第五十二音 静けさの試練
音のない舞台で、五人は立ち尽くしていた。
白い霧の結界が、正門前を半球状に覆っている。
外では生徒たちが遠巻きにこちらを見ていた。口が動いている。誰かが先生を呼んでいる。けれど、その声は結界の中には入ってこない。
中にあるのは、サイレンシアの声だけだった。
そして、五人の声。
それ以外の音は、すべて沈められている。
詠は《祝華》の弦に指を置いたまま、息を整えようとした。
呼吸音すら薄い。
胸は動く。息は出入りしている。でも、体が鳴っていない。
生きているのに、自分の輪郭が曖昧になる。
「これが、沈音」
理央が小さく言った。
「物理的な消音ではありません。音を出そうとする祝具の律そのものが、手前で止められている」
「対処法は」
天音が聞く。
「解析中です」
「急げ」
「急いでいます」
理央の声は冷静だったが、いつもより少し速い。
琴羽は鍵盤に手を置いたまま、何度も押していた。
音は出ない。
それでも、指は動く。
詠はその姿を見た。
琴羽は泣きそうな顔をしている。でも、鍵盤から手を離さない。
澪も同じだった。
《音幻》を構えたまま、弦を押さえている。
鳴らない弦に、指を置き続けている。
サイレンシアが、それを見ていた。
「無駄だ」
灰色の瞳が、五人を順に映す。
「音は出ない」
「だから、何」
澪が答えた。
短い声だった。
サイレンシアが澪を見る。
「音が出なければ、演奏は成立しない」
「そうかもしれない」
「なら、なぜ構えている」
澪はすぐに答えなかった。
《音幻》のネックを握る指に、力が入る。
「離したら、もっと怖いから」
その言葉に、詠は澪を見た。
澪の横顔は静かだった。けれど、唇が少しだけ白い。
怖い。
澪がそう言った。
それだけで、詠の胸の奥が少し熱くなる。
怖いのは自分だけではない。
でも、怖いまま立っている。
サイレンシアは、かすかに首を傾けた。
「怖いなら、離せばいい」
「離したら、私の音じゃなくなる」
「音は出ていない」
「出ていなくても」
澪は弦を押さえた。
音は出ない。
けれど、その指の形を詠は知っている。
澪がよく使う和音の形。
静かな夜に弾く、澪らしい響きの形。
「私は、今も弾いている」
サイレンシアの瞳が、初めてわずかに揺れた。
「……それは、強がりだ」
「そうかも」
澪は認めた。
「でも、強がりでも手を離さない」
沈黙が落ちる。
音のない沈黙。
けれど、今の沈黙は、少しだけ違っていた。
サイレンシアがゆっくりとイヤーマフに触れた。
「聞かせてやる」
「何を」
詠が問う。
「音が鳴らないことが、どれほど優しいか」
白い霧が濃くなる。
五人の足元に、淡い光が広がった。
それは映像ではなかった。
音のない記憶。
サイレンシアの中に沈んでいる過去が、結界の中に滲み出していく。
※ ※ ※
小さな部屋が見えた。
木の床。古い譜面台。壁に掛かった白い笛。
幼いサイレンシアが、笛を吹いている。
音は、聴こえない。
けれど、少女の頬の膨らみ、指の動き、目の輝きでわかる。
その音は、きっときれいだった。
誰かに聴いてほしくて、胸いっぱいに息を吸っている音だった。
次の場面では、少女は舞台に立っていた。
客席には人がいる。
拍手をしているはずの手が見える。
でも、音はない。
少女の笛も、客席のざわめきも、何も聴こえない。
ただ、少女の顔だけが少しずつ曇っていく。
「届かなかった」
サイレンシアの声が重なる。
「届いたのかもしれない。けれど、私にはわからなかった」
映像の中の少女が、舞台袖で笛を抱えている。
誰かが通り過ぎる。
口が動く。
きっと、よかったよ、と言ったのかもしれない。
でも、少女の耳には届いていない。
次の記憶。
病院の白い廊下。
少女は椅子に座り、両手で笛のケースを抱えていた。
大人が何かを説明している。
治るかもしれない。
治らないかもしれない。
そんな言葉が、音ではなく意味だけで流れ込んでくる。
少女は頷く。
泣かない。
ただ、ケースを強く抱いた。
「自分の音が、聴こえなくなった」
サイレンシアの声は平坦だった。
「吹いても、確かめられない。誰かが聴いたと言っても、信じられない。拍手も、慰めも、全部遠かった」
映像の少女は、部屋で笛を構える。
息を入れる。
指を動かす。
音はない。
少女は何度も吹く。
何度も。
何度も。
やがて、手が止まる。
笛を膝に置く。
その時だけ、少女の表情が少しだけ緩んだ。
安心したみたいに。
「音が鳴らないと、傷つかない」
サイレンシアが言う。
「届いたかどうか、考えなくていい」
映像の少女はイヤーマフをつける。
世界からさらに音を遠ざける。
「静けさは、裏切らない」
「静けさは、期待させない」
「静けさは、届かない痛みを生まない」
白い霧の奥に、黒い影が現れた。
形はない。
けれど、詠たちはその気配を知っている。
ディスコードの根に近い否定。
音に意味はない、と囁くもの。
影は少女に近づき、耳元で何かを告げる。
音はない。
それでも意味だけがわかる。
お前の静けさは正しい。
音を捨てれば、もう傷つかない。
少女は顔を上げる。
そして、初めて笑った。
嬉しそうではなかった。
救われたようでも、なかった。
ただ、痛みを感じなくなった人の笑みだった。
※ ※ ※
記憶が消えた。
白い結界の中に、五人とサイレンシアだけが残る。
琴羽は涙をこらえていた。
天音はスティックを握りしめている。
