第三十九音 二度目の対峙
夜明け前の学院は、まだ眠っているようだった。
東の空だけが薄く白み始め、校舎の窓は暗いまま沈黙している。誰もいない廊下を、五人の足音だけが進んでいく。
九弦の音は、もう一度鳴った。
低く、深く、灰を含んだ音。
前に聞いた時と同じ音のはずなのに、詠の足は止まらなかった。
怖さはある。
喉の奥には、昨日封じられた感覚がまだ残っている。胸の中にも、あの灰色の世界の冷たさが残っている。
それでも、今日は違った。
誰かが先頭に立って、ほかの四人を引っ張っているのではない。
澪の静けさが隣にある。
琴羽の息遣いが後ろにある。
天音の小さな拍が足元にある。
理央の低音の気配が、まだ鳴る前から部屋の中心を決めている。
まだ音は鳴っていない。
それでも、五人はもう同じところに立っていた。
中庭へ出る。
桜の木の下に、カナミ=リクレインがいた。
黒と紫の装束。長い黒髪。右が深紅、左が藍のオッドアイ。
背には九弦ギター《奏哭ノ冥弦》。
カナミは、五人を見る。
前回と同じ静けさだった。
けれど、ほんの少しだけ違う。
期待しているようで、期待したくないような顔。
信じる前から、失望に備えている人の顔。
「来たね」
カナミが言った。
「答えは持ってきた?」
詠は一歩前へ出た。
「持ってきた」
「なら、鳴らして」
短い言葉。
それだけで、戦いが始まる。
でも、詠はすぐに弾かなかった。
《祝華》を構え、カナミをまっすぐ見る。
「カナミさん」
「その呼び方、嫌い」
「でも、そう呼ぶ」
カナミの目が細くなる。
詠は息を吸った。
「届かない音に、意味なんてない」
カナミが先に言った。
それは昨日の続きだった。
昨日、五人を折った言葉。
詠は逃げなかった。
「それでも、鳴らすよ」
カナミの指が、九弦の肩紐に触れる。
「また失うだけだ」
澪が一歩、詠の隣に出た。
「失うのが怖いなら」
琴羽が続く。
「なおさら、今の音を聞いてほしい」
天音がスティックを握る。
「届くまで叩く」
理央が眼鏡を直した。
「証明はできません。でも、無意味ではありません」
詠は《祝華》の弦に指を置く。
「あなたが捨てきれなかった音を」
五人の声が重なった。
「私たちが、もう一度鳴らす」
中庭の空気が震えた。
まだ演奏は始まっていない。
それでも、言葉の奥で、五人の音が一つの輪郭を持ち始めていた。
カナミの表情が、わずかに歪む。
「知ったようなことを」
怒りだった。
でも、その怒りはまっすぐ燃えるものではない。
灰の下に埋もれた火が、少しだけ空気に触れたような揺れ。
「知らない」
詠は言った。
「だから、鳴らす」
カナミが九弦を構える。
「知らないなら、触れないで」
「触れるんじゃない」
詠は《祝華》を構え直す。
「置きに来た。受け取るかどうかは、カナミさんが決めて」
「傲慢」
「うん。そうかもしれない」
詠は頷いた。
「でも、昨日負けて、聞いて、考えて、それでもここに来た。だから、鳴らす」
カナミの九弦が、朝の光を吸い込む。
「なら、もう一度断つ」
ミヨリが詠の肩の上で身を固くした。
「来るぞ」
九弦が鳴った。
美しい音だった。
恐ろしいほど美しい、断つための音。
「第一奏、《断絶律》」
見えない刃が、五人の間に落ちた。
前回と同じ。
詠は澪の音を失う。
琴羽の色が遠のく。
天音の拍が返ってこない。
理央の根音が届かない。
五人が、同じ中庭に立ったまま、ばらばらの世界へ切り離される。
けれど今度は、五人の目が逸れなかった。
詠は喉を押さえない。
澪は弦から指を離さない。
琴羽は花桜鍵を抱きしめたまま、逃げない。
天音は足元に拍を置く。
理央は、誰にも聞こえない低音を、自分の内側で鳴らした。
断たれた。
それでも、始まる前に共有した音までは、まだ消えていない。
詠はそのことを、胸の奥で確かめた。
昨日の自分なら、ここで叫んでいた。みんなの名を呼び、返事がないことに怯え、どうにか繋がろうとして、届かない壁にぶつかっていた。
でも、今は違う。
繋がりは、相手の音が聞こえることだけではない。
聞こえなくなる前に、何を一緒に持ってきたか。
鳴る前の拍を、どれだけ信じられるか。
その問いを、五人は夜明け前に選んできた。
カナミは、五人の沈黙を見ていた。
崩れない。
泣き出さない。
互いの名を呼び合って混乱しない。
前回と同じように切ったはずなのに、五人は切られたまま、まだ立っている。
「……何をしたの」
カナミの声が、ほんの少し低くなった。
詠には答えられない。
まだ、答えは音になっていない。
けれど、五人の視線は同じだった。
ここからだ。
断たれてから、どう鳴るか。
その答えを、これから見せる。
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