第五十一音 沈音、鳴らさない否定
正門前の音が、沈んでいた。
完全に消えているわけではない。
生徒たちの足音も、校門の金具が揺れる音も、遠くの車の走行音も、まだある。
けれど、どれも地面の下から聞こえてくるみたいに低く、遠かった。
夕暮れの神響女学院。
白い霧の中心に、少女が立っている。
髪も、装束も、指先まで白い。雪が人の形を取ったようだった。ただ、灰色の瞳だけが、何も映さずに五人を見ていた。
耳を覆うイヤーマフが、妙に目立つ。
外の音を拒むためのもの。
それをつけたまま、少女は音の沈んだ校門前に立っている。
「沈音、サイレンシア」
ミヨリが詠の肩で呟いた。
「四奏卿の一人じゃ」
「四奏卿……」
琴羽が《花奏鍵》のケースを抱える。
「四つの否定の、ひとつ」
澪が言う。
「鳴らさない否定」
詠は《祝華》を背負い直した。
怖い。
それは、戦う前の緊張だけではなかった。
サイレンシアの周囲では、音が沈む。
鳴った音が届かないのではない。鳴る前から、音になることを諦めさせられているように見える。
音を鳴らす五人にとって、それは体の芯を冷やす気配だった。
「行こう」
詠が言う。
誰も反対しなかった。
五人は音楽準備室を飛び出し、階段を下りた。
廊下を走る足音が、正門へ近づくほど薄くなる。
中庭に出た時には、靴が地面を蹴る感触だけが残っていた。
「……変な感じ」
琴羽が小さく言う。
その声も、綿に包まれているみたいだった。
天音はスティックケースを握る。
「あいつ、こっちが来るまで何もしてないのか」
「している」
理央が目を細める。
「正門付近の環境音が低下しています。範囲も少しずつ広がっている」
「立ってるだけで穴を広げてるってことか」
「おそらく」
澪が先頭に出た。
「なら、早く止める」
五人が正門前に着くと、サイレンシアが少しだけ顔を上げた。
「来たか」
声は小さかった。
でも、不思議とよく通った。
音を沈める霧の中で、その声だけがまっすぐ耳に届く。
詠は一歩前に出る。
「あなたが、サイレンシア?」
「そうだ」
「四奏卿の」
「沈音」
サイレンシアは淡々と答えた。
「四奏卿の中では、最弱と呼ばれている」
天音が眉を上げる。
「自分で言うのか」
「事実だから」
サイレンシアの瞳は揺れない。
「私は、お前たちのように派手な攻撃をしない。ノイズを率いて押し潰すことも、音律を砕いて世界を揺らすこともできない」
「じゃあ、何をするの」
琴羽が聞く。
サイレンシアは、耳のイヤーマフに指を触れた。
「鳴らさない」
その一言で、周囲の霧が濃くなった。
校門に触れていた風の音が、消える。
木の葉が揺れているのに、葉擦れがない。
天音が低く舌打ちしようとして、途中で止めた。舌打ちの音が、自分でも聴こえなかったのだ。
「お前たちは音で戦う」
サイレンシアが言う。
「なら、音が鳴らなければいい」
「そんな単純な話じゃない」
詠は《祝華》を構えた。
「私たちは、音を諦めない」
サイレンシアの灰色の瞳が、わずかに詠を見る。
「諦める必要はない」
「え?」
「私が止める」
サイレンシアの手が上がった。
ミヨリが叫ぶ。
「来るぞ、奏装じゃ!」
詠は息を吸った。
「奏装、起動」
《祝華》の弦が桜紅に光る。
制服の袖がほどけ、紅白の装束へ変わる。胸元に桜の紋が浮かび、足元に五線譜の輪が走った。
澪の周囲に藍の光が広がる。
琴羽の足元に桃色の花びらが舞う。
天音の背に金色の雷紋が走る。
理央の指先で紫の弦が震える。
五色の光が正門前の白い霧を押し返した。
「響け、私たちの祝音」
詠が言う。
「途切れた律を、もう一度つなぐために」
五人の祝具が応える。
「五色ノ契、奏装!」
変身が完了した瞬間、天音が先に動いた。
「まず一発!」
《雷陣》のスティックが振り下ろされる。
いつもなら、空気を裂く金色の打音が響く。
けれど。
何も鳴らなかった。
スティックは確かに見えない太鼓面を叩いた。腕にも反動が返っている。
でも、音がない。
「……は?」
天音の目が見開かれる。
澪が即座に《音幻》を弾いた。
指が弦を撫でる。
藍の光は走った。
でも、音が出ない。
「……」
澪の表情が固まる。
琴羽が《花奏鍵》の鍵盤を押す。
沈黙。
タンバリンを強く当てる。
沈黙。
理央が《幽紫》の低音を鳴らそうとする。
