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第四十三音 あなたの音を、歌う

「私の音を歌わないで」


 カナミの声が、灰の中で震えた。


 怒りだった。


 拒絶だった。


 けれど、その奥にあるのは恐怖だと、詠は思った。


 歌われたら、残っていたことを認めなければならない。


 捨てたはずの音が、まだどこかで鳴っていると知ってしまう。


 詠は《祝華》を構える。


「歌う」


「やめて」


「あなたが捨てきれなかったから」


 カナミの九弦が激しく鳴った。


 灰が渦を巻く。


 詠の声はまだかすれている。


 完全な歌声ではない。


 でも、四人がいる。


 澪が一拍遅れて、詠の旋律を追う。


 琴羽がさらに遅れて、和音を重ねる。


 天音が拍をずらし、ずれた拍をまた戻す。


 理央が低音で、過去と今の基準点を同じ場所に置く。


 《ReKanon》。


 失われた輪唱を、もう一度響かせる歌。


 詠が最初の旋律を歌う。


「届かなかった声を」


 澪のギターが、一拍遅れて同じ形を追いかける。


「ここで終わりにしない」


 琴羽の和音が、桜色と春桃色の光を重ねる。


「灰に沈んだ旋律を」


 天音の拍が、沈みかけた音を押し上げる。


「もう一度、重ねよう」


 理央の低音が、音の底で静かに鳴った。


 カナミは九弦でかき消そうとする。


 《奏哭ノ冥弦》が灰を呼ぶ。


 届かなかった音の残骸が、五人の旋律を飲み込もうとする。


 それでも《ReKanon》は消えなかった。


 詠が歌い、澪が追い、琴羽が包み、天音が戻し、理央が支える。


 同じ旋律が、少しずつ遅れて重なる。


 一つの音が消されても、次の音が追いつく。


 次の音が沈んでも、その後ろからまた別の音が来る。


 過去の音を、今の音が追いかける。


 今の音を、未来の音が支える。


「あなたの音は」


 詠はカナミを見る。


「まだ誰かと鳴れる」


 カナミの指が震えた。


「違う」


 九弦の一本が、不意に違う光を帯びる。


 黒い弦の奥に、澄んだ残響が浮かんだ。


 ミヨリが目を見開く。


「あれは……」


 その声は震えていた。


「《咒縛弦》の音じゃ」


 カナミが自分の手元を見る。


 一瞬だけ、今の九弦ではない音が鳴った。


 大事な音を、失われないように結び留めるための弦。


 過去のカナミが信じていた音。


「やめて」


 カナミの声が小さくなる。


「それを鳴らさないで」


 詠は首を横に振った。


「私たちが鳴らしてるんじゃない」


 カナミの目が揺れる。


「カナミさんの中に、まだ残ってる」


 その言葉が、灰の世界を震わせた。


 過去の笑い声が、遠くで鳴る。


 届かなかったはずの声。


 消えたはずの拍。


 残らなかったと信じ込んだ旋律。


 それらが、《ReKanon》の輪の中で、少しずつ形を取り戻す。


 カナミの表情が歪んだ。


「なら」


 九弦が、すべての光を吸い込む。


「全部黙らせる」


 ミヨリが身を固くする。


「まずい、最大技じゃ」


 カナミは九弦を胸の前で構えた。


 灰の世界が、一瞬で静まり返る。


 音が消える前の静けさ。


 世界そのものが息を止める。


「《久遠黙唱》」


 九弦が鳴った。


 いや、鳴ったはずだった。


 次の瞬間、世界から音が消えた。


 詠の声も。


 澪のギターも。


 琴羽の和音も。


 天音の拍も。


 理央の低音も。


 すべてが無音へ沈む。


 音のない世界で、詠は自分の鼓動だけを感じた。


 どくん。


 無音の中で、それでも五人の鼓動だけが残った。


 詠は膝をつきそうになった。


 《ReKanon》が止まる。


 輪唱の輪が切れる。


 声も、弦も、鍵盤も、拍も、低音も、全部が黒い水の底へ沈んでいくようだった。


 カナミは無音の中心に立っている。


 勝ち誇ってはいない。


 むしろ、いちばん苦しそうに見えた。


 《久遠黙唱》は五人を黙らせる技であると同時に、カナミ自身をも黙らせる音だった。


 誰にも届かなかった時間を、そのまま世界に押し広げる。


 そんな音を、数百年抱えていた。


 詠は声のない世界で、胸を押さえる。


 どくん。


 鼓動がある。


 自分だけではない。


 ほんのわずかに、隣の鼓動も感じる。


 音として鳴る前の、命の拍。


 《断絶律》でも切れず、《声殺律》でも消えず、《久遠黙唱》の無音の底にも残ったもの。


 詠は顔を上げた。


 歌は終わっていない。


 まだ、鳴る前の場所に残っている。


 無音の中で、詠は四人を探した。


 姿は見える。


 でも、音がない。


 澪の弦も、琴羽の鍵盤も、天音の拍も、理央の低音も、全部が白い闇に沈んでいる。


 それでも、四人は倒れていなかった。


 澪は弦に触れたまま、詠を見ている。


 琴羽は花桜鍵を胸に抱き、唇を噛んでいる。


 天音は足を踏ん張り、音のない拍を刻もうとしている。


 理央は目を閉じ、聞こえない低音を数えている。


 みんな、まだ鳴ろうとしている。


 その事実だけで、詠の胸の中に次の旋律が生まれた。


 声にならなくてもいい。


 まず、一歩。


 無音の中心へ。



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