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祝音少女《五色ノ契》〜音に選ばれた少女たちは、祝福の旋律で世界を救う〜  作者: たいしょう
第四譜 試練の変奏曲 -静と騒と虚と闇の四重奏-
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第五十二音 静けさの試練

 音のない舞台で、五人は立ち尽くしていた。


 白い霧の結界が、正門前を半球状に覆っている。


 外では生徒たちが遠巻きにこちらを見ていた。口が動いている。誰かが先生を呼んでいる。けれど、その声は結界の中には入ってこない。


 中にあるのは、サイレンシアの声だけだった。


 そして、五人の声。


 それ以外の音は、すべて沈められている。


 詠は《祝華》の弦に指を置いたまま、息を整えようとした。


 呼吸音すら薄い。


 胸は動く。息は出入りしている。でも、体が鳴っていない。


 生きているのに、自分の輪郭が曖昧になる。


「これが、沈音」


 理央が小さく言った。


「物理的な消音ではありません。音を出そうとする祝具の律そのものが、手前で止められている」


「対処法は」


 天音が聞く。


「解析中です」


「急げ」


「急いでいます」


 理央の声は冷静だったが、いつもより少し速い。


 琴羽は鍵盤に手を置いたまま、何度も押していた。


 音は出ない。


 それでも、指は動く。


 詠はその姿を見た。


 琴羽は泣きそうな顔をしている。でも、鍵盤から手を離さない。


 澪も同じだった。


 《音幻》を構えたまま、弦を押さえている。


 鳴らない弦に、指を置き続けている。


 サイレンシアが、それを見ていた。


「無駄だ」


 灰色の瞳が、五人を順に映す。


「音は出ない」


「だから、何」


 澪が答えた。


 短い声だった。


 サイレンシアが澪を見る。


「音が出なければ、演奏は成立しない」


「そうかもしれない」


「なら、なぜ構えている」


 澪はすぐに答えなかった。


 《音幻》のネックを握る指に、力が入る。


「離したら、もっと怖いから」


 その言葉に、詠は澪を見た。


 澪の横顔は静かだった。けれど、唇が少しだけ白い。


 怖い。


 澪がそう言った。


 それだけで、詠の胸の奥が少し熱くなる。


 怖いのは自分だけではない。


 でも、怖いまま立っている。


 サイレンシアは、かすかに首を傾けた。


「怖いなら、離せばいい」


「離したら、私の音じゃなくなる」


「音は出ていない」


「出ていなくても」


 澪は弦を押さえた。


 音は出ない。


 けれど、その指の形を詠は知っている。


 澪がよく使う和音の形。


 静かな夜に弾く、澪らしい響きの形。


「私は、今も弾いている」


 サイレンシアの瞳が、初めてわずかに揺れた。


「……それは、強がりだ」


「そうかも」


 澪は認めた。


「でも、強がりでも手を離さない」


 沈黙が落ちる。


 音のない沈黙。


 けれど、今の沈黙は、少しだけ違っていた。


 サイレンシアがゆっくりとイヤーマフに触れた。


「聞かせてやる」


「何を」


 詠が問う。


「音が鳴らないことが、どれほど優しいか」


 白い霧が濃くなる。


 五人の足元に、淡い光が広がった。


 それは映像ではなかった。


 音のない記憶。


 サイレンシアの中に沈んでいる過去が、結界の中に滲み出していく。


 ※ ※ ※


 小さな部屋が見えた。


 木の床。古い譜面台。壁に掛かった白い笛。


 幼いサイレンシアが、笛を吹いている。


 音は、聴こえない。


 けれど、少女の頬の膨らみ、指の動き、目の輝きでわかる。


 その音は、きっときれいだった。


 誰かに聴いてほしくて、胸いっぱいに息を吸っている音だった。


 次の場面では、少女は舞台に立っていた。


 客席には人がいる。


 拍手をしているはずの手が見える。


 でも、音はない。


 少女の笛も、客席のざわめきも、何も聴こえない。


 ただ、少女の顔だけが少しずつ曇っていく。


「届かなかった」


