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第三十五音 悪い人、だけじゃない

 昼休みの中庭は、昨日と同じ場所とは思えないほど穏やかだった。


 桜の木の下には、普通の影が落ちている。


 灰色の世界も、九弦の音も、今はどこにもない。


 生徒たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。購買で買ったパンを分け合う声。次の授業の小テストを嘆く声。誰かが転びそうになって、友達に支えられる音。


 詠はその全部を聞きながら、昨日カナミが立っていた場所を見つめていた。


「詠ちゃん」


 琴羽が、少し迷うように声をかけてきた。


 手には小さな紙袋を持っている。ことのは堂の焼き菓子だった。


「一緒に食べよ」


「うん」


 二人はベンチに座った。


 琴羽は袋を開けると、桜の形をしたクッキーを詠へ渡した。いつもなら「今日のおすすめです」と明るく言うところだ。でも今日は、言葉が一拍遅れる。


「あの人、怖かった」


 琴羽がぽつりと言った。


 詠はクッキーを受け取ったまま、うなずく。


「うん」


「でも、嬉しそうじゃなかった」


 その言葉に、詠は顔を上げた。


 琴羽は自分の手元を見ていた。


「勝ったのに、笑ってなかった。わたしたちを倒したのに、楽しそうじゃなかった。なんていうか……」


「壊したいわけじゃない、って言ってた」


 詠が言うと、琴羽は小さくうなずいた。


「うん。それが、ずっと引っかかってる」


 カナミは怖かった。


 五人の音を断ち切り、詠の声を封じ、琴羽の癒しの和音を灰に飲ませた。


 敵だ。


 それは間違いない。


 けれど、ただ五人を壊したいだけの音ではなかった。


「わたしね」


 琴羽はクッキーを割らずに、両手で包んだ。


「優しくしたいって思えば、少しは届くと思ってたんだ」


「琴羽ちゃんの音、いつもそうだもん」


「でも昨日は、届かなかった」


 琴羽の声が震える。


「包もうとしたの。怖い音でも、痛い音でも、少しでも柔らかくできたらって。でも、灰に飲まれて、咲く前に散っちゃった」


 詠は何も言えなかった。


 琴羽の優しさは、五人の中で何度も空気を変えてきた。固くなった場をほどき、言葉にできない痛みのそばへ、そっと座る音だった。


 その琴羽の音ですら、カナミには届かなかった。


「優しくしたいって思うだけじゃ、届かないこともあるんだね」


 詠の胸が痛んだ。


 それは自分にも刺さる言葉だった。


 届けたいと思うだけでは、届かなかった。


「じゃあ、どうしたらいいんだろう」


 詠の呟きは、風に混じりそうなほど小さかった。


「それを考えるために、負けたのかもしれない」


 背後から、澪の声がした。


 詠と琴羽が振り返る。


 澪はギターケースを肩にかけて、中庭の端に立っていた。


「澪ちゃん、聞いてたの?」


「少し」


 澪は二人の前まで歩いてくる。


「ごめん」


「ううん。来てくれてよかった」


 琴羽が少しだけ笑った。


 澪はカナミが立っていた桜の木を見る。


「悪意だけの音ではなかった」


 詠はその横顔を見た。


「澪ちゃんには、どう聴こえた?」


 澪はすぐには答えなかった。


 風が枝を揺らす。


「閉じていた」


 短い答え。


 でも、それだけでは終わらなかった。


「閉じているのに、誰かに触れられるのを待っている音」


 琴羽が息をのむ。


 詠も、同じだった。


 澪がそう言うと、カナミの音の奥にあった静かな痛みが、少しだけ形を持つ。


「私も昔、誰にも聴かせたくないと思っていた」


 澪の声は淡い。


「でも、誰にも聴かれたくない音と、本当に誰にも届かなくていい音は、違う」


 詠は、最初に虚音と向き合った音楽室を思い出した。


 澪が閉じ込めていた音。


 詠が勝手に触れて、怒られて、それでもまた聴きたいと思った音。


「カナミさんも、そうなのかな」


「わからない」


 澪は言った。


「でも、あの音は完全には閉じていなかった。閉じているなら、試しになど来ない」


 その言葉に、詠の中で何かが小さく動いた。


 カナミは水律祭の音を「本物だった」と言った。


 本物なら残る。


 偽物なら壊れる。


 そう言って、五人を試した。


 それは、信じていない人の行動なのか。


 それとも、信じたいけれど信じきれない人の行動なのか。


「おぬしたちがそう感じたなら、間違いではない」


 ミヨリの声がした。


 いつの間にか、ベンチの背に座っている。


 詠は思わず立ち上がった。


「ミヨリ」


「覗き聞きではない。見守りじゃ」


「同じじゃない?」


 琴羽が小さく突っ込むと、ミヨリは一瞬だけいつもの調子で鼻を鳴らした。


 けれど、その軽さはすぐ消える。


「あやつの音を、ただ悪いものとして聞かなかった。それは大事なことじゃ」


 詠はミヨリを見つめる。


「じゃあ、ミヨリは何を知ってるの?」


 ミヨリは目を伏せた。


「知っておることと、言えることは同じではない」


「またそれ?」


「じゃが、今度は逃げぬ」


 ミヨリの声が、まっすぐ詠へ向いた。


「今夜、話す」


 琴羽の手が、クッキーの袋を握る。


 澪の目が、静かに細くなる。


「五人全員で聞け」


 詠はうなずいた。


 怖かった。


 聞けば、カナミを見る目が変わる気がした。


 でも、変わらないままでは届かない。


「ミヨリ」


「なんじゃ」


「一つだけ、今教えて」


 ミヨリは黙って詠を見る。


「カナミさんは、本当に敵なの?」


 風が止まった。


 ミヨリはしばらく答えなかった。


 やがて、小さく息を吐く。


「敵じゃ」


 その言葉に、琴羽が肩を震わせる。


 けれどミヨリは続けた。


「今はな」


 詠は目を見開いた。


「今は?」


 ミヨリは桜の木を見上げる。


「カナミは、かつて音を守る側におった」


 中庭の音が遠のいた気がした。


 敵だと思っていた名前が、祝音少女の歴史の中へ沈んでいく。


 カナミ=リクレイン。


 その名の奥に、詠たちの知らない音が眠っている。



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