第四十九音 律の傷と六番目の音
音が消えた商店街は、見た目だけならいつもと変わらなかった。
シャッターの開いた青果店。店先に並ぶみかんの箱。歩道を押して進む自転車。信号待ちをするバス。学校へ向かう生徒たち。
けれど、その一帯だけ、世界から音が抜け落ちていた。
バスが停まってもブレーキ音がしない。自転車のベルが鳴っているはずなのに、何も届かない。店員が口を開いているのに、声だけが消えている。
半径五十メートルほどの円。
そこだけ、透明な膜で街を切り取ったみたいだった。
詠は歩道の端で立ち止まり、《祝華》のケースを握り直した。
「……本当に、音がない」
琴羽の声が震えていた。
音のない円の外にいるから、琴羽の声は聴こえる。けれど、一歩先にある静寂が、喉の奥まで冷やしてくる。
澪はじっと商店街の奥を見ていた。
「見えているのに、聴こえない。変な感じ」
天音がスティックケースを肩にかけ直す。
「入ったら、俺たちの声も消えるのか」
「普通ならな」
ミヨリは詠の肩の上で、いつになく低い声を出した。
「じゃが、おぬしたちは祝音少女じゃ。祝具を通して律に守られておる。完全には消えぬ」
「完全には、ってことは」
理央が眼鏡に触れる。
「影響は受ける、ということですね」
「うむ。長く入るな。今日は調査と、被害者の確認だけじゃ」
「被害者……」
詠はその言葉を繰り返した。
虚音が出たときは、誰かの感情が黒い音に呑まれていた。今回は違う。誰か一人が泣いているわけではない。街の一部そのものが、音を失っている。
だからこそ、怖かった。
傷ついた人を探せない。
どこが痛いのか、すぐにはわからない。
詠は空を見た。昨日、旧演奏棟の屋上から見た黒い亀裂は、今も空の奥に残っている。ここからだと見えにくい。けれど、確かにあるとわかる。
律の傷。
カナミを浄化したことで見えるようになった、世界の音の裂け目。
その傷が、街にまで落ちてきている。
「行こう」
詠が言うと、四人が頷いた。
五人は音のない円へ足を踏み入れた。
最初に消えたのは、足音だった。
靴底が歩道を踏む感触はある。けれど、こつんという小さな音が返ってこない。次に風の音が消えた。髪が揺れているのに、耳元を通るはずの風がない。
遠くの車も、人の声も、店先のラジオも、全部が薄い白い布の向こうへ押し込められたみたいだった。
詠は息を吸う。
自分の呼吸音まで遠い。
「……気持ち悪いな」
天音の声は、聴こえた。
けれど、少し遅れて届く。水の中で言葉を受け取ったみたいに、輪郭がぼやけていた。
「声は届く。でも、反響がない」
理央がスマートフォンにメモを打ち込む。画面を叩く指の音はしない。
「音が発生しても、空間内で広がらない。伝播の律が傷ついている可能性が高いです」
「道が壊れてる、ってこと?」
琴羽が聞く。
ミヨリが頷いた。
「音はただ鳴るだけでは届かぬ。鳴った音を先へ運ぶ律がある。その道を、ノイズが食い破った」
「食い破るって……」
琴羽が唇を噛む。
詠は円の中心へ進んだ。
商店街の石畳に、黒い染みのようなものが残っている。焦げ跡に似ている。でも焦げた匂いはしない。触れる前から、指先が冷たくなった。
澪が《音幻》をケースから出す。
「少し鳴らす」
ミヨリが止めなかった。
澪は一音だけ弾いた。
音は、出た。
藍色の響きが、すぐそばで咲く。けれど、半歩先へ進まない。まるで見えない壁にぶつかって、その場でしぼんでいく。
「閉じてる」
澪が短く言った。
「音が、ここから出られない」
「つまり、この中でどれだけ弾いても、外には届かない」
理央の声は冷静だった。けれど、指先だけが少し震えている。
「届かない音」
その言葉に、詠の胸がきゅっと縮んだ。
カナミの声が、記憶の奥で鳴る。
届かない音に、意味なんてない。
違う、と詠は心の中で言う。
違うと答えた。五人で答えた。カナミも、最後には笑った。
それでも、目の前の静寂は容赦がなかった。
届かない、という事実だけを突きつけてくる。
「詠」
澪が呼ぶ。
「顔」
「え?」
「今、少し怖い顔してた」
詠は自分の頬に触れた。冷えている。
「……怖いよ」
隠さずに言った。
「でも、大丈夫」
《祝華》を出す。
桜紅のギター。その弦の奥に、紫がかった微かな光がある。カナミの音だ。
六番目の音。
五人の祝具に宿った、届かなかった祝音少女の残響。
詠はその弦に指を置いた。
まだ慣れない。
弾くたびに、カナミの数百年の痛みに少しだけ触れる気がする。力として使っていいのか、迷う。受け取った音を、勝手に振り回しているようで怖い。
けれど、カナミは消えていない。
ここにいる。
「少しだけ、貸して」
誰にともなく呟いて、詠は六番目の弦を鳴らした。
音は小さかった。
けれど、消えなかった。
閉じた空間の中で、その音だけが黒い染みの上に落ちる。桜色に紫が重なった響きが、石畳の冷たさを撫でる。
黒い染みが、わずかに薄くなった。
「……動いた」
