第五十三音 鳴らすことを選ぶ
無音の演奏は、最初、ただの動きにしか見えなかった。
詠の右手が弦を払う。
澪の指が《音幻》のネックを滑る。
天音のスティックが見えない太鼓面を叩く。
琴羽の指が鍵盤を押し、タンバリンを持つ手が揺れる。
理央の左手が低音の位置を押さえる。
音は出ない。
拍もない。
旋律もない。
それでも、五人の動きは少しずつ揃っていった。
完全に同じではない。
詠は少し前のめりで、澪は静かに置く。天音は腕で拍を刻み、琴羽は全体を包むように動く。理央はほとんど表情を変えず、足元に見えない根を下ろしている。
サイレンシアは、その光景を見ていた。
「何をしている」
声に、かすかな苛立ちが混じる。
「音は出ていない」
詠は答えなかった。
答える代わりに、もう一度弦を払う。
音は出ない。
でも、指先に振動が残る。
それはとても小さな感触だった。耳には届かない。外にも広がらない。サイレンシアの結界に沈められ、鳴ったことすら世界から隠されている。
けれど、手にはある。
自分が弾いたという感触が、手に残っている。
詠はその感触を離さなかった。
「無駄だ」
サイレンシアが言う。
「音がなければ、誰にも届かない」
澪が静かに弦を押さえる。
「届いてる」
「どこに」
「私の手に」
サイレンシアの瞳が細くなる。
「それは自己満足だ」
「そうかもしれない」
澪は少しも揺れずに答えた。
「でも、自己満足がなければ、最初の一音も鳴らない」
白い霧がざわめいた。
音はない。
けれど、結界の表面が震えた。
天音がそれを見逃さなかった。
「効いてる」
「音は出ていません」
理央が言う。
「でも、結界の律が乱れている」
「じゃあ続ける」
天音がスティックを振る。
音はない。
だが、腕の軌道が拍を描く。
一、二、三、四。
天音の口が小さく動いた。
数えている。
声には出していない。
でも、詠にはわかった。
天音が置く拍を、何度も聴いてきたからだ。
詠はその拍に合わせる。
澪が半拍遅れて入る。
琴羽が二拍目の終わりに和音を置く。
理央が四拍目の底を支える。
音はない。
それでも、五人の中に合奏が生まれる。
見えない譜面が、五人の間に広がっていく。
「なぜ」
サイレンシアの声が、少しだけ震えた。
「なぜ、合わせられる」
琴羽が鍵盤から目を上げた。
「ずっと、合わせてきたから」
「音がない」
「音がある時に、いっぱい練習したから」
琴羽は涙を拭わなかった。
「音が出ない今でも、みんなの入り方がわかる」
「そんなもの」
サイレンシアが手を上げる。
白い霧が刃になって走った。
今度は、詠ではなく琴羽を狙う。
琴羽は避け遅れた。
だが、天音が踏み込む。
音のない《雷陣》で、霧の刃を受けた。
衝撃だけが腕に走る。
「っ……!」
天音の顔が歪む。
音がないから、痛みだけが残る。
琴羽が息を呑む。
「天音ちゃん」
「止めるな」
天音は言った。
「ここ、二拍目だろ」
琴羽の目が見開かれる。
天音は笑っていない。余裕もない。それでも、次の拍を置く腕は止まらない。
琴羽は鍵盤に指を戻した。
音は出ない。
でも、和音の形は戻った。
白い霧に、また亀裂が走る。
今度はさっきより太い。
理央が《幽紫》を構え直した。
「サイレンシア」
「何だ」
「あなたは、音が届かなかった痛みを知っている」
「知っている」
「だから、私たちの音を止めている」
「そうだ」
「ですが、今あなたは私たちを見ている」
理央の声は淡々としていた。
「音が出ない演奏を、ずっと見ている」
サイレンシアが動きを止める。
「なぜですか」
「……」
「無意味なら、見る必要はない」
「黙れ」
初めて、サイレンシアの声が荒れた。
「音がなくても、あなたは私たちの演奏から目を離せない」
