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祝音少女《五色ノ契》〜音に選ばれた少女たちは、祝福の旋律で世界を救う〜  作者: たいしょう
第四譜 試練の変奏曲 -静と騒と虚と闇の四重奏-
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第四十九音 律の傷と六番目の音

 音が消えた商店街は、見た目だけならいつもと変わらなかった。


 シャッターの開いた青果店。店先に並ぶみかんの箱。歩道を押して進む自転車。信号待ちをするバス。学校へ向かう生徒たち。


 けれど、その一帯だけ、世界から音が抜け落ちていた。


 バスが停まってもブレーキ音がしない。自転車のベルが鳴っているはずなのに、何も届かない。店員が口を開いているのに、声だけが消えている。


 半径五十メートルほどの円。


 そこだけ、透明な膜で街を切り取ったみたいだった。


 詠は歩道の端で立ち止まり、《祝華》のケースを握り直した。


「……本当に、音がない」


 琴羽の声が震えていた。


 音のない円の外にいるから、琴羽の声は聴こえる。けれど、一歩先にある静寂が、喉の奥まで冷やしてくる。


 澪はじっと商店街の奥を見ていた。


「見えているのに、聴こえない。変な感じ」


 天音がスティックケースを肩にかけ直す。


「入ったら、俺たちの声も消えるのか」


「普通ならな」


 ミヨリは詠の肩の上で、いつになく低い声を出した。


「じゃが、おぬしたちは祝音少女じゃ。祝具を通して律に守られておる。完全には消えぬ」


「完全には、ってことは」


 理央が眼鏡に触れる。


「影響は受ける、ということですね」


「うむ。長く入るな。今日は調査と、被害者の確認だけじゃ」


「被害者……」


 詠はその言葉を繰り返した。


 虚音が出たときは、誰かの感情が黒い音に呑まれていた。今回は違う。誰か一人が泣いているわけではない。街の一部そのものが、音を失っている。


 だからこそ、怖かった。


 傷ついた人を探せない。


 どこが痛いのか、すぐにはわからない。


 詠は空を見た。昨日、旧演奏棟の屋上から見た黒い亀裂は、今も空の奥に残っている。ここからだと見えにくい。けれど、確かにあるとわかる。


 律の傷。


 カナミを浄化したことで見えるようになった、世界の音の裂け目。


 その傷が、街にまで落ちてきている。


「行こう」


 詠が言うと、四人が頷いた。


 五人は音のない円へ足を踏み入れた。


 最初に消えたのは、足音だった。


 靴底が歩道を踏む感触はある。けれど、こつんという小さな音が返ってこない。次に風の音が消えた。髪が揺れているのに、耳元を通るはずの風がない。


 遠くの車も、人の声も、店先のラジオも、全部が薄い白い布の向こうへ押し込められたみたいだった。


 詠は息を吸う。


 自分の呼吸音まで遠い。


「……気持ち悪いな」


 天音の声は、聴こえた。


 けれど、少し遅れて届く。水の中で言葉を受け取ったみたいに、輪郭がぼやけていた。


「声は届く。でも、反響がない」


 理央がスマートフォンにメモを打ち込む。画面を叩く指の音はしない。


「音が発生しても、空間内で広がらない。伝播の律が傷ついている可能性が高いです」


「道が壊れてる、ってこと?」


 琴羽が聞く。


 ミヨリが頷いた。


「音はただ鳴るだけでは届かぬ。鳴った音を先へ運ぶ律がある。その道を、ノイズが食い破った」


「食い破るって……」


 琴羽が唇を噛む。


 詠は円の中心へ進んだ。


 商店街の石畳に、黒い染みのようなものが残っている。焦げ跡に似ている。でも焦げた匂いはしない。触れる前から、指先が冷たくなった。


 澪が《音幻》をケースから出す。


「少し鳴らす」


 ミヨリが止めなかった。


 澪は一音だけ弾いた。


 音は、出た。


 藍色の響きが、すぐそばで咲く。けれど、半歩先へ進まない。まるで見えない壁にぶつかって、その場でしぼんでいく。


「閉じてる」


 澪が短く言った。


「音が、ここから出られない」


「つまり、この中でどれだけ弾いても、外には届かない」


 理央の声は冷静だった。けれど、指先だけが少し震えている。


「届かない音」


 その言葉に、詠の胸がきゅっと縮んだ。


 カナミの声が、記憶の奥で鳴る。


 届かない音に、意味なんてない。


 違う、と詠は心の中で言う。


 違うと答えた。五人で答えた。カナミも、最後には笑った。


 それでも、目の前の静寂は容赦がなかった。


 届かない、という事実だけを突きつけてくる。


「詠」


 澪が呼ぶ。


「顔」


「え?」


「今、少し怖い顔してた」


 詠は自分の頬に触れた。冷えている。


「……怖いよ」


 隠さずに言った。


「でも、大丈夫」


 《祝華》を出す。


 桜紅のギター。その弦の奥に、紫がかった微かな光がある。カナミの音だ。


 六番目の音。


 五人の祝具に宿った、届かなかった祝音少女の残響。


 詠はその弦に指を置いた。


 まだ慣れない。


 弾くたびに、カナミの数百年の痛みに少しだけ触れる気がする。力として使っていいのか、迷う。受け取った音を、勝手に振り回しているようで怖い。


 けれど、カナミは消えていない。


 ここにいる。


「少しだけ、貸して」


 誰にともなく呟いて、詠は六番目の弦を鳴らした。


 音は小さかった。


 けれど、消えなかった。