指先に振動はある。
けれど、耳には何も届かない。
詠は《祝華》を弾いた。
桜紅の光だけが、虚しく弦を走る。
音は、出なかった。
サイレンシアはその様子を、ただ見ていた。
「《無響結界》」
霧が半球状に広がり、五人を包んだ。
「ミュート・ドーム」
結界の名を告げる声だけが響く。
その外では、遅れて帰ろうとしていた生徒たちが不思議そうにこちらを見ている。だが、彼女たちにはこの結界の中の異常までは届いていないようだった。
五人だけが、音のない舞台に閉じ込められている。
「音が、出ない」
琴羽の声は出た。
震えているが、確かに聴こえる。
「声は出るのか」
天音が自分の喉に触れた。
「声だけは封じない」
サイレンシアが言う。
「声は、私にとって音ではない」
「何を言っている」
理央が問い返す。
「声も空気の振動です。物理的には音に分類される」
「分類は不要」
サイレンシアは即答した。
「私が奪うのは、楽器の音。奏でようとする音。届かせようとする音」
詠の指が、弦の上で止まる。
「届かせようとする音だけを、奪う?」
「そうだ」
「どうして」
サイレンシアはしばらく詠を見ていた。
「届かない音は、傷になる」
その声は、さっきまでより低かった。
「なら、最初から鳴らなければいい」
澪が一歩前へ出る。
「勝手に決めないで」
「決める」
「私たちの音を?」
「そうだ」
サイレンシアは表情を変えない。
「お前たちはまだ、鳴らせることを当然だと思っている」
その言葉に、澪の眉がわずかに動いた。
詠も息を止めた。
当然。
そうかもしれない。
カナミの声殺律で声を封じられたことはある。律の穴で音が届かない怖さも見た。それでも、詠たちは心のどこかで、祝具を弾けば音は出ると思っていた。
その前提を、サイレンシアは一瞬で奪った。
天音が音の出ない《雷陣》をもう一度叩く。
やはり何も鳴らない。
「くそっ」
「罵声は出る」
サイレンシアが言う。
「それでも、お前の太鼓は鳴らない」
天音が踏み込んだ。
音が出ないなら、直接距離を詰める。
雷光を纏ったスティックで、サイレンシアの腕を弾こうとする。
だが、白い霧が壁になった。
スティックは確かに霧を叩いた。
けれど、衝突音がない。
手応えだけが腕に返り、天音は顔をしかめて後ろへ跳んだ。
「殴っても音がしないと、距離感が狂う」
「音は、戦闘の目印にもなっている」
理央が言う。
「打撃音、足音、呼吸音。それらが消えるだけで、反応が遅れる」
「分析している余裕があるのか」
サイレンシアの白い袖が揺れる。
その動きにも音がない。
次の瞬間、白い霧が刃のように伸びた。
詠は反射で《祝華》を構える。
弦を鳴らし、防御の音を出す。
出ない。
「詠!」
澪が飛び込んだ。
音のない《音幻》を横に構え、霧の刃を受ける。
衝撃だけが二人の腕を痺れさせた。
音がないのに、痛みはある。
それが余計に不気味だった。
「音がなければ、怖くないと思った?」
サイレンシアが言う。
「違う。音がないから、怖いんだ」
詠は歯を食いしばる。
《祝華》の六番目の弦に触れた。
カナミの残響なら。
届かなかった音を越えてきたこの弦なら。
そう思って弾く。
紫がかった桜色の光が、確かに走った。
でも、音は出ない。
六番目の弦すら、沈黙した。
詠の胸が冷えた。
「それも鳴らない」
サイレンシアの灰色の瞳が、詠を捉える。
「届かなかった音を拾ったところで、鳴らなければ同じだ」
「違う」
詠はすぐに言った。
でも、声が震えた。
違う。
そう言いたい。
けれど、今、弦は鳴っていない。
カナミの残響も、五人の祝具も、白い結界の中では沈黙している。
琴羽が鍵盤を押し続けていた。
音は出ない。
それでも、指は止めていない。
澪はその動きを見た。
天音も、理央も。
五人は互いの顔を見る。
まだ、答えはない。
でも、止まるわけにはいかない。
サイレンシアは静かに告げた。
「これがお前たちの限界だ」
白い霧がさらに濃くなり、正門前の夕暮れが遠ざかる。
音のない舞台の中央で、五人は祝具を構えたまま立っていた。
鳴らない。
届かない。
それでも、指だけはまだ、弦と鍵盤とスティックから離れていなかった。
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