 サイレンシアの声が重なる。


「届いたのかもしれない。けれど、私にはわからなかった」


 映像の中の少女が、舞台袖で笛を抱えている。


 誰かが通り過ぎる。


 口が動く。


 きっと、よかったよ、と言ったのかもしれない。


 でも、少女の耳には届いていない。


 次の記憶。


 病院の白い廊下。


 少女は椅子に座り、両手で笛のケースを抱えていた。


 大人が何かを説明している。


 治るかもしれない。


 治らないかもしれない。


 そんな言葉が、音ではなく意味だけで流れ込んでくる。


 少女は頷く。


 泣かない。


 ただ、ケースを強く抱いた。


「自分の音が、聴こえなくなった」


 サイレンシアの声は平坦だった。


「吹いても、確かめられない。誰かが聴いたと言っても、信じられない。拍手も、慰めも、全部遠かった」


 映像の少女は、部屋で笛を構える。


 息を入れる。


 指を動かす。


 音はない。


 少女は何度も吹く。


 何度も。


 何度も。


 やがて、手が止まる。


 笛を膝に置く。


 その時だけ、少女の表情が少しだけ緩んだ。


 安心したみたいに。


「音が鳴らないと、傷つかない」


 サイレンシアが言う。


「届いたかどうか、考えなくていい」


 映像の少女はイヤーマフをつける。


 世界からさらに音を遠ざける。


「静けさは、裏切らない」


「静けさは、期待させない」


「静けさは、届かない痛みを生まない」


 白い霧の奥に、黒い影が現れた。


 形はない。


 けれど、詠たちはその気配を知っている。


 ディスコードの根に近い否定。


 音に意味はない、と囁くもの。


 影は少女に近づき、耳元で何かを告げる。


 音はない。


 それでも意味だけがわかる。


 お前の静けさは正しい。


 音を捨てれば、もう傷つかない。


 少女は顔を上げる。


 そして、初めて笑った。


 嬉しそうではなかった。


 救われたようでも、なかった。


 ただ、痛みを感じなくなった人の笑みだった。


 ※ ※ ※


 記憶が消えた。


 白い結界の中に、五人とサイレンシアだけが残る。


 琴羽は涙をこらえていた。


 天音はスティックを握りしめている。


 理央は言葉を探すように唇を結んだ。


 澪は、サイレンシアを見ていた。


「……だから、音を奪うの」


 詠が言う。


 サイレンシアは頷く。


「音は期待を生む」


「期待は傷を生む」


「なら、鳴らさないほうがいい」


「それは」


 詠は言いかけて、止まった。


 かわいそう。


 そう言いそうになった。


 でも、それは違う気がした。


 サイレンシアはかわいそうと言われたくて、ここに立っているのではない。


 この人は、この結論で自分を守ってきたのだ。


 簡単に否定したら、その痛みまで踏みつけることになる。


 澪が一歩前に出た。


「あなたの静けさが、あなたを守ったのはわかった」


 サイレンシアは澪を見る。


「なら、理解したか」


「少しだけ」


「では、弾くのをやめろ」


「それは違う」


 澪は即答した。


「なぜ」


「あなたの静けさは、あなたを守った。でも、私たちの音まで止める理由にはならない」


 サイレンシアの目が細くなる。


「音は傷を生む」


「生む」


 澪は否定しなかった。


「届かない音は、痛い。聴いてもらえない音も、怖い」


 詠は澪を見た。


 澪は自分のことを話している。


 詠に出会う前、一人で閉じていた澪。


 誰にも届けるつもりがないように見せて、本当は、誰にも触れられたくなかった音。


「でも、音が出ないことと、音を捨てることは違う」


 澪の声は静かだった。


「今、私の《音幻》は鳴らない」


 指が弦を押さえる。


 音は出ない。


「でも、私は捨てていない」


 サイレンシアが、初めて眉を寄せた。


「鳴らない楽器に、何の意味がある」


「手が覚えている」


 澪は答えた。


「指が覚えている。どの弦を押さえたら、どんな音が出るか。誰と合わせたら、どんなふうに響くか」


 澪の視線が詠へ向く。