理央の指が弦を押さえる。
「それは、音が耳だけにあるものではないという証拠です」
「黙れと言っている」
白い霧が一気に膨らんだ。
結界が五人を押し潰そうとする。
音のない圧力。
詠は膝をつきかけた。
だが、弦から指を離さなかった。
サイレンシアの過去が頭に残っている。
小さな部屋で、笛を吹いていた少女。
舞台袖で、届いたかどうかわからずに立ち尽くしていた少女。
病院の廊下で、笛のケースを抱えていた少女。
その子に向かって、ただ「間違っている」とは言えない。
でも。
「間違ってなくても」
詠は声に出した。
サイレンシアが詠を見る。
「あなたの静けさが、あなたを守ったことは、間違ってない」
白い霧の圧力が一瞬だけ弱まる。
「でも、それで私たちの音を止めるのは違う」
詠は《祝華》を強く握った。
「私は、鳴らす」
「鳴らない」
「鳴らす」
「届かない」
「それでも、鳴らす」
サイレンシアの灰色の瞳が揺れる。
「なぜ」
「届けたいから」
「傷つくだけだ」
「傷つくかもしれない」
「届かなかったら」
「また鳴らす」
詠は震えていた。
怖い。
本当は怖い。
カナミに声を封じられた時の恐怖も、律の穴で音が届かなかった時の冷たさも、今の沈黙も、全部怖い。
でも、もう知っている。
怖いからやめるのではない。
怖いまま、鳴らす。
「私たちは、音を諦めない」
その言葉が、結界の中でまっすぐ立った。
五人の手が、同時に動く。
詠の弦。
澪の旋律。
天音の拍。
琴羽の和音。
理央の根音。
そして、五人の祝具の奥にある、六番目の残響。
カナミの音。
音は、まだ出ない。
けれど、動きが重なる。
呼吸が重なる。
視線が重なる。
白い霧に走った亀裂が、一気に広がった。
サイレンシアが後ずさる。
「やめろ」
その声には、もう平坦さがなかった。
「音がないのに、なぜ」
「あるから」
澪が言う。
「耳にないだけ」
琴羽が続ける。
「手にある」
天音が言う。
「体にある」
理央が言う。
「記憶にあります」
詠が最後に言った。
「ここにある」
胸に手を当てる。
その瞬間、結界が砕けた。
音が戻ってきた。
最初に戻ったのは、天音の拍だった。
どん、と低い打音が正門前を揺らす。
次に理央の低音。
足元を支える紫の響き。
琴羽の和音がその上に広がり、澪の藍色の旋律が白い霧を切り裂く。
そして、詠の《祝華》が鳴った。
桜紅の音が、夕暮れの空に弾ける。
六番目の弦が、その奥で静かに震えた。
カナミの残響は、泣いていなかった。
今日は、背中を押す音だった。
「響け、五色ノ祝音」
詠が歌う。
「途切れた律を、もう一度つなぐために」
五人の音が白い霧を押し返す。
サイレンシアは腕で顔をかばった。
だが、詠は攻撃の形を取らなかった。
剣のような音ではなく、手を差し出すような音。
澪の《静波律》が霧の荒れを鎮め、琴羽の和音がその内側を包む。天音の拍が逃げ道を塞がず、理央の低音がただ場を支える。
サイレンシアの白い装束が揺れた。
「なぜ撃たない」
「撃ちたいわけじゃない」
詠が答える。
「じゃあ、何をしている」
「聴いてほしい」
「私は聴かない」
サイレンシアの手がイヤーマフに触れる。
「私は、もう聴かない」
「それでも」
詠は六番目の弦をそっと鳴らした。
今度は、音が出た。
小さな音。
届かなかった音を知っている残響。
それはサイレンシアを責めなかった。
静けさを否定もしなかった。
ただ、白い霧の中にある小さな笛の記憶へ寄り添った。
サイレンシアの灰色の瞳が、見開かれる。
「……やめろ」
声が震えている。
「それは、私の音じゃない」
「あなたの音は、死んでない」
詠は言った。
サイレンシアが首を振る。
「死んだ」
「死んでない」
「私はもう吹けない」
