さっきまで反論しようとしていた言葉が、喉の手前で止まる。


 ノクターンの痛みは、本物だった。


 約束を信じたから、失った。


 一緒に鳴るはずだった音が、鳴る前に途切れた。


「だから、閉じる」


 ノクターンが言う。


「ひとりの音なら、奪われない」


「ひとりの音なら、約束しなくていい」


「ひとりの音なら、失わない」


 澪は、夜の中でその言葉を受け止めていた。


 痛い言葉だった。


 わかる、と思ってしまう。


 閉じていれば、失わない。


 ひとりで弾いていれば、誰かを待たなくていい。


 誰かが来ないホームに立たなくていい。


 でも。


 澪は詠の光を見た。


 桜紅の音が、まだこちらを探している。


 琴羽の桃も、天音の金も、理央の紫も、ばらばらの場所から手を伸ばしている。


 終わるかもしれない。


 失うかもしれない。


 それでも、自分はもう受け取ってしまった。


 受け取ってよかったと思ってしまった。


「ノクターン」


 澪は呼んだ。


 届いているかはわからない。


 それでも呼ぶ。


「あなたの約束は、壊れたんじゃない」


 ノクターンの瞳が、澪へ向く。


「何を」


「果たせなかった」


 澪は言った。


「でも、なかったことにはならない」


 夜が揺れる。


「約束した音は、鳴る前に終わったかもしれない」


 澪の声が、少しだけ震えた。


「でも、あなたが今もその音を覚えているなら」


「覚えているから、苦しい」


 ノクターンの声が低くなる。


「忘れられないから、閉じた」


「閉じても、覚えている」


 澪は《音幻》を構える。


「なら、その音はまだ終わってない」


 ノクターンの結界に、細い亀裂が入った。


 詠がそれを感じた。


 音ではない。


 でも、夜の奥で何かが震えた。


「澪」


 詠は歌い始めた。


 聴こえないはずの歌。


 自分にしか返らない声。


「ひとりで弾いてた、あの頃の音も」


 澪の指が止まる。


 詠の声は聴こえない。


 でも、光が揺れている。


 詠が歌っているとわかった。


 澪も口を開いた。


 歌うことには慣れていない。


 でも、今は言葉より歌のほうが届く気がした。


「閉じた夜にも、確かに音はあった」


 二人の声は互いに聴こえない。


 それでも、同じ場所へ向かっていた。


 詠が歌う。


「誰も聴いてなくても、消えなかった」


 澪が重ねる。


「誰かを待っていたから、痛かった」


 夜の結界が震える。


 ノクターンが一歩退いた。


「やめろ」


「今ここで、鳴っている」


 詠と澪の言葉が、初めて重なった。


 聴こえないはずなのに。


 違う場所から歌っているはずなのに。


 同じ言葉が、同じ拍で重なった。


「今ここで、鳴っている」


 孤立の夜に、亀裂が走る。


 詠の耳に、ほんの一瞬だけ藍色の響きが触れた。


 澪の耳に、ほんの一瞬だけ桜紅の声が触れた。


 まだ結界は砕けない。


 けれど、完全な孤立ではなくなった。


 ノクターンの仮面の奥で、藍色の瞳が揺れる。


「聴こえるはずがない」


 声が、初めて乱れた。


「切り離した。確かに、切り離した」


 詠は息を吸う。


 澪も、同じタイミングで息を吸った。


 二人は互いの声をほとんど聴けていない。


 それでも、次の音へ進める。


 ノクターンの夜はまだ深い。


 でも、その夜の端に、五色の光が細く線を引き始めていた。


 未完成の約束は、まだ終わっていない。


 その言葉が、結界の奥で静かに鳴っていた。



少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