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第四十五音 七つの祝音

 桜色の光が、灰色の世界に広がっていく。


 最初は小さな点だった。


 詠の声に灯った、かすかな光。


 それが澪の静けさに触れ、琴羽の和音にほどけ、天音の拍に押し上げられ、理央の低音に支えられる。


 五人の音が、もう一度カナミへ向かった。


 今度は攻撃ではない。


 勝利を刻むための音でもない。


 受け取ってもらうために、ただ差し出す音。


 カナミは九弦を見下ろした。


 《奏哭ノ冥弦》の黒い弦が、一本ずつほどけていく。


 灰色の光が剥がれ、その奥から桜色と紫の残響が浮かび上がる。


「私は」


 カナミの声が震える。


「届かなかったんじゃない」


 彼女は、長い時間をかけてその言葉を受け取るように、ゆっくり息を吸った。


「受け取れなかったんだ」


 詠は頷いた。


「今、受け取ってくれた」


 カナミは笑おうとして、うまく笑えなかった。


「……遅すぎる」


「でも、終わってない」


 その言葉に、カナミの目がまた揺れた。


 九弦が、淡く光る。


 ミヨリが小さく呟いた。


「《咒縛弦》……」


 カナミは懐かしそうに目を細める。


「懐かしい名」


 完全に戻ったわけではない。


 黒い九弦は消えない。


 過去がなかったことになるわけではない。


 それでも、今の《奏哭ノ冥弦》の奥で、本来の音が一瞬だけ息をした。


 大事な音が失われないよう、結び留めるための弦。


 カナミが捨てたと思っていた音。


 捨てきれなかった音。


 灰燼奏界が崩れていく。


 桜の木に色が戻る。


 校舎の輪郭が戻る。


 夜明けの空が、灰から青へ変わっていく。


 カナミの体が、光の粒になり始めた。


 琴羽が一歩踏み出す。


「カナミさん」


 カナミは少しだけ目を逸らした。


「勘違いしないで」


 その声には、ほんの少しだけいつもの棘が戻っていた。


「救われたわけじゃない」


 詠は笑った。


「うん」


「わかってるの」


「受け取ってくれたんだよね」


 カナミは黙る。


 それから、小さく言った。


「……うるさい」


 その一言に、琴羽が泣きそうな顔で笑った。


 天音は鼻をすすり、理央は眼鏡を直すふりをした。


 澪は静かに弦へ触れる。


 カナミの光が、五人の祝具へ向かう。


 詠の《祝華》に、紫がかった一本の残響弦が一瞬灯った。


 澪の《音幻》には、音を結び留める余韻が宿る。


 琴羽の花桜鍵には、灰をほどく淡い響きが混じった。


 天音の《雷陣》には、遅れて重なる二拍目が生まれる。


 理央の《幽紫》には、低音の奥に新しい基準点が沈んだ。


 五人の音。


 ミヨリが導いた音。


 カナミが残した音。


 七つの祝音が、まだ名を持たない形で重なった。


 カナミの姿が薄れていく。


 けれど、消えてしまうという感じではなかった。


 音として残る。


 誰かの中で鳴り続ける。


 それは、カナミ自身が一番長く信じられなかったことだった。


「花咲詠」


 カナミが最後に名を呼んだ。


「はい」


「次に使い方を間違えたら、怒るから」


 詠は涙をこらえて笑う。


「うん。怒って」


 カナミは少しだけ困ったような顔をした。


 そして、光になった。


 中庭に朝の音が戻る。


 風が吹く。


 桜の枝が揺れる。


 遠くで鳥が鳴いた。


 その瞬間、空に亀裂のような音が走った。


 五人が顔を上げる。


 青く戻った空の奥に、細い黒い線が見えた。


 音ではない。


 けれど、音の律そのものに傷が入ったような気配。


 ミヨリの顔色が変わる。


「これは……律の傷じゃ」


 詠は《祝華》を握った。


「律の傷?」


 ミヨリは空を見つめたまま答える。


「音を否定するものが、まだ奥におる」


 カナミの浄化で、終わりではなかった。


 届かなかった音は、消えなかった。


 けれど、音を否定する傷は、まだ世界の奥で開いている。


 詠たちは、カナミの音を受け取ったまま、朝の空を見上げた。


 この夜明けは、次の戦いの始まりでもあった。


 しばらく、誰も動けなかった。


 カナミの姿はもうない。


 けれど、いなくなったわけではない。


 詠が《祝華》に触れると、そこには自分のものではない余韻があった。鋭くて、冷たくて、それでもどこか不器用に結ぼうとする音。


 澪も、琴羽も、天音も、理央も、それぞれ自分の祝具を見つめている。


 五人だけの音ではなくなった。


 でも、六人になったとも少し違う。


 ミヨリがゆっくり息を吐いた。


「おぬしたちは、受け取ったのじゃな」


「うん」


 詠は頷く。


「カナミさんの音を」


「重いぞ」


「わかってる」


 ミヨリは少しだけ厳しい目をした。


「受け取った音は、飾りではない。力でもあり、記憶でもあり、問いでもある。使い方を誤れば、おぬしたち自身を傷つける」


 理央が静かに答える。


「だから、確認が必要です」


 天音が空を見上げる。


「でも、今はまず」


 琴羽が小さく続ける。


「受け取ったって、言っていいよね」


 澪が頷いた。


 詠は空の傷を見る。


 ディスコードという名に繋がる、もっと大きな否定。


 そこへ向かう前に、確かめなければならない。


 カナミの音が、五人の中でどう鳴るのか。


 届かなかった音は、消えなかった。


 その事実を抱いたまま、五人は新しい朝の中に立っていた。





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