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第四十四音 灰から、ひかりへ

 《久遠黙唱》の中では、世界が音を忘れていた。


 風もない。


 桜の葉擦れもない。


 弦も、鍵盤も、太鼓も、ベースも鳴らない。


 五人の祝具は光を失いかけ、灰の中へ沈んでいく。


 カナミ自身の九弦さえ、もう音を立てていなかった。


 長い年月、誰にも届かなかった無音の旋律。


 それが《久遠黙唱》だった。


 音を壊すのではない。


 音が最初からなかったことにされる。


 詠は声を出そうとした。


 出ない。


 《声殺律》とは違う。


 喉が封じられているのではない。


 世界の方が、声を受け取ることをやめている。


 それでも、詠の胸の中で鼓動が鳴った。


 どくん。


 天音の拍が、そこに重なる。


 聞こえない。


 でも、ある。


 澪の静けさが、その拍の隙間にある。


 琴羽の芯のある優しさが、灰の中で消えずに残っている。


 理央の根音が、外へ鳴る前の基準点として沈んでいる。


 音は、鳴る前から始まってる。


 詠はそう思った。


 声になる前の息。


 弦を弾く前の指。


 誰かに届けたいと思った瞬間。


 そこに、もう音の種はある。


 詠は《祝華》を握りしめた。


 鳴らない。


 それでも、一歩踏み出す。


 攻撃ではない。


 カナミを撃ち抜くためではない。


 灰燼奏界の中心へ向かい、音で包むために。


 琴羽が隣に来た。


 花桜鍵は鳴らない。


 それでも琴羽は、両手でその祝具を抱き、カナミへ向けて口を動かす。


 声はない。


 でも、詠にはわかった。


 痛いなら、痛いままでいい。


 でも、ひとりで閉じなくていい。


 澪が続く。


 閉じていても、聴こえる。


 天音が地面を踏みしめる。


 戻ってこい。拍はここにある。


 理央が眼鏡の奥で、まっすぐカナミを見る。


 意味の証明はできません。


 それでも、残っている事実は否定できません。


 詠はカナミの前で立ち止まった。


 カナミは九弦を抱えたまま、灰の中心で膝をついている。


 音のない世界で、その目だけが揺れていた。


 詠は声にならない声で言う。


 カナミさん。


 もう一度、重ねよう。


 その瞬間、無音の中に、ひとつの残響が生まれた。


 それは詠の声ではなかった。


 澪のギターでも、琴羽の和音でも、天音の拍でも、理央の低音でもない。


 もっと古い音。


 灰の奥から浮かび上がる、過去の声。


「カナミ」


 誰かが呼んだ。


 カナミの目が見開かれる。


「鳴ってたよ」


 別の声がした。


「届かなかったんじゃない」


 また別の声。


「私たちの中で、鳴ってた」


 それが本当に過去の仲間の残響なのか。


 カナミがそう聴いただけなのか。


 詠にはわからない。


 でも、カナミは聴いていた。


 長い間、受け取れなかった音を。


「嘘」


 カナミの唇が震える。


「だって、私は」


 九弦を抱く手から、力が抜ける。


「届かなかった」


 詠は首を横に振る。


 声はまだ戻らない。


 でも、五人の鼓動が同じ拍を打っている。


 届かなかった。


 それでも、鳴っていた。


 その二つは、同時に存在していい。


 カナミの指が、初めて九弦から離れた。


 《久遠黙唱》の無音に、ひびが入る。


 遠くで、桜の花びらが一枚、音もなく舞った。


 カナミが詠を見る。


「……受け取って、いいの」


 その声は、上位堕精のものではなかった。


 数百年前、桜の下で仲間と笑っていた少女の声だった。


 詠はうなずいた。


「うん」


 声が戻った。


 小さく、けれど確かに。


「今からでも」


 カナミの目に涙が浮かぶ。


 灰色の世界に、最初の桜色が灯った。


 その光は、カナミを包み込むほど強くはなかった。


 けれど、消えなかった。


 ひとつ灯ると、澪の静かな藍が隣に生まれた。琴羽の春桃色がそれをやわらかくほどき、天音の金色の拍が光を押し上げる。理央の紫が、散らばりかけた光の根を結ぶ。


 五色の光が、灰の中で小さな円を作った。


 そこへ、カナミの中から滲み出した紫がかった灰色の残響が重なる。


 きれいな音ではない。


 傷だらけで、ところどころ途切れていて、泣き声のように震えている。


 それでも、五人はその音を避けなかった。


 琴羽が一歩近づく。


「痛い音でも、いいよ」


 今度は声が戻っていた。


「痛いまま、ここにいていい」


 カナミが顔を歪める。


「そんなの、優しさのつもり?」


「ううん」


 琴羽は首を振った。


「わたしも怖い。受け取れないかもしれない。でも、怖いまま鳴らす」


 その言葉に、カナミの九弦が小さく震えた。


 詠は気づく。


 受け取るのは、カナミだけではない。


 五人もまた、カナミの痛みを「わかったつもり」にならず、怖いまま受け止めようとしている。


 だから、この光は消えない。


 灰から、少しずつひかりへ変わっていく。


 カナミは、その光に手を伸ばしかけて、すぐ引っ込めた。


「受け取ったら」


 声が震えている。


「あの子たちが、本当にいなくなったことを認めるみたいで嫌だった」


 詠は黙って聞いた。


 カナミの言葉は、初めて五人へ向いた弱音だった。


「届かなかったって言い続けていれば、まだ弾いていられた。意味がなかったって言えば、失ったことを考えずに済んだ」


 九弦が小さく軋む。


「でも、本当は」


 カナミは灰の奥を見る。


「覚えてる。全部」


 その言葉と同時に、桜色の光がもう一段強くなった。


 受け取ることは、忘れることではない。


 終わらせることでもない。


 残っていると認めることだった。



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