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第三十八音 夜明け前のReKanon

 その夜、詠は眠れなかった。


 部屋の灯りを消しても、目を閉じるたびに旧演奏棟で聞いた話が戻ってくる。


 数百年前の祝音少女。


 五人で律を守っていた少女たち。


 カナミの祝具だった《咒縛弦》。


 失われないように、大事な音を結び留めるための弦。


 そして今、届かなかった音を哭き続ける九弦《奏哭ノ冥弦》。


 詠はベッドから起き上がった。


 枕元の《祝華》を手に取り、そっと弦を鳴らす。


 夜の部屋に、桜色の音が落ちた。


 いつもより重い。


 カナミの過去を聞く前と、同じ音にはならなかった。


「救いたい」


 小さく呟いて、詠はすぐに口を閉じた。


 その言葉は、部屋の空気に馴染まなかった。


 救う。


 そう言えば、きれいに聞こえる。


 でも、詠はカナミの痛みを知らない。


 数百年の孤独も、四人の仲間を失った瞬間も、自分の音が届かなかった絶望も、本当の意味では知らない。


 知らないまま「救う」と言うのは、どこか違う。


 救う、なんて言えるほど、私はカナミさんの痛みを知らない。


 詠はもう一度、弦を鳴らした。


 音が揺れる。


 その揺れに気づいたように、窓の外で小さな音がした。


 振り返ると、澪が立っていた。


「澪ちゃん?」


「ごめん」


 澪は窓ではなく、部屋のドアから入ってきた。ミヨリが案内したらしく、白い式神が廊下の端で静かに尻尾を揺らしている。


「音が揺れていたから」


「聞こえたの?」


「少し」


 澪は部屋に入り、《音幻》のケースを壁に立てかけた。


 詠は苦笑する。


「変な音だった?」


「迷っている音だった」


「そっか」


 詠は《祝華》を抱えたまま、床に座り込んだ。


 澪も向かいに座る。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 言葉より先に、夜の静けさが二人の間に置かれる。


「救いたいって、思った」


 詠が言う。


「でも、違う気がした」


 澪は頷いた。


「救おうとすると、届かないかもしれない」


 その言葉に、詠は顔を上げる。


「どうして?」


「救うという言葉には、こちらが上に立つ響きがある」


 澪は静かに言った。


「カナミは、たぶんそれを受け取らない」


 詠は息を吸う。


 昨日のカナミを思い出した。


 勝ち誇らず、壊したいわけでもなく、ただ五人の音がどこまで届くかを試していた少女。


 かわいそうな人として見られたら、きっと拒む。


「じゃあ、どうすればいい?」


 澪は少し考えた。


「受け取ってもらう」


 短い言葉だった。


 でも、詠の中で何かが音を立てた。


「受け取ってもらう……」


「こちらが正しいと押しつけるのではなく、カナミの前に音を置く。受け取るかどうかは、カナミが決める」


「受け取ってくれなかったら?」


「それでも、置く」


 澪の声は揺れなかった。


「届かないかもしれない。それでも鳴らす。詠が、最初からしてきたこと」


 詠は《祝華》を見る。


 転入初日。


 校舎裏。


 音が消えた場所で、怖くても鳴らした。


 友達がほしいと思っていた自分が、誰かに届いてほしいと願った最初の音。


 それは、相手を救うための音ではなかった。


 ただ、ここにいると伝えたかった音だった。


「そっか」


 詠は小さく笑った。


「受け取ってもらうために、鳴らすんだ」


 ※ ※ ※


 夜明け前の音楽準備室に、五人が集まった。


 誰かが呼び出したわけではない。


 詠と澪が準備室へ向かう途中、琴羽がいた。琴羽は「眠れなかった」と言った。


 校舎裏の階段では天音が待っていた。スティックケースを肩にかけ、何も言わずに二人へ合流した。


 準備室の前では理央がノートを開いていた。すでに何ページも書き込まれている。


「集合時間を決めた記憶はありませんが」


 理央が言う。


「全員、同じ結論に近づいたようですね」


 天音が笑う。


「理央のそういう言い方、今はちょっと安心する」


「褒め言葉として受け取ります」


 五人は準備室の中央に円を作った。


 ミヨリは譜面台の上に座っている。


 詠は、昨夜澪と話したことを伝えた。


 倒すのではない。


 救うのでもない。


 カナミの前に音を置く。


 受け取るかどうかは、カナミ自身に委ねる。


 琴羽は胸に手を当てた。


「優しくしたいだけじゃ届かないなら、ちゃんと芯を持って置きたい」


 天音がスティックを鳴らす。


「受け取らせるために、全力で鳴らす」


 理央がノートを開いた。


「受け取るかどうかは、相手の自由です」


 ペン先が紙を叩く。


「しかし、差し出す音の強度は、こちらの責任です」


 澪が頷く。


「届く前から、繋がっている音で行く」


 詠はその言葉を受け取った。


「曲にしたい」


 五人が詠を見る。


「カナミさんの前に置く音。私たちだけの音じゃなくて、カナミさんの音も、もう一度重ねられるような曲」


 理央がページをめくる。


「カノンという形式があります」


「カノン?」


 琴羽が首を傾げる。


「同じ旋律を、少し遅れて重ねる形式です。先に鳴った音を、後から別の声部が追いかける。過去の音と今の音が、同じ場所に並ぶ」


 詠の胸が熱くなる。


 過去の音。


 今の音。


 追いかけて、重なって、消えたと思った旋律をもう一度鳴らす。


「じゃあ、カナミさんの音も、もう一度重ねられる?」


 琴羽が聞く。


 詠はうなずいた。


「うん」


 言葉が、自然と出た。


「ReKanon」


 ミヨリの耳が動いた。


「倒すのではないのじゃな」


 詠はミヨリを見る。


「うん」


 そして、続ける。


「でも、負けるつもりもない」


 天音が笑った。


「それでこそ」


 澪が《音幻》を構える。


 琴羽が花桜鍵を胸に抱く。


 理央が《幽紫》のケースに手を置く。


 詠は《祝華》を握った。


 五人の間に、まだ音は鳴っていない。


 でも、昨日までとは違う。


 鳴る前から、同じ場所を見ている。


 その時、遠くで九弦が鳴った。


 低く、深く、灰を含んだ音。


 昨日なら、詠だけが身を固くしていたかもしれない。


 けれど今度は違った。


 五人全員が、その音を聴いた。


 ミヨリが静かに言う。


「来たか」


 詠は一歩前へ出る。


「カナミさん」


 まだここにはいない相手へ、声を向ける。


「あなたの音は、終わってない」


 夜明け前の空が、薄く白み始めていた。


 灰の向こうで、カナミ=リクレインが待っている。


 五人は、夜明け前の音を握りしめた。




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