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第三十七音 数百年前の祝音少女

 夜の旧演奏棟は、昼間よりもずっと古く見えた。


 使われなくなった廊下には、細い月明かりが差し込んでいる。壁に貼られた古い掲示物は端がめくれ、床板は歩くたびに小さく鳴った。


 その音が、妙に生きているように聞こえる。


 詠たちは、旧演奏室の中央に集まっていた。


 窓の外には桜の枝が見える。


 昨日、カナミが立っていた中庭の桜とは違う。けれど、月明かりの下で揺れるその枝は、どこか同じ影を持っていた。


 ミヨリは譜面台の上に座っている。


 いつものような偉そうな姿勢ではない。


 小さな体をまっすぐにして、五人を見ていた。


「聞けば、あやつを見る目が変わる」


 最初にそう言った。


 誰も口を挟まなかった。


「それでも聞くか」


 詠は《祝華》を抱きしめた。


 怖い。


 聞けば、きっとカナミをただの敵とは思えなくなる。


 でも、もう思えていない。


 昨日の九弦。


 今日、琴羽と澪が言ったこと。


 天音と理央が掴み直した、役割の奥の音。


 全部が、カナミという名前の奥へ向かっている。


「変わらなきゃ、届かない気がする」


 詠が答える。


 ミヨリは目を細めた。


「そうか」


 少しだけ、風が鳴った。


 古い窓枠がかすかに震える。


 ミヨリは語り始めた。


「数百年前、神響には別の祝音少女たちがおった」


 琴羽が息をのむ。


 澪は静かに目を伏せた。


「五人で音を鳴らし、律を守っておった。おぬしたちと同じように、笑って、迷って、ぶつかって、それでも誰かに届けようとしていた」


「その中に、カナミさんがいたの?」


 詠が聞く。


 ミヨリは頷いた。


「中心にいた一人が、カナミじゃ」


 カナミ。


 昨日の中庭で、上位堕精カナミ=リクレインと名乗った少女。


 九弦ギター《奏哭ノ冥弦》を構え、五人の音を断ち切った人。


 その人が、かつて音を守る側にいた。


「カナミが持っていた祝具は、かつて《咒縛弦》と呼ばれておった」


 聞いたことのない名だった。


 けれど、その響きは不思議と怖くない。


 理央が小さく繰り返す。


「《咒縛弦》……」


「音を縛るためではない」


 ミヨリは言った。


「大事な音が失われぬよう、結び留めるための弦じゃ」


 詠の胸に、何かが触れた。


 結び留める。


 失われないように。


 今の《奏哭ノ冥弦》とは、まるで逆の名前だった。


「じゃが、今のあやつが鳴らすのは《奏哭ノ冥弦》」


 ミヨリの声が重くなる。


「届かなかった音を、哭き続ける九弦じゃ」


 天音が拳を握った。


「何があったんだよ」


「すべてを知っておるわけではない」


 ミヨリは首を横に振る。


「ワシが見たもの、聞いたもの、残された記録。その全部を合わせても、あやつの痛みの底までは届かぬ」


「それでも」


 澪が言う。


「話せるところまででいい」


 ミヨリは頷いた。


「カナミたちは、音を否定する大きな律に触れた」


 その言葉だけで、部屋の温度が下がった気がした。


「ディスコード、ですか」


 理央が問う。


 ミヨリはすぐには答えない。


「その名で呼ばれるものへ繋がる、古い否定じゃ。音はいつか途切れる。届かぬ音に意味はない。残らぬものは、最初から鳴らなかったのと同じ。そう囁く律」


 詠は唇を噛む。


 昨日カナミが言った言葉と、同じ根を持っている。


「四人の仲間は、音を届けようとした」


 ミヨリの声が、少しだけ震えた。


「カナミも弾いた。《咒縛弦》で、消えかける音を結び留めようとした。けれど、届かなかった」


 誰も動かなかった。


 月明かりの中で、五人はその言葉を聞いていた。


「四人は?」


 琴羽の声が小さい。


 ミヨリは目を伏せた。


「戻らなかった」


 琴羽が口元を押さえる。


「カナミだけが残った」


「ひとりで……?」


「そうじゃ」


 ミヨリは旧演奏室の奥を見る。


 そこには何もない。


 でも、詠には一瞬、桜の下で笑う五人の影が見えた気がした。


 音程がずれて、誰かが笑って、誰かが泣きながら歌っている。


 その中心で、カナミが弦を結んでいる。


 大丈夫。


 まだ残せる。


 まだ届く。


 そう信じていた少女の姿。


「残ったカナミは、信じかけた」


 ミヨリが言う。


「届かない音に意味はない、と」


「でも」


 詠は思わず声を出した。


「でも、信じきれなかったんだ」


 ミヨリが詠を見る。


「そうじゃ」


 詠の中で、昨日のカナミの言葉がつながっていく。


 本物なら残る。


 偽物なら壊れる。


 届くはず。


 届かないなら、信じるだけ残酷。


 カナミは否定していた。


 でも、否定しきれていなかった。


 本当に何も信じていないなら、五人の音を試しになど来ない。


「だから今も、鳴らしておる」


 ミヨリの声が、静かに落ちた。


「届かなかった音に意味はないと、自分に言い聞かせるために。あるいは、まだどこかで、それを否定してくれる音を探すために」


 天音が立ち上がった。


 椅子が小さく鳴る。


「そんなの」


 怒りが声に混じっていた。


 でも、その怒りはカナミへ向いていない。


「そんなところまで追い込んだやつがいるんだろ」


 ミヨリは答えない。


 天音は拳を震わせる。


「カナミがやったことは許せない。でも、そこまで追い込まれた音を、意味がなかったなんて言わせたやつは、もっと許せない」


 琴羽は涙をこぼしそうになりながら、両手を握った。


「かわいそう、って思うのは違う気がする」


「うん」


 澪が小さく頷く。


「かわいそうと言えば、こちら側から眺めるだけになる」


 理央がノートを開いた。


 でも、文字は書かない。


「届かなかったことは事実です」


 理央は言う。


「でも、意味がなかったことの証明にはなりません」


 詠はその言葉を胸の中で繰り返した。


 届かなかったこと。


 意味がなかったこと。


 その二つは同じではない。


 カナミは、同じだと思い込もうとしている。


 そうしなければ、残った自分を保てなかったのかもしれない。


 詠は《祝華》を握った。


 泣きそうだった。


 けれど、泣かなかった。


 ここで泣いてしまえば、カナミを遠い昔の悲しい人にしてしまう気がした。


「カナミさんを、かわいそうな人にしたくない」


 声に出すと、少しだけ震えた。


 ミヨリが詠を見る。


「ならば、どうする」


 詠はすぐには答えられなかった。


 倒す。


 違う。


 救う。


 それも、どこか違う。


 わかったつもりになって、抱きしめることでもない。


 カナミの痛みは、詠が勝手に持ち帰れるものではない。


 でも、何もしないこともできない。


 詠は《祝華》の弦に指を置いた。


 まだ鳴らさない。


 ただ、そこにある音を確かめる。


「探す」


「何をじゃ」


「倒すでも、救うでもない言葉」


 ミヨリは黙った。


 詠は桜の枝を見上げる。


 数百年前に届かなかった音。


 今も哭き続ける九弦。


 その前に置ける、自分たちの音を。


「カナミさんが、受け取るかどうかを決められる音を」


 月明かりが、旧演奏室の床に落ちていた。


 詠は初めて、倒すでも救うでもない道を探し始めた。






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