第五十四音 孤音、ひとりの夜想曲
サイレンシアが消えた翌朝、澪はいつもより早く音楽準備室に来ていた。
校舎はまだ静かだった。
朝練の運動部が遠くで声を出している。廊下を誰かが歩く音が、ときどき壁の向こうを通る。
昨日の正門前とは違う。
音はある。
ちゃんと、ある。
澪は《音幻》をケースから出し、膝の上に置いた。
弦に指を触れる。
鳴る。
当たり前のことを確認するように、一音だけ弾いた。
藍色の響きが、朝の準備室に広がる。
澪はその音が空気へ溶けるまで、じっと聴いていた。
鳴る。
届く。
それだけで、昨日より少し呼吸がしやすい。
けれど、胸の奥には別の不安が沈んでいた。
沈音の次に来るもの。
サイレンシアが消えたあと、空の奥に滲んだ深い夜の気配。
ミヨリはそれを「孤音」と呼んだ。
ひとりで閉じる否定。
ノクターン。
澪は、もう一度弦を弾いた。
今度は少しだけ長いフレーズ。
ひとりで弾くには、ちょうどいい旋律だった。
昔の自分なら、それだけで満足していたかもしれない。
誰にも聴かせない。
誰にも合わせない。
自分の中だけで完結する音。
それは静かで、傷つかない。
でも、今は違う。
自分の音しかない部屋が、少し広すぎる。
「……早いね」
扉が開いた。
詠だった。
ギターケースを背負い、少し眠そうな顔をしている。
澪は手を止めた。
「詠も早い」
「寝坊しそうだったけど、なんか目が覚めちゃって」
詠は中へ入り、《祝華》を椅子に立てかける。
「昨日のこと?」
「……少し」
澪が答えると、詠は隣に座った。
「私も」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
朝の準備室に、外の足音だけが薄く聞こえる。
詠が《祝華》を取り出し、軽く弦を鳴らした。
桜紅の音。
そこに、澪が藍の音を重ねる。
昨日、サイレンシアの結界の中では出せなかった音。
二つの音が触れ合った瞬間、澪の肩から少し力が抜けた。
「……鳴るね」
詠が言う。
「鳴る」
澪は短く答えた。
「よかった」
「うん」
本当に、よかった。
でも、澪はその言葉を口にしなかった。
詠は澪の横顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「澪」
「何」
「次の敵、気になる?」
澪は弦を見た。
「孤音」
「うん」
「たぶん、私が知ってる音」
詠はすぐに聞き返さなかった。
待ってくれる。
澪は、その沈黙がありがたかった。
「詠に会う前、私はずっとひとりで弾いてた」
「うん」
「誰にも届けるつもりはない、って思ってた。ひとりで完結していれば、傷つかないから」
「でも、本当は?」
澪は少しだけ目を伏せる。
「本当は、聴いてほしかったのかもしれない」
詠の指が、弦の上で止まった。
澪は続ける。
「でも、聴かれるのは怖い。受け取られるのも怖い。だから、ひとりのほうが楽だった」
「……今は?」
「今は」
澪は詠を見る。
「ひとりに戻るのが、怖い」
詠は何も言わなかった。
代わりに、短いコードを鳴らした。
澪はそれに合わせる。
二つの音が、朝の空気にゆっくり広がっていく。
「戻らないよ」
詠が言う。
「私たち、いるから」
澪は小さく頷いた。
その言葉は、簡単だ。
簡単で、危うい。
でも、今はそれを信じていたかった。
※ ※ ※
昼休み。
五人は中庭にいた。
昨日の戦いの疲れは残っている。けれど、音楽準備室にこもっているより、外の音を聴いていたい気分だった。
風が木を揺らす。
誰かの弁当箱が開く音。
遠くでバスケットボールが弾む音。
どれも、昨日取り戻したばかりの音のように思える。
琴羽は卵焼きを箸でつまみながら、ふっと笑った。
「なんか、普通の音ってありがたいね」
「昨日の後だとな」
天音が頷く。
「でも、ちょっと音に敏感になりすぎてる気がする」
「それはあります」
理央が弁当箱を閉じた。
「昨日から記録を見直しましたが、沈音の結界は楽器音だけを封じていました。声は残した。つまり、サイレンシア自身の中で、声と音楽は別扱いだった」
「声も音なのに?」
琴羽が聞く。
「物理的には。ですが、彼女の傷においては違うのでしょう」
詠は校門のほうを見た。
昨日、サイレンシアが消えた場所。
もう白い霧はない。
それでも、そこに残った静けさを思い出せる。
