第五十音 四奏卿、影を落とす
理央の地図に並んだ赤い点は、ただの点ではなかった。
神響女学院を中心に、ゆるい円を描いている。
商店街。東側の公園。川沿いの遊歩道。旧市街へ続く坂道。
どれも、五人がよく通る場所だった。特別な儀式の場所ではない。けれど、神響で暮らす人たちが毎日音を鳴らしている場所ばかりだった。
昼休みの音楽準備室で、理央は地図を机に置いた。
「現時点で確認できる律の穴は四つです」
「四つ」
琴羽が小さく繰り返す。
「まだ小規模ですが、位置関係が不自然です。自然発生なら、もっとばらつくはず」
「じゃあ、誰かが置いてるってことか」
天音がスティックを指の間で回しかけて、途中で止めた。
音が出る。
その当たり前を、みんなが少しだけ意識するようになっていた。
理央は地図の中心を指す。
「中心は神響女学院。正確には、旧演奏棟のあたりです」
詠の胸が沈む。
旧演奏棟。
天音と出会った場所。カナミの気配が濃くなった場所。律の傷を見上げた場所。
「なんで旧演奏棟なんだろう」
詠が呟くと、ミヨリが窓際から答えた。
「あそこは古い音が溜まりやすい。神響女学院の中でも、律が深く根を張っておる場所じゃ」
「根が深いから、狙われる?」
「うむ。木を枯らすなら、枝より根じゃ」
澪が眉を寄せた。
「律の穴がこのまま増えたら」
「街の音が薄くなる」
ミヨリは短く言った。
「最初は一部だけじゃ。声が遠くなる。音楽がぼやける。鐘の音が鳴っても、誰も振り向かなくなる」
琴羽が膝の上で手を握る。
「それが進むと?」
「音が鳴ったことを、世界が覚えられなくなる」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
音が消える。
それは静かになることではない。
鳴ったことすら、なかったように扱われることだ。
詠は《祝華》のケースに触れた。
「今日の放課後、全部見に行こう」
「全部?」
澪が目を向ける。
「四か所。できるだけ早く」
理央が首を横に振った。
「一日で全地点を調査するのは危険です。穴の中に長く入れば、こちらも影響を受ける」
「じゃあ、外から見るだけでも」
「それなら可能です」
「決まり」
天音が立ち上がる。
「音が消えるのを待ってる趣味はない」
琴羽も頷いた。
「私も行く。怖いけど、見ないほうがもっと怖い」
澪はケースを閉じる。
「行こう」
五人の返事が揃った。
※ ※ ※
放課後の神響は、いつもより少しだけ静かだった。
はっきりした異変ではない。
車は走っている。子どもは笑っている。商店街の呼び込みも聞こえる。
けれど、音の端が少し削れている。
高い音が先に消え、残った低い音だけが街に沈んでいるようだった。
最初の公園では、噴水の水音が消えていた。
水は流れている。光を受けて跳ねている。でも、跳ねる音がない。
琴羽は噴水のそばに立ち、そっとタンバリンを鳴らした。
小さな音が出る。
けれど、噴水の真上でふっと消えた。
「ここも、閉じてる」
「商店街より小さい。でも同じ構造です」
理央が記録する。
次の川沿いでは、流れる水の音がところどころ抜けていた。
水面は動いているのに、耳が追いつかない。
天音が顔をしかめる。
「川の音って、消えると変だな」
「ずっと鳴っているものほど、消えたときにわかる」
澪が言う。
「人の声も、そうかも」
その言葉に、詠は頷けなかった。
声が消える怖さは、もう知っている。
カナミに封じられたあの瞬間。歌いたいのに、喉から音が出なかった恐怖。
あれが街全体に広がる。
想像しただけで、手のひらが冷えた。
三つ目の坂道では、穴が広がりかけていた。
黒い染みが石段の隙間から滲み、通りかかった人の靴音を薄くしている。
「ここ、まずい」
天音が短く言った。
「広がってる」
理央も頷く。
「半径が増えています。商店街のものより成長が速い」
ミヨリが五人を見る。
「放っておけば、今夜には坂全体を呑む」
「止めよう」
詠は迷わず言った。
ミヨリは少しだけ目を細める。
「完全には塞げぬぞ」
「わかってる。でも、広がるのを遅らせることはできる」
「……できると決まったわけではない」
「じゃあ、試す」
詠が《祝華》を構える。
四人も続いた。
澪の《音幻》。
琴羽の《花奏鍵》。
天音の《雷陣》。
理央の《幽紫》。
ミヨリが息を吸う。
「奏装は短くてよい。穴に直接触れるな。音だけを落とせ」
詠は頷いた。
