第四十二音 灰になった五重奏
《灰燼奏界》は、前回よりも深かった。
中庭の形は残っている。
桜の木も、校舎も、石畳も、そこにある。
けれど色がない。
音が灰になった世界。
届かなかった声が、形を失って漂う場所。
詠たちの周囲に、古い残響が浮かび上がった。
今の五人ではない。
数百年前の五人。
その中心に、カナミがいる。
今より少し幼く見える顔で、けれど目の奥には強い光があった。
手には《咒縛弦》。
今の《奏哭ノ冥弦》のような黒い九弦ではなく、澄んだ光を宿した弦。
過去のカナミが弾く。
音は少し下手だった。
隣の少女が拍を走らせ、別の少女が笑う。誰かが歌詞を間違え、誰かが「そこ違う」と言って、また笑う。
完璧ではない。
むしろ、今の五色ノ契よりずっと危なっかしい。
それでも、その音は明るかった。
誰かに届けようとしていた。
「届くかな」
過去の誰かが聞いた。
カナミは笑って答える。
「届くまで鳴らす」
詠は息をのんだ。
その言葉は、今のカナミが否定しているものそのものだった。
灰が濃くなる。
笑い声が歪む。
明るい五重奏の向こう側から、音を否定する大きな律が押し寄せてくる。
それは姿を持たない。
けれど、圧だけでわかる。
鳴った音をなかったことにする力。
届かなかったものを、最初から無意味だったと囁く力。
過去の四人の音が遠ざかる。
カナミが必死に《咒縛弦》を鳴らす。
「待って」
弦が震える。
「まだ、結べる」
消えかける音を結び留めようと、カナミは何度も弾いた。
一本。
また一本。
弦が光り、切れかけた旋律を掴もうとする。
けれど届かない。
掴んだと思った音は、指の間から灰になってこぼれる。
「まだ」
カナミの声が割れる。
「まだ、鳴ってる」
四人の影が遠ざかる。
最後に、誰かがカナミの名を呼んだ気がした。
でも、その声も灰に沈んだ。
残ったのは、カナミだけだった。
詠は足を止めた。
琴羽は泣きそうな顔で、花桜鍵を抱きしめている。
天音は拳を握り、今にも何かを叩き壊しそうだった。
澪は静かにカナミを見ている。
理央は目を伏せ、唇を噛んでいた。
詠の胸も痛かった。
けれど、ここでカナミをかわいそうな人として抱きしめてはいけない。
これは、私たちが勝手に抱きしめていい痛みじゃない。
詠はそう思った。
この痛みはカナミのものだ。
失った事実も、届かなかった絶望も、詠たちが代わりに持つことはできない。
だからこそ、向き合わなければならない。
カナミが現在の姿で、灰の中心に立っていた。
過去の自分を見ているのか。
詠たちを見ているのか。
その両方なのか。
「見たでしょう」
カナミの声が、灰の中で響く。
「届かなかった音は、灰になる」
九弦が鳴る。
灰の世界が、さらに深く沈む。
「残らない。戻らない。意味なんてない」
詠は喉に手を当てた。
《声殺律》の影響が、まだ残っている。
完全な声は戻らない。
けれど、四人の音がそばにある。
声が出る前から、歌は始まっている。
詠は息を吸った。
かすれた声が、灰の中へ落ちる。
「灰になっても」
カナミが振り返る。
初めて、詠の声がカナミへ向かった。
完全ではない。
弱く、かすれて、震えている。
それでも、消えていない。
詠は《祝華》を握りしめた。
「灰になっても、なかったことにはならない」
カナミの目が細くなる。
「なった」
「届かなかったことは、事実だよ」
詠は逃げない。
「でも、意味がなかったとは言えない」
灰の中で、五人の音が静かに息をし始めた。
カナミは答えなかった。
ただ、九弦を抱える腕に力を込めた。
「意味があったなら」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
むしろ、小さかった。
「どうして、誰も返事をしてくれなかったの」
詠は息を止めた。
その問いには、誰もすぐに答えられなかった。
返事がなかった。
届かなかった。
戻らなかった。
その事実は、どれだけ五人が音を重ねても変えられない。
澪が弦に触れる。
「返事がないことと、鳴っていなかったことは違う」
琴羽が震える声で続けた。
「届かなかった痛みを、なかったことにはしない」
天音が拍を置く。
「でも、鳴ったことまで消させない」
理央の低音が沈む。
「事実は一つではありません。届かなかった事実と、鳴っていた事実は、同時に存在します」
詠は、その四人の言葉を受け取った。
そして、もう一度歌う準備をした。
今度は、カナミの音を否定するためではない。
カナミ自身が捨てきれなかった音を、もう一度重ねるために。
灰の中で、過去のカナミがこちらを見た気がした。
それは幻かもしれない。
《灰燼奏界》が見せる記憶の残骸かもしれない。
けれど、その表情は今のカナミよりもずっとまっすぐで、ずっと傷つきやすそうだった。
詠は、その少女に向けても弾くのだと思った。
今のカナミだけではない。
届くと信じていた昔のカナミ。
届かなかったと信じ込むしかなかった今のカナミ。
その両方の前に、五人の音を置く。
受け取るかどうかは、カナミが決める。
でも、置くことから逃げない。
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