「次の敵も、そうなのかな」
「何が?」
天音が聞く。
「その人だけの決め方があるのかなって。音はこういうもの、だから無意味だ、みたいな」
「あるじゃろうな」
ミヨリが詠の肩で答えた。
「四奏卿は、ディスコードの思想をただ借りておるわけではない。自分の傷から同じ結論に辿り着いた者たちじゃ」
「次は、孤音」
澪が言った。
その瞬間だった。
中庭の音が、遠ざかった。
沈音のときのように消えるのではない。
一つずつ、切り離されていく。
風の音はある。
人の声もある。
ボールの音もある。
けれど、それぞれが別々の箱に入れられたように、互いに混ざらない。
詠は顔を上げた。
空が暗い。
昼なのに、中庭の中央だけが夜の色に染まっている。
深い紺色の影が、地面へ落ちていた。
その影の中心に、ひとり立っている。
黒いコート。
顔の半分を覆う黒い仮面。
仮面の奥に見える瞳は、夜の底みたいな藍色だった。
「《五色ノ契》」
声は低く、静かだった。
サイレンシアの声は音を沈めた。
この声は、音を遠ざける。
近くにあるのに、触れられないところから届く。
「お前たちの音を、聴かせてもらった」
詠は立ち上がる。
「あなたが、ノクターン?」
「孤音。ノクターン」
黒い存在は、五人を見渡した。
「サイレンシアが持ち帰った残響で、お前たちの音を聴いた」
「サイレンシアが……」
琴羽が呟く。
ノクターンは頷きもしない。
「よく響いている」
その声には、褒める響きがあった。
けれど、温かさはなかった。
「だから、惜しい」
澪が立ち上がる。
「惜しい?」
「共鳴など、長続きしない」
中庭の空気が、さらに暗くなる。
「どれほど美しく重なっても、音はいつか離れる」
「離れない」
詠が言う。
「そう信じているだけだ」
ノクターンの視線が詠から澪へ移った。
「お前は、知っているはずだ」
澪の指が、《音幻》のケースを握る。
「何を」
「ひとりの音のほうが、傷つかない」
澪の息が止まった。
ノクターンは続ける。
「誰にも合わせなければ、ずれない」
「誰にも届かせなければ、拒まれない」
「誰とも約束しなければ、失わない」
詠が澪の前に出かける。
澪が、手で止めた。
「大丈夫」
声は小さい。
でも、澪は前を向いていた。
ミヨリが低く言う。
「来るぞ。こやつは、音を消すのではない」
「じゃあ、何を」
天音がスティックを構える。
「音と音の間を切る」
ノクターンの黒いコートが揺れた。
夜の影が、中庭全体に広がっていく。
「証明してやろう」
ノクターンが手を上げる。
「共鳴は錯覚だ」
「奏装!」
詠が叫ぶ。
五人の祝具が同時に光る。
桜紅、藍、桃、金、紫。
五色の光が昼の中庭に走り、夜の影とぶつかった。
変身は一瞬。
制服が祝装へ変わり、五人はそれぞれの位置に立つ。
詠が前。
澪が横。
天音が後ろ。
琴羽が包む位置。
理央が根音を置く位置。
いつもの形。
だが、ノクターンは静かに言った。
「《断絶協奏曲》」
夜が落ちた。
「アイソレイト・コンチェルト」
五人の世界が、切り離された。
※ ※ ※
詠は、最初に澪の音を失った。
いつも隣にある藍色の気配が、ふっと消える。
次に天音の拍。
足元を支えていた金色の鼓動がなくなる。
琴羽の和音も、理央の低音も、順番に遠ざかった。
「みんな?」
詠の声は出た。
でも、返事がない。
見えてはいる。
澪も、琴羽も、天音も、理央も、すぐそこにいる。
それなのに、音だけが届かない。
詠は《祝華》を弾いた。
音は出る。
はっきり鳴る。
けれど、聴こえるのは自分のギターだけだった。
五人でいるのに、自分の音しかない。
「……これが、孤音」
詠は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
沈音は、音を消した。
孤音は、音を閉じる。
鳴っているのに、誰にも混ざらない。
それは、別の怖さだった。
※ ※ ※
澪の世界にも、音はあった。
《音幻》は鳴る。
弦は震える。
藍色の響きは、確かに耳へ届く。
けれど、それだけだった。
詠の桜紅がない。
天音の拍がない。
琴羽の和音がない。
理央の低音がない。
自分の音だけが、夜の中庭に浮かんでいる。
「……知ってる」
澪は呟いた。
この感じを知っている。