「奏装、起動」
桜紅の光が、制服の上を走る。
澪の藍、琴羽の桃、天音の金、理央の紫が重なり、坂道の夕暮れを五色に染めた。
「響け、私たちの祝音」
詠が弦を弾く。
「途切れた律を、もう一度つなぐために」
五人の祝具が応えた。
「五色ノ契、奏装」
変身の光は一瞬で収まった。
けれど、坂道に落ちていた黒い染みが、反応して震える。
そこから小さな虚音が湧いた。
虫のような形。
音符の頭だけが裂け、足のない影が地面を這う。
一体、二体、三体。
「雑魚か」
天音が前に出る。
「油断しない」
澪が音を置く。
虚音たちは鳴き声を出さなかった。
代わりに、周囲の音を吸い込む。
天音のドラムが一拍遅れる。琴羽のタンバリンが半分だけ消える。理央の低音が黒い染みに引きずられる。
「音を食う小型個体」
理央が言った。
「穴の成長補助です」
「なら、食われる前に叩く」
天音が踏み込んだ。
《雷陣》のスティックが金色の軌跡を描き、虚音の一体を弾き飛ばす。澪の《静波律》が残った二体の動きを鈍らせ、琴羽の和音が足場を作る。
詠はその上に歌を乗せた。
戦う歌ではない。
穴の縁に残った、まだ消えていない音を呼び戻す歌。
「ここに、音がある」
詠の声に合わせて、理央が根音を固定する。
黒い染みの広がりが止まった。
完全に消えたわけではない。
けれど、石段の隙間から溢れていた黒が、ぴたりと止まる。
「今です」
理央が言う。
「六番目を」
詠は一瞬だけ息を止めた。
カナミの弦に指を置く。
借りるのではなく、一緒に鳴らす。
そう思い直して、弾いた。
紫がかった桜色の音が、坂道に落ちる。
黒い染みが薄くなる。
虚音の最後の一体が、音を吸い込もうとして、逆に弾かれた。
澪が一閃する。
藍の波が虚音を裂き、天音の拍がその残骸を砕いた。
琴羽のタンバリンが最後に鳴る。
小さな、でも明るい音だった。
坂道に、靴音が戻った。
どこかの家の窓が開く音も。
遠くの犬の鳴き声も。
全部ではない。
でも、戻った。
詠は肩で息をした。
六番目の弦が、熱を持っている。
「大丈夫?」
澪が聞く。
「うん。ちょっと、胸の奥が重い」
「無理はするな」
「する。でも、倒れない程度にする」
「それは無理をする人の言い方」
澪の声が淡々としていたので、詠は少し笑った。
笑える。
それだけで、怖さは少し薄くなった。
※ ※ ※
夜。
五人は音楽準備室に戻った。
理央が今日の記録を机に並べる。
「四つの穴のうち、一つは進行を遅らせました。ただし、完全封鎖ではありません」
「他の三つは?」
琴羽が聞く。
「変化なし。ただし、明日以降に拡大する可能性は高い」
天音が椅子の背にもたれる。
「いたちごっこか」
「そうならないために、発生源を探す必要があります」
理央は地図に線を引いた。
四つの赤い点を結ぶ線。
その線は、まだ未完成の円を描いていた。
「あと何個で完成すると思う?」
詠が聞く。
「推定では、十二。現在四つ」
「残り八」
琴羽の声が沈む。
「早ければ数日です」
ミヨリは窓の外を見ていた。
「数日もないかもしれぬ」
「どういうこと」
詠が尋ねる。
ミヨリは答えようとして、止まった。
音楽準備室の窓ガラスが、内側から白く曇った。
冷気ではない。
音が、曇った。
ガラスの向こうの中庭から、校門へ向かって白い霧が流れていく。
澪が立ち上がる。
「来た」
「虚音?」
「違う」
ミヨリの声が硬い。
「四奏卿じゃ」
その名前だけで、部屋の空気が変わった。
四つの否定。
律の傷から落ちてくる、ディスコードの側の強敵。
詠は窓へ駆け寄った。
雪も降っていないのに、正門前だけが白かった。
白い霧の中心に、一人の少女が立っている。
髪も、肌も、装束も、雪のように白い。
ただ、瞳だけが灰色だった。
耳には、外の音を遮るイヤーマフ。
少女は顔を上げた。
距離があるのに、目が合った気がした。
声は聞こえない。
それでも、意味だけが届いた。
来たか。
詠の背筋に、冷たいものが走る。
ミヨリが呟いた。
「沈音。サイレンシア」
白い少女の周囲で、校門の金属音が消えていく。
風の音も。
木々の葉擦れも。
下校する生徒たちの足音も。
正門前から、音が沈んでいく。
サイレンシアは、ただ静かに立っていた。
最初の四奏卿が、神響女学院に影を落とした。
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