第四十六音 残された六番目の音
カナミの音が宿った翌朝、詠は《祝華》を鳴らすのに少しだけ勇気がいった。
窓の外は、いつも通りの朝だった。
神響の街に音が戻っている。
車の走る音。商店街のシャッターが上がる音。登校する生徒たちの足音。どれも昨日の灰色の世界とは違って、ちゃんと色を持っていた。
それでも、詠の指は弦の上で止まっている。
昨日、カナミは光になった。
消えたのではない。
音として残った。
詠たちの祝具に宿った。
そうわかっていても、最初の一音を鳴らすのは怖かった。
「おぬし、朝から難しい顔じゃの」
窓辺のミヨリが言った。
いつもの調子に少し戻っている。
けれど、その目の奥には昨日の疲れが残っていた。
「カナミさんの音、ちゃんとあるのかなって」
「ある」
ミヨリは即答した。
「じゃが、飾りではないぞ。受け取った音は、力でもあり、記憶でもあり、問いでもある」
昨日も同じことを言われた。
詠は頷く。
「わかってる。だから、確かめたい」
《祝華》の弦に指を置く。
いつものコード。
詠が最初に覚えた、祖母の形見のギター《櫻音》から続く音。
そっと弾いた。
桜色の音が部屋に広がる。
その奥に、ほんの一瞬、紫がかった細い残響が灯った。
詠の音ではない。
でも、知らない音でもない。
冷たくて、少し痛くて、けれど何かを結ぼうとする音。
「……いた」
詠は小さく呟いた。
喉の奥が熱くなる。
ミヨリは目を細めた。
「うむ。残っておる」
「カナミさん」
呼んでも、返事はない。
けれど弦の奥で、ほんのわずかに音が震えた。
まるで、うるさい、と言っているみたいに。
詠は少し笑った。
「怒られないようにしなきゃ」
※ ※ ※
音楽準備室には、五人が順番に集まってきた。
昨日の戦いの後、全員が早く眠ったはずなのに、顔にはまだ疲れが残っている。
それでも、来た。
確認しなければならないからだ。
カナミの音が、本当に五人の中に残っているのか。
最初に弾いたのは澪だった。
《音幻》の弦に指を置き、短いフレーズを鳴らす。
深海藍の音が準備室を満たした。
その末尾に、ふっと余韻が残る。
いつもの澪の音なら、音は静かに消える。
でも今日は違った。
消えかけた音が、細い糸で結び留められるように、ほんの少しだけ空間に残った。
澪は目を伏せた。
「結び留める音」
「カナミさんの?」
琴羽が聞く。
澪は頷く。
「私の静けさとは違う。でも、閉じる音でもない」
次に琴羽が花桜鍵を鳴らした。
春桃色の和音が咲く。
その中に、灰をほどくような淡い響きが混じった。
琴羽は驚いたように鍵盤を見る。
「痛い音なのに、ほどける」
「痛いから、ほどけるのかもしれない」
詠が言うと、琴羽は小さく頷いた。
天音は《雷陣》に向かい、軽く一打した。
どん、と低い拍。
その少し後ろから、遅れてもう一つの拍が返ってきた。
天音は目を見開く。
「二拍目……?」
「カナミの輪唱的な残響でしょう」
理央が言う。
「一拍遅れて重なる。昨日の戦いで私たちが使ったReKanonの構造と近い」
「昨日の戦い?」
天音が眉をひそめる。
理央は一瞬固まり、それから咳払いした。
「失礼。昨日の戦闘です」
「変な言い方すんなよ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
最後に理央が《幽紫》を鳴らす。
低音が床を這う。
いつもの基準点よりさらに奥に、もう一つの点が生まれた。
理央はノートを開きかけて、やめた。
「書く前に、覚えておきます」
詠は理央を見た。
「珍しい」
「数式化する前に、音として受け取る必要があります」
理央の声は静かだった。
五人は、それぞれの祝具を見る。
カナミはここにいない。
声も返らない。
姿もない。
それでも、五人の音の奥に、残された六番目の音が確かにあった。
ミヨリが譜面台の上で、ぽつりと言う。
「届かなかった音は、消えなかった」
詠は頷いた。
「うん」
そして《祝華》を構える。
「でも、受け取っただけじゃ終われない」
五人の視線が集まる。
「ちゃんと鳴らせるようにならなきゃ」
カナミの音を、飾りにしないために。
重い記憶を、ただ抱えるだけで終わらせないために。
五人はもう一度、円になった。
詠は円の中心を見た。
そこには、誰もいない。
カナミの姿はないし、声もない。
でも、不思議と空白には見えなかった。
五人の間に、ほんの少しだけ遅れて響く余韻がある。誰かがそこに立っているわけではないのに、音のための場所だけが残っている。
「六人目、って言っていいのかな」
琴羽がぽつりと言った。
天音は少し考えてから首をひねる。
「六人目っていうと、いるみたいだけど、いないしな」
「でも、いないって言うと、消えちゃったみたいで嫌」
琴羽の言葉に、詠は頷いた。
理央が静かに答える。
「現時点では、六人目というより、六番目の音域と表現するのが近いと思います」
「理央らしい」
「ただし」
理央はノートを開かずに続けた。
「その音域には、人格の残響が含まれています。完全な不在ではありません」
澪が小さく弦を鳴らした。
結び留める余韻が、準備室の空気をかすかに揺らす。
「なら、六番目の音」
詠は言った。
「今は、それでいいと思う」
ミヨリは何も言わなかった。
ただ、譜面台の上で目を閉じ、古い音に祈るように耳を澄ませていた。
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