 閉じた空間の中で、その音だけが黒い染みの上に落ちる。桜色に紫が重なった響きが、石畳の冷たさを撫でる。


 黒い染みが、わずかに薄くなった。


「……動いた」


 理央が息を呑む。


「カナミさんの残響が、律の傷に干渉している」


「修復できるの?」


 琴羽が身を乗り出す。


 ミヨリはすぐには答えなかった。


「完全には無理じゃ。今の詠では、穴を塞ぐほどの力はない」


「今のって言い方、地味に刺さるな」


 天音が言う。


「事実じゃ」


「わかってる」


 でも、天音の声は少しだけ緩んだ。怖さで固まりかけていた空気が、そこで息を取り戻す。


 詠はもう一度、弦を鳴らそうとした。


 そのとき、円の外で誰かが倒れた。


 声は聞こえなかった。


 ただ、人の輪が揺れたのが見えた。


「外!」


 琴羽が走る。


 五人は音のない円を抜けた。途端に、街の喧騒が戻ってくる。戻ってきた音の大きさに、詠は一瞬だけ耳を押さえた。


 歩道のベンチに、白髪の老人が座らされていた。近くの店員が心配そうに話しかけている。老人は何度も首を振っていた。


「音は聴こえてるんだ。聴こえてるんだけどなあ」


 老人の声は弱かった。


「なんだか、遠い。水の底みたいで」


 琴羽が膝をつく。


「あの中に入ったんですか」


「少しだけね。落とし物を拾いに。すぐ戻ったつもりなんだけど」


 老人は困ったように笑った。


 その笑い方が、詠には痛かった。


 音が消える。


 それは、戦う力が奪われるというだけではない。人が毎日当たり前に受け取っているものが、静かに削られていくということだ。


「詠ちゃん」


 琴羽が振り返る。


 詠は頷いた。


「少し、弾いてもいいですか」


 老人は目を瞬かせる。


「ギターかい」


「はい。うるさかったら、すぐやめます」


「いや……聴かせてくれるなら、ありがたい」


 詠は《祝華》を構えた。


 戦うためではなく、届かせるために。


 澪が隣に立つ。琴羽が後ろで小さくタンバリンを握る。天音は膝を軽く叩いて、ゆっくりした拍を置いた。理央は《幽紫》の弦を押さえ、低い根音を支える。


 五人で鳴らすほど大げさな曲ではない。


 ただ、迷子になった音を手招きするような、短い旋律。


 詠は最後に、六番目の弦をそっと重ねた。


 カナミの残響は、泣いているような音をしていた。


 でも、泣くだけでは終わらない。


 その音は老人の耳元でほどけ、遠くなっていた街の音を少しずつ連れて戻した。


 バスのエンジン音。


 店先の袋がこすれる音。


 誰かが小銭を落とした音。


 子どもが母親を呼ぶ声。


 老人の目が、ゆっくり開いた。


「……ああ」


 その一言に、詠は演奏を止めかけた。


 でも止めなかった。


 老人は両手を耳に当てる。


「戻ってきた。全部じゃないけど、戻ってきたよ」


 琴羽がほっと息を吐く。天音が小さく拳を握る。澪は視線だけで詠を見て、頷いた。


 理央はメモを取らなかった。


 ただ、その音を聴いていた。


 演奏が終わると、老人は深く頭を下げた。


「ありがとう。なんだか、昔の駅前を思い出した。まだ路面電車があった頃の音だ」


「路面電車?」


 詠が聞くと、老人は笑った。


「今はもうないけどね。鐘の音が好きだったんだ」


 その記憶が戻ったことが、詠には嬉しかった。


 音は、耳だけにあるわけではない。


 その人の昔にも、体にも、誰かと歩いた道にも残っている。


 カナミの残響が、弦の奥で微かに震えた。


 詠には、それが返事のように思えた。


 調査を終えた五人は、商店街の外れに集まった。


 理央が地図アプリを開く。


「同じような報告が、他にも出ています。神響市内で三か所。まだ小規模ですが、位置に偏りがある」


「偏り?」


「神響女学院を中心に、円を描いています」


 画面には、赤い点が並んでいた。


 まだ少ない。けれど、見ればわかる。


 囲まれている。


 神響女学院を中心に、音のない穴が少しずつ増えている。


 ミヨリの毛が逆立った。


「包囲じゃな」


「包囲って、誰が」


 天音が言う。


 ミヨリは空を見た。


「ディスコード。その手の者たちじゃ」


 風が吹いた。


 今度は、ちゃんと風の音がした。


 けれどその奥で、別の音が滲んだ。


 沈む音。


 孤独な音。


 乱れる音。


 空白の音。


 四つの気配が、まだ遠い場所から、こちらを見ている。


 詠は《祝華》を抱え直した。


 六番目の弦は、もう光っていない。


 でも、確かに温かかった。


「カナミさん」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


 それでも、残っている。


 受け取った音は、ただの力ではない。誰かが届かなかった痛みを、次の誰かへ届け直すための約束だ。


 詠は赤い点の並ぶ地図を見つめた。


「穴が増える前に、止めよう」


「うん」


 澪が答える。


「今度は街全体が相手ですね」


 理央が言う。


「上等だ」


 天音がスティックケースを叩く。


「怖いけど、行こう」


 琴羽が言う。


 詠は頷いた。


 音のない円の向こうで、商店街は少しずついつもの音を取り戻している。


 けれど、空の奥の亀裂は消えていない。


 むしろ、さっきよりわずかに濃く見えた。


 次の否定が、そこから落ちてくる。



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