理央は言葉を探すように唇を結んだ。
澪は、サイレンシアを見ていた。
「……だから、音を奪うの」
詠が言う。
サイレンシアは頷く。
「音は期待を生む」
「期待は傷を生む」
「なら、鳴らさないほうがいい」
「それは」
詠は言いかけて、止まった。
かわいそう。
そう言いそうになった。
でも、それは違う気がした。
サイレンシアはかわいそうと言われたくて、ここに立っているのではない。
この人は、この結論で自分を守ってきたのだ。
簡単に否定したら、その痛みまで踏みつけることになる。
澪が一歩前に出た。
「あなたの静けさが、あなたを守ったのはわかった」
サイレンシアは澪を見る。
「なら、理解したか」
「少しだけ」
「では、弾くのをやめろ」
「それは違う」
澪は即答した。
「なぜ」
「あなたの静けさは、あなたを守った。でも、私たちの音まで止める理由にはならない」
サイレンシアの目が細くなる。
「音は傷を生む」
「生む」
澪は否定しなかった。
「届かない音は、痛い。聴いてもらえない音も、怖い」
詠は澪を見た。
澪は自分のことを話している。
詠に出会う前、一人で閉じていた澪。
誰にも届けるつもりがないように見せて、本当は、誰にも触れられたくなかった音。
「でも、音が出ないことと、音を捨てることは違う」
澪の声は静かだった。
「今、私の《音幻》は鳴らない」
指が弦を押さえる。
音は出ない。
「でも、私は捨てていない」
サイレンシアが、初めて眉を寄せた。
「鳴らない楽器に、何の意味がある」
「手が覚えている」
澪は答えた。
「指が覚えている。どの弦を押さえたら、どんな音が出るか。誰と合わせたら、どんなふうに響くか」
澪の視線が詠へ向く。
「詠の音が隣にある時、私の音が少し明るくなることも」
詠の胸が鳴った。
音は出ない結界の中なのに、確かに鳴った気がした。
「天音の拍があると、迷わず入れることも」
天音が小さく息を呑む。
「琴羽の和音があると、尖りすぎた音がほどけることも」
琴羽の目が潤む。
「理央の低音があると、足元が崩れないことも」
理央が眼鏡の奥で目を伏せた。
「音は、耳だけにあるわけじゃない」
澪がサイレンシアを見る。
「今、鳴らなくても、私の中には残っている」
白い結界が、ほんの少し揺れた。
サイレンシアは動かない。
だが、灰色の瞳の奥に、何かが走った。
「記憶にすがっているだけだ」
「そうかもしれない」
澪はまた認めた。
「でも、すがってもいい」
「……」
「すがっている間、手は離れない」
詠は《祝華》を握り直した。
澪の言葉が、指先へ降りてくる。
音は出ない。
でも、指は覚えている。
最初に祖母のギターを抱えた日の重さ。
転入初日の怖さ。
初めて虚音の前で鳴らした一音。
澪と合わせた旋律。
琴羽のタンバリン。
天音の拍。
理央の低音。
カナミの泣いているような六番目の弦。
全部、手が覚えている。
「……詠」
琴羽が呼ぶ。
声は震えている。
でも、鍵盤に置いた手は動いている。
音は出ないのに、琴羽はゆっくりと和音を押さえていた。
「私、弾いてる」
「うん」
「音、出てないけど」
「うん」
「でも、弾いてる」
「うん」
天音が《雷陣》のスティックを持ち直した。
「じゃあ、俺も刻む」
「音は出ません」
理央が言う。
「わかってる」
「でも、振動は腕に返っています」
「なら十分だ」
天音は見えない太鼓面を軽く叩いた。
音は出ない。
でも、その腕の動きは確かに拍を刻んでいた。
理央も《幽紫》の弦に指を置く。
「聴覚情報はゼロ。でも、演奏動作は継続可能」
「つまり?」
詠が聞く。
「音がなくても、演奏の構造は残る」
理央は少しだけ迷ってから、言い直した。
「……いえ。構造だけではありません」
「うん」
「私たちが、まだ演奏をやめていないという事実が残ります」
サイレンシアの結界が、また揺れた。
白い霧の表面に、小さなひびのようなものが走る。
まだ細い。
すぐに消えそうな傷。
でも、確かにあった。
サイレンシアが一歩下がる。
「なぜ」
初めて、その声に戸惑いが混じった。
「音は出ていない」
「うん」
詠は頷いた。
「届かない」
「うん」
「なら、なぜ続ける」
詠は《祝華》を構えた。
音は出ない。
それでも、構える。
「届けたい音があるから」
サイレンシアの表情が、わずかに歪む。
「届かないと言っている」
「今は、届かない」
詠は言った。
「でも、今届かないからって、やめたら、本当に終わる」
五人が、少しずつ位置を取る。
いつもの形。
詠が前。
澪が横で旋律を支える。
天音が後ろで拍を置く。
琴羽が全体を包む。
理央が根音を固定する。
音は出ない。
けれど、五人は合奏の形になった。
ミヨリが、結界の端で息を呑む。
「……そうか」
小さな声だった。
「音の前に、もう合奏は始まっておる」
詠は弦に指を置いた。
「怖い」
自分の声で言う。
「鳴らないのは、怖い」
サイレンシアを見る。
「あなたが静けさで自分を守ったことも、少しだけわかった」
「なら」
「でも、私は弾く」
詠ははっきりと言った。
「音が出なくても、弾く」
白い霧に、大きな亀裂が走った。
サイレンシアの灰色の瞳が揺れる。
結界はまだ砕けない。
音も、まだ戻らない。
それでも、五人の手は動き始めていた。
無音の演奏が、静けさの中心で始まった。
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