「詠の音が隣にある時、私の音が少し明るくなることも」


 詠の胸が鳴った。


 音は出ない結界の中なのに、確かに鳴った気がした。


「天音の拍があると、迷わず入れることも」


 天音が小さく息を呑む。


「琴羽の和音があると、尖りすぎた音がほどけることも」


 琴羽の目が潤む。


「理央の低音があると、足元が崩れないことも」


 理央が眼鏡の奥で目を伏せた。


「音は、耳だけにあるわけじゃない」


 澪がサイレンシアを見る。


「今、鳴らなくても、私の中には残っている」


 白い結界が、ほんの少し揺れた。


 サイレンシアは動かない。


 だが、灰色の瞳の奥に、何かが走った。


「記憶にすがっているだけだ」


「そうかもしれない」


 澪はまた認めた。


「でも、すがってもいい」


「……」


「すがっている間、手は離れない」


 詠は《祝華》を握り直した。


 澪の言葉が、指先へ降りてくる。


 音は出ない。


 でも、指は覚えている。


 最初に祖母のギターを抱えた日の重さ。


 転入初日の怖さ。


 初めて虚音の前で鳴らした一音。


 澪と合わせた旋律。


 琴羽のタンバリン。


 天音の拍。


 理央の低音。


 カナミの泣いているような六番目の弦。


 全部、手が覚えている。


「……詠」


 琴羽が呼ぶ。


 声は震えている。


 でも、鍵盤に置いた手は動いている。


 音は出ないのに、琴羽はゆっくりと和音を押さえていた。


「私、弾いてる」


「うん」


「音、出てないけど」


「うん」


「でも、弾いてる」


「うん」


 天音が《雷陣》のスティックを持ち直した。


「じゃあ、俺も刻む」


「音は出ません」


 理央が言う。


「わかってる」


「でも、振動は腕に返っています」


「なら十分だ」


 天音は見えない太鼓面を軽く叩いた。


 音は出ない。


 でも、その腕の動きは確かに拍を刻んでいた。


 理央も《幽紫》の弦に指を置く。


「聴覚情報はゼロ。でも、演奏動作は継続可能」


「つまり?」


 詠が聞く。


「音がなくても、演奏の構造は残る」


 理央は少しだけ迷ってから、言い直した。


「……いえ。構造だけではありません」


「うん」


「私たちが、まだ演奏をやめていないという事実が残ります」


 サイレンシアの結界が、また揺れた。


 白い霧の表面に、小さなひびのようなものが走る。


 まだ細い。


 すぐに消えそうな傷。


 でも、確かにあった。


 サイレンシアが一歩下がる。


「なぜ」


 初めて、その声に戸惑いが混じった。


「音は出ていない」


「うん」


 詠は頷いた。


「届かない」


「うん」


「なら、なぜ続ける」


 詠は《祝華》を構えた。


 音は出ない。


 それでも、構える。


「届けたい音があるから」


 サイレンシアの表情が、わずかに歪む。


「届かないと言っている」


「今は、届かない」


 詠は言った。


「でも、今届かないからって、やめたら、本当に終わる」


 五人が、少しずつ位置を取る。


 いつもの形。


 詠が前。


 澪が横で旋律を支える。


 天音が後ろで拍を置く。


 琴羽が全体を包む。


 理央が根音を固定する。


 音は出ない。


 けれど、五人は合奏の形になった。


 ミヨリが、結界の端で息を呑む。


「……そうか」


 小さな声だった。


「音の前に、もう合奏は始まっておる」


 詠は弦に指を置いた。


「怖い」


 自分の声で言う。


「鳴らないのは、怖い」


 サイレンシアを見る。


「あなたが静けさで自分を守ったことも、少しだけわかった」


「なら」


「でも、私は弾く」


 詠ははっきりと言った。


「音が出なくても、弾く」


 白い霧に、大きな亀裂が走った。


 サイレンシアの灰色の瞳が揺れる。


 結界はまだ砕けない。


 音も、まだ戻らない。


 それでも、五人の手は動き始めていた。


 無音の演奏が、静けさの中心で始まった。



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