「でも、今の声に感情が乗ってる」
サイレンシアが固まった。
「やめろって言った声、怒ってた。怖がってた」
詠は一歩前へ出る。
「音は、まだある」
サイレンシアの顔が歪んだ。
白い霧が再び集まる。
だが、さっきまでのように五人を包む力はない。
結界を破られたサイレンシアの姿が、少しずつ薄くなっていく。
「……お前たちは」
サイレンシアは詠を見た。
「まだ何もわかっていない」
「そうかもしれない」
詠は答える。
「ディスコード様の前では、その音も、絆も、全部無意味になる」
サイレンシアの声は、また静かになっていた。
けれど、完全な無感情ではなかった。
揺れを押し殺している声だった。
「そのとき、お前たちはどうする」
詠はすぐには答えなかった。
答えられるほど、簡単な問いではない。
ディスコード。
カナミを数百年の絶望へ沈め、四奏卿を集め、律の穴で街を囲もうとしている否定の根。
その前で、自分たちの音が本当に届くのか。
わからない。
でも。
「その時も、鳴らす」
詠は言った。
「怖くても、わからなくても、鳴らす」
サイレンシアは長く詠を見ていた。
灰色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、小さな光が浮かんだ気がした。
それが怒りなのか、悲しみなのか、別の何かなのかはわからない。
「……甘い」
サイレンシアの声が遠ざかる。
「その甘さが、いつかお前たちを沈める」
白い霧がほどけていく。
サイレンシアの姿が、校門前の夕暮れに溶ける。
最後に、彼女はイヤーマフに触れた。
外すことはなかった。
ただ、その指が少しだけ震えていた。
「次は、逃げない」
そう言い残して、沈音は消えた。
※ ※ ※
音が戻った正門前に、ざわめきが広がった。
遠巻きにしていた生徒たちの声。
先生が走ってくる足音。
木々の葉擦れ。
校門の金属が風に揺れる音。
全部が少しずつ戻ってくる。
琴羽はその場に座り込んだ。
「戻った……」
天音が大きく息を吐く。
「音があるって、うるさいな」
「うるさいくらいでいい」
澪が言う。
その声に、少しだけ疲れが混じっていた。
理央はノートを開きかけ、手を止めた。
「記録は後にします」
「珍しい」
詠が言うと、理央は静かに頷いた。
「今は、音を聴いておきたい」
五人はしばらく黙っていた。
戻ってきた音を、ただ聴いた。
風。
足音。
誰かの笑い声。
遠くのチャイム。
それらは特別な音ではない。
でも、失いかけた後では、どれも胸に触れた。
ミヨリが詠の肩に戻る。
「一人目を退けたの」
「うん」
「じゃが、勝っただけではない」
「わかってる」
詠はサイレンシアが消えた場所を見る。
「あの人の音は、まだ沈んだままだ」
「うむ」
「でも、死んでなかった」
「うむ」
詠は《祝華》の弦を軽く撫でた。
六番目の弦が、小さく応える。
カナミの音も、そうだった。
死んでいない。
届かなかっただけ。
受け取れなかっただけ。
なら、サイレンシアの音も、いつか。
そう思いかけて、詠は首を振った。
簡単に救えると思ってはいけない。
サイレンシアはまだディスコードの側にいる。次は逃げないと言った。
今日届いたのは、たぶん、ほんの少しだけだ。
それでも、ゼロではない。
詠は校門の向こうを見た。
空の奥の律の傷は、まだ消えていない。
むしろ、白い霧が去ったあと、別の暗さが遠くに滲んでいる。
深い夜のような気配。
誰かの音を、ひとりきりに閉じ込める気配。
澪がそれに気づいたように、空を見上げた。
「次が来る」
「うん」
詠は頷く。
沈んだ音の次に来るもの。
それは、孤独な音だった。
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