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第四十八音 律の傷

 ミヨリは、五人を旧演奏棟の屋上へ連れていった。


 朝の授業が始まる前の短い時間。


 屋上には誰もいない。


 神響の街が見渡せる場所で、ミヨリは空を見上げた。


 詠たちも同じ方向を見る。


 青い空。


 薄い雲。


 遠くの山並み。


 一見すれば、何も変わっていない。


 けれど、祝音少女として音の律を知ってしまった五人には、もう見えていた。


 空の奥に走る、細い黒い亀裂。


 音ではない。


 でも、音が流れるはずの場所にできた傷。


「あれが、律の傷」


 ミヨリが言う。


 いつもの芝居がかった声ではなかった。


「カナミを浄化したことで、隠れていたものが見えるようになったのじゃ」


 理央が眼鏡を押し上げる。


「浄化したから発生したのではなく、もともとあった傷が観測可能になった、ということですか」


「おそらくな」


「おそらく?」


 天音が聞く。


 ミヨリは小さく唸った。


「ワシにも、すべては見えぬ。じゃが、あれはただの虚音の溜まりではない。もっと根に近い」


「根」


 澪が繰り返す。


「音そのものを否定するものじゃ」


 風が吹いた。


 屋上のフェンスがかすかに鳴る。


 その音が、途中で一瞬だけ歪んだ。


 琴羽が肩を震わせる。


「今の……」


「傷から漏れておる」


 ミヨリは空の黒い線を睨む。


「鳴った音はいつか消える。届かぬ音に意味はない。残らぬものは、最初から鳴らなかったのと同じ。そう囁く否定がな」


 詠の胸が冷える。


 それは、カナミの中にあった言葉だ。


 でも、カナミだけのものではなかった。


 もっと奥にある。


 もっと大きなもの。


「ディスコード」


 詠がその名を口にした。


 ミヨリは頷いた。


「音を否定するもの。その最奥におる存在じゃ」


 天音がフェンスを握る。


「カナミをあそこまで追い込んだやつか」


「直接か、間接かはまだわからぬ」


 ミヨリは答える。


「じゃが、同じ根を持つのは確かじゃ」


 理央がノートを開いた。


「では、次の敵はカナミのように個人の痛みを抱えた存在ではなく、思想そのものに近い可能性があります」


「いや」


 澪が首を横に振る。


「思想も、誰かの音から生まれる」


 その言葉に、全員が澪を見る。


 澪は空の傷を見つめたまま続けた。


「カナミの否定にも、痛みがあった。なら、ディスコードの否定にも、何かの始まりがあるのかもしれない」


 詠は、昨日のカナミを思い出した。


 届かなかったと叫びながら、本当は受け取れずにいた少女。


 音を否定しているようで、捨てきれなかった音を哭き続けていた人。


 ディスコードも同じなのだろうか。


 それとも、もっと深く、もっと冷たい否定なのだろうか。


 答えはまだない。


 ミヨリが五人へ向き直った。


「ここから先は、カナミ一人の傷では済まぬ。世界の律そのものが侵食される」


 琴羽が花桜鍵を抱きしめる。


「街の音も?」


「うむ」


「みんなの普通の音も?」


「うむ」


 天音が低く言う。


「放っておけるわけないな」


 理央が頷く。


「観測できる傷である以上、拡大もありえます。対処方法は未確定ですが、監視と記録が必要です」


 澪は《音幻》のケースに触れた。


「鳴らす準備も」


 詠は《祝華》を握る。


 五人の祝具の奥に、カナミの残響がある。


 受け取った音は、力でもあり、記憶でもあり、問いでもある。


 その問いを抱えたまま、次へ進む。


「私たちは、カナミさんの音を受け取った」


 詠は言った。


「だから、次に来る音も、ちゃんと聴く」


「どれだけひどい否定でも?」


 ミヨリが問う。


 詠は少しだけ考えた。


「うん。でも、言いなりにはならない」


 天音が笑う。


「それでいい」


 琴羽も頷く。


「怖いけど、聴く」


 理央がノートに一行だけ書いた。


 律の傷。


 その下に、もう一行。


 届かなかった音にも、意味は残る。


 澪がその文字を見て、静かに頷いた。


 空の亀裂は、まだ消えない。


 むしろ、ほんの少し広がったように見えた。


 その向こうから、四つの違う気配が滲んでくる。


 沈む音。


 孤独な音。


 乱れる音。


 空白の音。


 ミヨリの表情が険しくなる。


「来るぞ」


「何が?」


 詠が聞く。


 ミヨリは空の傷を見たまま答えた。


「律の傷から、四つの否定が落ちてくる」


 風が強く吹いた。


 五人の髪が揺れる。


 詠の《祝華》の奥で、カナミの残響が一度だけ震えた。


 まるで、気をつけて、と言っているみたいだった。


 カナミから受け取った音は、終わりではない。


 次の譜面への、最初の一音だった。


 その日の夜、詠は日記を開いた。


 書くことが多すぎて、最初の一行がなかなか出てこなかった。


 カナミのこと。


 六番目の音のこと。


 空に走った律の傷のこと。


 そして、四つの否定が落ちてくるというミヨリの言葉。


 詠はペンを握り直す。


 今日わかったこと。


 届かなかった音は、消えない。


 受け取れなかった音も、いつか誰かの中で鳴ることがある。


 でも、音を否定する傷はまだ残っている。


 それは、カナミさんだけの痛みじゃなかった。


 もっと大きくて、もっと深いところから、世界の音を少しずつ壊そうとしている。


 詠はそこで手を止めた。


 怖い。


 その一言を書いて、少しだけ息を吐く。


 怖いと書けるようになったのは、たぶん弱くなったからではない。


 怖いまま鳴らすことを、五人で覚えたからだ。


 最後に、詠はもう一行だけ書き足した。


 私たちは、音を諦めない。


 窓の外で、夜の神響が静かに鳴っていた。


 その音の奥に、ほんのかすかに、カナミの残響が重なった気がした。





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