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第四十一音 歌えない歌

 《声殺律》が、詠の喉を塞いだ。


 音が出ない。


 口を開いても、空気だけが震える。


 前回と同じだった。


 声が、出口の手前で灰になる。


 歌えない。


 花咲詠の一番奥にあるはずの音が、また奪われる。


 でも、今回はそこで戦いが止まらなかった。


 澪が《音幻》を鳴らす。


 詠が歌おうとしていた旋律の輪郭を、静かなギターでなぞった。


 完全に同じではない。


 詠の声ではない。


 けれど、詠がどこへ行こうとしていたのかを、澪は知っている。


 琴羽が花桜鍵を弾く。


 歌詞の母音のような、やわらかい和音が置かれる。


 言葉になる前の声。


 泣く前の息。


 誰かに届いてほしいと願う時の、震える空気。


 天音が拍を刻んだ。


 歌詞の代わりに、文節を作る。


 ここで息を吸う。


 ここで踏み込む。


 ここで諦めない。


 理央の《幽紫》が低音を沈める。


 歌が迷っても帰ってこられる場所。


 声にならない詠の音を、四人がそれぞれの形で支えた。


 詠は声が出ないまま、《祝華》を弾く。


 歌えない。


 でも、歌が消えたわけではない。


 指先に残っている。


 胸の奥に残っている。


 四人の音の中に、詠の歌がまだある。


 カナミの指が止まった。


 ほんの一瞬。


 その一瞬に、灰色の中庭の奥で、別の景色が揺れた。


 桜の下。


 今とは違う制服。


 今とは違う五人。


 そのうちの一人が泣いていた。


 歌えない、と言って、口元を押さえている。


 昔のカナミが、その子の隣に座っていた。


 手には、今の九弦ではない。


 細く澄んだ弦を持つ祝具。


 《咒縛弦》。


 カナミは弦を鳴らし、泣いている子の旋律を結び留める。


「大丈夫」


 過去のカナミが言う。


「歌えなくても、音は消えない」


 その声は、優しかった。


 今のカナミとは違う。


 でも、同じ人の声だった。


 景色が割れる。


 現在のカナミが、歯を食いしばった。


「違う」


 九弦が激しく鳴る。


「そんな音は、残らなかった」


 灰が舞い上がる。


 澪の旋律が揺れる。


 琴羽の和音が乱れる。


 天音の拍が押し返され、理央の低音が沈みかける。


 それでも四人は止まらない。


 詠は声が出ないまま、口を動かした。


 消えてない。


 音にはならなかった。


 けれど、澪がその言葉を拾う。


「消えていない」


 琴羽が続いた。


「ここにある」


 天音が強く拍を置く。


「まだ鳴ってる」


 理央が低音を立て直す。


「観測できます。私たちの中に」


 カナミの目が揺れた。


 怒りか、痛みか、恐怖か。


 その全部が、灰の奥で混じっていた。


「違う」


 カナミの声が低くなる。


「残ったなら、なぜ私は一人だったの」


 その言葉に、詠の胸が締めつけられる。


 答えられない。


 声が出ないからではない。


 簡単に答えてはいけない問いだった。


 届かなかった音がある。


 戻らなかった人たちがいる。


 カナミだけが残った。


 その事実に、詠たちの言葉だけで蓋をすることはできない。


 だから、詠は弾いた。


 答えではなく、逃げないための音を。


 カナミが九弦を強く握る。


「なら見せてあげる」


 灰色の光が、九弦から溢れた。


「残らなかった音の、終わりを」


 ミヨリが叫ぶ。


「《灰燼奏界》じゃ!」


 中庭の色が失われる。


 桜の木も、校舎も、夜明けの空も、すべてが灰に沈む。


 前回より深い。


 足元から立ち上がる灰が、五人の周囲に古い残響を浮かべていく。


 その中で、五人ではない別の笑い声が聞こえた。


 誰かが拍を間違え、誰かが笑う。


 誰かが「もう一回」と言う。


 灰の中に、失われた五重奏が現れ始めていた。


 詠は声のないまま、その笑い声を聴いた。


 楽しそうだった。


 だからこそ、痛かった。


 カナミが失ったものは、ただ強い仲間でも、ただ過去の戦力でもない。間違えて笑い合い、泣いても次の音を探し、届くかどうかわからないまま一緒に鳴らしていた時間だった。


 それを「意味がなかった」と言わなければ、カナミはきっと立っていられなかった。


 詠はそう思った。


 なら、否定するだけでは届かない。


 あなたの音には意味がある、と叫ぶだけでは、きっとカナミは受け取らない。


 カナミ自身が、灰の中に残っている音を見つけなければならない。


 そのために、五人はここにいる。


 詠は《祝華》を握り直した。


 声はない。


 それでも、次に声が戻った時、最初に何を言うべきかは、もう決まっていた。


 澪が詠を見る。


 声は届かない。


 けれど、その目が言っていた。


 急がなくていい。


 琴羽の和音が、灰に削られながらも残る。


 無理に明るくするための音ではない。泣きそうなまま、震えたまま、そこにいていいと伝える音。


 天音の拍は荒くならなかった。


 怒りはある。けれど、その怒りをカナミへぶつけるのではなく、詠が戻る場所として刻み続ける。


 理央の低音は、ひどく静かだった。


 証明できないものを、今は支えている。


 四人の音が、詠の中で言葉になる。


 消えてない。


 その一言を、詠はもう一度、声にならないまま口にした。



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