誰にも合わせず、誰にも届かせず、ただ自分の中で音を閉じていた頃。
静かで、冷たくて、傷つかない。
昔は、それでよかった。
それが普通だった。
でも今は。
澪の指が震えた。
自分の音しかないことが、怖い。
詠に出会う前の自分へ、急に引き戻されるようだった。
「……戻りたくない」
その声は、自分にしか聴こえない。
澪は《音幻》を強く握った。
※ ※ ※
琴羽は、泣きそうになっていた。
タンバリンを鳴らす。
チン、と小さな音がする。
その音は、いつもならみんなの隙間に入る。
詠の歌を明るくして、澪の旋律を柔らかくして、天音の拍に花を添えて、理央の低音の上で跳ねる。
でも今は、自分の耳にだけ返ってきた。
「届いてない……」
手が震える。
サイレンシアの時は音が出なかった。
今は音が出ている。
それなのに、誰にも届いていない。
琴羽にとっては、こちらのほうが苦しかった。
「みんな、いるのに」
声も、届かない。
目の前にいるのに。
すぐそこにいるのに。
琴羽は、タンバリンを胸に抱きしめた。
※ ※ ※
天音は、苛立っていた。
《雷陣》を叩く。
音は出る。
強く、鋭く、腹の底に響く打音。
だが、誰の足元にも置けない。
詠がどこで入るのか、澪がどこへ伸ばすのか、琴羽がどこを包むのか、理央がどこで支えるのか。
何もわからない。
「拍だけあっても、意味ねえだろ」
天音は歯を食いしばる。
ひとりで叩く太鼓は嫌いではない。
だが、今の太鼓はひとりで完結していない。
みんなを支えるために叩いている。
その相手が聴こえない。
「ふざけるな」
天音はさらに強く叩いた。
だが、音は自分の周りで跳ね返るだけだった。
※ ※ ※
理央は、すぐに状況を分析しようとした。
聴覚リンクの切断。
声の遮断。
視覚情報は維持。
各自の音は発生している。
音波そのものを消しているのではなく、他者の音として認識する経路を閉じている。
そこまではわかる。
だが、対処法が出ない。
理央は《幽紫》を鳴らした。
低音が響く。
自分の耳には。
「根音を置いても、誰にも届かなければ支えにならない」
言葉にして、理央は少しだけ唇を噛んだ。
支えにならない。
その結論が、思った以上に痛かった。
※ ※ ※
夜の中庭を、ノクターンが歩いていた。
五人のあいだを、ゆっくりと。
まるで、それぞれの孤独を確認するように。
「どうだ」
その声だけは、全員に届いた。
「これが本当の音楽だ」
詠はノクターンを見る。
「違う」
「各自が、自分の音だけを奏でる」
ノクターンは詠の反論を聴いていないように続ける。
「他者の音など、最初から幻想だ」
澪が顔を上げる。
「幻想じゃない」
「そう思っているだけだ」
ノクターンの声は低い。
「いずれ途切れる」
その言葉が、夜の結界に沈む。
「どんな共鳴も」
「どんな約束も」
「どんなに強く重なった音も」
「終わる」
澪の胸が、冷えた。
終わる。
その言葉は、澪の怖さに触れた。
詠と出会って、五人で鳴ることを知って、ひとりではない音を覚えた。
だからこそ、それがなくなることが怖い。
ノクターンは、そこを突いてくる。
「終わるなら、最初から閉じていればいい」
ノクターンの藍色の瞳が、澪を見た。
「お前は、そのほうが楽だったはずだ」
澪は答えようとした。
声が出る。
けれど、その声は自分の耳にしか届かない気がした。
ノクターンは静かに手を上げる。
夜の結界が、さらに深くなる。
詠の姿が遠ざかる。
実際の距離は変わっていない。
それなのに、遠い。
澪は手を伸ばしかけて、止めた。
届かないかもしれない。
その思いが、指を止めた。
「……戻りたくない」
澪はもう一度呟いた。
今度は、自分のためだけではなかった。
詠に届かなくても。
みんなに届かなくても。
それでも、戻りたくない。
澪は《音幻》を構え直した。
夜の中で、自分の音だけが鳴っている。
怖い。
でも、今の澪は、その怖さを知っている。
知っているから、次の音を鳴らせる。
ノクターンの結界は、まだ深い。
五人の音は、まだ互いに届かない。
それでも澪は、昔のように音を閉じなかった。
詠のいる方角へ向かって、届かないかもしれない一音を弾いた。
藍色の音が、孤独な夜に落ちた。
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