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第三十六音 役割の奥にある音

 放課後の練習室には、まだ誰の音も鳴っていなかった。


 澪は椅子に座り、ギターケースを開いたまま動かない。


 天音は床に座って、スティックを両手で持っている。叩かない。ただ、握っている。


 二人とも、いつもなら音を出している時間だった。


 澪なら、誰に聞かせるでもなく静かなフレーズを確かめている。


 天音なら、机でも床でも空気でも、そこに拍を刻んでいる。


 けれど今日は、音がない。


 静けさは、澪の得意な場所のはずだった。


 なのに、その静けさが少しだけ怖い。


「昨日」


 天音が先に口を開いた。


「俺の拍、誰にも届かなかった」


 澪は弦を見つめたまま答える。


「私の音も」


 短い言葉だった。


 それだけで、昨日の灰色の中庭が戻ってくる。


 澪の《音幻》が描いた静かな線は、カナミに触れる前にほどけた。


 天音の《雷陣》が刻んだ拍は、誰の鼓動とも重ならないまま孤立した。


 強みのはずだった。


 澪は静けさで音を整える。


 天音は拍で全員の足場を作る。


 その役割があったから、五人は合奏へ近づいていった。


 でもカナミは、その役割ごと切った。


「役割に頼りすぎていたのかもしれない」


 澪が言う。


 天音は眉をひそめた。


「頼るのは悪いことじゃないだろ」


「悪くない」


 澪は首を横に振る。


「でも、役割の奥にある音を見ていなかった」


「奥?」


 天音が聞き返す。


 澪は、ようやく弦に指を置いた。


 鳴らさない。


 ただ触れる。


「私は、静けさを保てばいいと思っていた。乱れた音を整える。相手の音を聴く。その役割は間違っていない」


「うん」


「でも昨日、静けさは閉じるためにも使えるのだと思った」


 カナミの音は静かだった。


 大声で怒鳴るわけでも、荒々しく壊すわけでもない。


 美しいほど静かに、五人の音を断った。


 澪はあの静けさに、少しだけ自分の影を見た。


「私の静けさは、聴くためのものだったはず」


 澪は小さく弦を弾く。


 かすかな音が、練習室に落ちた。


「閉じるためではなく」


 天音はスティックを見た。


「俺は、拍で引っ張ればいいと思ってた」


「天音の拍は、何度も私たちを戻してくれた」


「でも昨日は、返ってこなかった」


 天音の声が少し荒くなる。


「誰も返してくれない拍って、あんなに怖いんだな」


 澪はうなずいた。


「拍は、引っ張るためだけではないのかもしれない」


「戻れる場所を作るため、か」


 天音は自分で言って、少し笑った。


「理央が言いそう」


 その瞬間、扉が開いた。


「呼びましたか」


 理央が入ってきた。


 ノートと譜面を抱えている。目の下には、少しだけ疲れが見えた。


 天音が目を丸くする。


「タイミングよすぎだろ」


「廊下で少し聞こえました。盗み聞きではありません。音響的に、扉の隙間から漏れていただけです」


「それを盗み聞きって言うんだよ」


 いつものやり取り。


 けれど、今日は少しだけ救われる。


 理央は机にノートを置いた。


 ページには、細かい線と記号がびっしり書かれている。だが、その中央に大きく丸で囲まれた文字があった。


 突破不能。


 天音が顔をしかめる。


「突破不能って言うな」


「正確には、現時点の通常合奏では突破不能です」


「余計悪い」


 理央は眼鏡を直した。


「あの《断絶律》は、五人の音の接続点を同時に遮断しています。外へ送った音が相手に届く前に切られる。つまり、外部接続に依存する合奏は機能しません」


 澪はノートを見る。


「では、どうする」


 理央は黙った。


 その沈黙が、答えを持っていないことを示していた。


「結論は出ていません」


 理央は悔しそうに言った。


「計算しても、あの断絶を外側から破る方法は見つかりませんでした」


 天音は何かを言いかけて、やめた。


 理央の指が、ノートの端を強く押さえている。


 理論で支えることが、理央の音だった。


 その理論が通じない相手に、昨日、理央もまた切られた。


「でも」


 理央は顔を上げた。


「突破不能と、無意味は違います」


 澪と天音が、同時に理央を見る。


「証明できないことと、存在しないことも違います。昨日の私たちの音は届かなかった。これは事実です。でも、その音に意味がなかったとは、まだ証明されていません」


 理央の声は震えていなかった。


 けれど、強がりでもなかった。


「根音は、支配するためのものではありません」


 理央はノートを閉じる。


「信じて乗れる足場を作るためのものです。私自身が、それを忘れていました」


 天音がスティックを軽く鳴らした。


 今度は、机ではなく、自分の掌に。


 ぱしん、と小さな音がする。


「拍は、戻れる場所」


 澪が静かに弦を鳴らす。


「静けさは、聴くため」


 理央が頷く。


「根音は、信じて立つ足場」


 三つの音が、ほんの少しだけ重なった。


 完璧ではない。


 カナミに届くほど強くもない。


 でも、昨日の灰の中で失くしたものを、名前だけでも取り戻した気がした。


 その時、扉がもう一度開いた。


 詠と琴羽、そしてミヨリが入ってくる。


 詠は三人の顔を見て、少しだけ表情を緩めた。


「鳴ってた?」


 天音が肩をすくめる。


「まだ小さいけどな」


 琴羽はほっとしたように笑う。


「小さい音、いいと思う」


 ミヨリが机の上に降りた。


 五人が揃う。


 その空気を確かめてから、ミヨリは言った。


「今から話すのは、古い五人の話じゃ」


 部屋の音が、静かに引き締まる。


「そして、ひとりだけ残ってしまった少女の話じゃ」


 詠の指が、《祝華》のケースに触れた。


 カナミの名の奥へ、五人はこれから降りていく。




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