理央が息を呑む。
「カナミさんの残響が、律の傷に干渉している」
「修復できるの?」
琴羽が身を乗り出す。
ミヨリはすぐには答えなかった。
「完全には無理じゃ。今の詠では、穴を塞ぐほどの力はない」
「今のって言い方、地味に刺さるな」
天音が言う。
「事実じゃ」
「わかってる」
でも、天音の声は少しだけ緩んだ。怖さで固まりかけていた空気が、そこで息を取り戻す。
詠はもう一度、弦を鳴らそうとした。
そのとき、円の外で誰かが倒れた。
声は聞こえなかった。
ただ、人の輪が揺れたのが見えた。
「外!」
琴羽が走る。
五人は音のない円を抜けた。途端に、街の喧騒が戻ってくる。戻ってきた音の大きさに、詠は一瞬だけ耳を押さえた。
歩道のベンチに、白髪の老人が座らされていた。近くの店員が心配そうに話しかけている。老人は何度も首を振っていた。
「音は聴こえてるんだ。聴こえてるんだけどなあ」
老人の声は弱かった。
「なんだか、遠い。水の底みたいで」
琴羽が膝をつく。
「あの中に入ったんですか」
「少しだけね。落とし物を拾いに。すぐ戻ったつもりなんだけど」
老人は困ったように笑った。
その笑い方が、詠には痛かった。
音が消える。
それは、戦う力が奪われるというだけではない。人が毎日当たり前に受け取っているものが、静かに削られていくということだ。
「詠ちゃん」
琴羽が振り返る。
詠は頷いた。
「少し、弾いてもいいですか」
老人は目を瞬かせる。
「ギターかい」
「はい。うるさかったら、すぐやめます」
「いや……聴かせてくれるなら、ありがたい」
詠は《祝華》を構えた。
戦うためではなく、届かせるために。
澪が隣に立つ。琴羽が後ろで小さくタンバリンを握る。天音は膝を軽く叩いて、ゆっくりした拍を置いた。理央は《幽紫》の弦を押さえ、低い根音を支える。
五人で鳴らすほど大げさな曲ではない。
ただ、迷子になった音を手招きするような、短い旋律。
詠は最後に、六番目の弦をそっと重ねた。
カナミの残響は、泣いているような音をしていた。
でも、泣くだけでは終わらない。
その音は老人の耳元でほどけ、遠くなっていた街の音を少しずつ連れて戻した。
バスのエンジン音。
店先の袋がこすれる音。
誰かが小銭を落とした音。
子どもが母親を呼ぶ声。
老人の目が、ゆっくり開いた。
「……ああ」
その一言に、詠は演奏を止めかけた。
でも止めなかった。
老人は両手を耳に当てる。
「戻ってきた。全部じゃないけど、戻ってきたよ」
琴羽がほっと息を吐く。天音が小さく拳を握る。澪は視線だけで詠を見て、頷いた。
理央はメモを取らなかった。
ただ、その音を聴いていた。
演奏が終わると、老人は深く頭を下げた。
「ありがとう。なんだか、昔の駅前を思い出した。まだ路面電車があった頃の音だ」
「路面電車?」
詠が聞くと、老人は笑った。
「今はもうないけどね。鐘の音が好きだったんだ」
その記憶が戻ったことが、詠には嬉しかった。
音は、耳だけにあるわけではない。
その人の昔にも、体にも、誰かと歩いた道にも残っている。
カナミの残響が、弦の奥で微かに震えた。
詠には、それが返事のように思えた。
調査を終えた五人は、商店街の外れに集まった。
理央が地図アプリを開く。
「同じような報告が、他にも出ています。神響市内で三か所。まだ小規模ですが、位置に偏りがある」
「偏り?」
「神響女学院を中心に、円を描いています」
画面には、赤い点が並んでいた。
まだ少ない。けれど、見ればわかる。
囲まれている。
神響女学院を中心に、音のない穴が少しずつ増えている。
ミヨリの毛が逆立った。
「包囲じゃな」
「包囲って、誰が」
天音が言う。
ミヨリは空を見た。
「ディスコード。その手の者たちじゃ」
風が吹いた。
今度は、ちゃんと風の音がした。
けれどその奥で、別の音が滲んだ。
沈む音。
孤独な音。
乱れる音。
空白の音。
四つの気配が、まだ遠い場所から、こちらを見ている。
詠は《祝華》を抱え直した。
六番目の弦は、もう光っていない。
でも、確かに温かかった。
「カナミさん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
それでも、残っている。
受け取った音は、ただの力ではない。誰かが届かなかった痛みを、次の誰かへ届け直すための約束だ。
詠は赤い点の並ぶ地図を見つめた。
「穴が増える前に、止めよう」
「うん」
澪が答える。
「今度は街全体が相手ですね」
理央が言う。
「上等だ」
天音がスティックケースを叩く。
「怖いけど、行こう」
琴羽が言う。
詠は頷いた。
音のない円の向こうで、商店街は少しずついつもの音を取り戻している。
けれど、空の奥の亀裂は消えていない。
むしろ、さっきよりわずかに濃く見えた。
次の否定が、そこから落ちてくる。
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