第四十音 断ち切れない音
《断絶律》は、前回と同じように五人を切り離した。
詠の耳には、自分の《祝華》の音しか届かない。
澪は目の前にいる。
琴羽も、天音も、理央もいる。
それなのに、音としては届かない。
まるで薄い硝子を何枚も挟まれたように、声も気配も遠い。
普通なら、ここで崩れる。
前回は崩れた。
詠は焦り、澪は単独で弾き、天音は拍を強くし、理央は計算し、琴羽は包もうとして、それぞれの音が灰に飲まれた。
でも、今は違う。
天音が掌を叩いた。
ぱん、と小さな音。
それは誰にも届かない。
《断絶律》の壁に阻まれ、中庭に散る。
けれど詠の胸の中で、同じ拍が鳴った。
昨日、夜明け前の準備室で共有した拍。
線になる前の音。
届く前から、全員が持ってきた基準。
澪は静けさを外へ伸ばさない。
自分の内側で、詠の声を待つ。
琴羽は包もうと急がない。
やさしさを外へ投げる前に、自分の芯を保つ。
天音は引っ張らない。
戻れる場所として、拍を置く。
理央は低音を外へ送らない。
五人全員が覚えている基準点として、胸の奥に沈める。
詠は歌う前に、四人の音を思い出す。
聴こえない。
でも、ある。
それを信じる。
カナミの眉が、わずかに動いた。
「なぜ」
その声は聞こえた。
敵の音だけが届く。
こちらの繋がりだけが断たれている。
理央が口を開く。
詠には声として届かない。
でも、理央の唇の動きと、事前に共有した考えで意味がわかった。
外へ繋ぐ線は断たれました。
でも、共有済みの基準点までは断てません。
天音がスティックを鳴らす。
今度は少しだけ強く。
「線を切られるなら」
声は届かない。
でも、詠にはわかる。
「線になる前の拍を持てばいい」
澪が弦を鳴らした。
静かな音。
外には届かない。
けれど、その静けさが、詠の中にある澪の音と重なる。
「届く前から、聴いている」
カナミの九弦が震える。
前回は、五人の音を断てばそれで終わった。
だが今回は、断たれた後にも五人が倒れない。
音は外で繋がっていない。
それでも、内側で同じ拍を持っている。
詠は《祝華》を鳴らした。
桜色の旋律が走る。
同時に、澪の静かな線が重なる。
聞こえない。
けれど、重なっていると信じて弾く。
琴羽の和音が、少し遅れて咲く。
天音の拍が、地面を支える。
理央の低音が、見えない足場を作る。
五人の音は、前回のように即座にはばらばらにならなかった。
カナミへ届くほど大きくはない。
それでも、灰に飲まれる前に、一つの形を作った。
カナミは九弦で受ける。
詠の音は、まだ吸い込まれた。
桜色の旋律が、《奏哭ノ冥弦》の奥へ沈む。
「上手くなった」
カナミが言う。
褒め言葉ではない。
試験の結果を告げるような、冷たい声。
「でも、届いていない」
詠は歯を食いしばった。
届いていない。
確かにそうだ。
カナミの中心には、まだ触れていない。
でも、前回とは違う。
今回は、消されても五人の音が残っている。
届かないから終わりではない。
届くまでの道が、まだ続いている。
カナミが九弦の別の弦に指をかけた。
「なら、声を消す」
ミヨリが叫ぶ。
「第二奏じゃ!」
詠は喉を押さえなかった。
逃げなかった。
《声殺律》が、まっすぐ詠へ向かう。
灰色の音が喉元に絡みつく。
前回と同じ冷たさ。
歌が、出口の前で止まる感覚。
けれどその瞬間、四人が一歩、詠の前へ出た。
澪が旋律の輪郭を構える。
琴羽が和音を抱く。
天音が文節の拍を置く。
理央が歌の帰る場所を沈める。
詠の声が消される。
それでも、歌を消させないために。
カナミの《声殺律》は、詠だけを狙っていた。
花咲詠の声。
五人の中心へ届こうとする、まっすぐな旋律。
そこを封じれば、五色ノ契はまた崩れる。カナミはそう知っている。前回、それは正しかった。
だが、今回は詠自身も知っていた。
自分の声が大事なこと。
そして、自分の声だけでは足りないこと。
だから詠は、喉を押さえなかった。
出ない声を無理に引きずり出そうともしなかった。
かわりに、四人を見た。
聞こえないはずの澪の音を、待つ。
混ざらないはずの琴羽の和音を、信じる。
返ってこないはずの天音の拍を、胸の中で数える。
届かないはずの理央の低音を、足元に感じる。
声が奪われる瞬間、詠は思った。
歌は、私ひとりのものじゃない。
《声殺律》が喉に落ちる。
音が消える。
でも、四人はもう動いていた。
カナミはその動きを見て、ほんのわずかに目を細めた。
「また同じことをすると思っていた」
その声には、失望に備えていた冷たさがあった。
詠は答えられない。
だが、答える必要はなかった。
澪の指が弦の上で待っている。琴羽の手が鍵盤に触れている。天音のスティックが空中で拍を数え、理央の指が低音の位置を探っている。
四人は詠の代わりに歌うのではない。
詠の歌を奪い返すのでもない。
声が消えた場所に、歌が消えていないことを証明しにいく。
そのための一歩だった。
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