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第三十四音 届かなかった朝

 朝になっても、喉の奥に灰が残っていた。


 詠は布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。


 窓の外では、いつもの神響の朝が鳴っている。遠くの車の音。鳥の声。登校する生徒たちの足音。どれも昨日までなら、知らない街に少しずつ慣れていくための音だった。


 けれど今朝は、その全部が遠かった。


 音は鳴っている。


 届いている。


 それなのに、昨日の中庭でカナミ=リクレインに向けて鳴らした詠の音は、届かなかった。


 詠はゆっくり身体を起こす。


 枕元に置いた《祝華》のケースへ手を伸ばした。金具を外す音が、やけにはっきり部屋に響く。


 ギターを取り出し、膝に乗せる。


 弦に指を置いた。


 いつものコードを、ほんの少しだけ鳴らす。


 桜色の残響が、部屋の空気をかすかに震わせた。


「……鳴ってる」


 声は出た。


 昨日、封じられたはずの声は、ちゃんと戻っている。


 詠はもう一度、弦を鳴らした。


「鳴ってる、のに」


 音は出る。


 声も出る。


 でも、喉の奥には、あの瞬間の感覚が残っていた。


 口を開いても音にならない。胸の中にあるものが、出口の前で灰になって固まる。叫びたいのに、叫ぶ前に消される。


 詠は《祝華》を抱きしめた。


 窓辺にいたミヨリが、いつものように茶化すことなく、ただ黙ってこちらを見ていた。


「ミヨリ」


「……うむ」


「昨日の人のこと、教えて」


 ミヨリの耳が、ぴくりと動いた。


 すぐには答えなかった。


 朝の光が、白い式神の輪郭を淡く照らしている。いつもなら胸を張って、偉そうに説明を始めるミヨリが、今日は言葉を選んでいる。


「今はまだ、全部は言えぬ」


「また、それ?」


 責めるつもりはなかった。


 でも声が少しだけ硬くなった。


 ミヨリは逃げなかった。


「じゃが、逃げるつもりもない」


 詠は顔を上げる。


「本当に?」


「本当じゃ。あやつのことを語るには、おぬしたち自身が、昨日何を失ったのかを知らねばならぬ」


「失った?」


「声だけではない。勝ち負けだけでもない」


 ミヨリは窓の外を見た。


「五人で鳴る、ということへの信じ方を、あやつは一度断ったのじゃ」


 その言葉が、詠の胸に落ちた。


 昨日の怖さは、強い敵に負けた怖さだけではない。


 五人でいれば大丈夫だと思い始めたばかりだった。


 水律祭で、五人の音が本当にひとつになったと感じたばかりだった。


 その確信を、カナミは九弦一本で切った。


「……学校、行く」


 詠は《祝華》をケースに戻した。


 行きたくない気持ちはあった。


 けれど、部屋に一人でいても、昨日の灰は薄くならない気がした。


 ※ ※ ※


 坂道を下りながら、詠は街の音を聴いていた。


 神響は音の都だ。


 朝の商店街からはシャッターを上げる音がする。パン屋の前を通ると、トレーが重なる軽い音がした。信号の電子音。遠くの練習室から漏れるピアノ。誰かの笑い声。


 届く音ばかりだった。


 届くことが、当たり前みたいに世界を満たしている。


 でも、届かない音がある。


 届くと思って鳴らしても、目の前で消えてしまう音がある。


 その違いが、昨日までよりずっと怖かった。


 校門の前で、澪が立っていた。


 いつもより早い。


 ギターケースを肩にかけたまま、校門横の桜の木を見上げている。


「澪ちゃん」


 澪が振り返る。


「おはよう」


「おはよう」


 短い挨拶のあと、二人とも黙った。


 澪の指は、ケースの持ち手を強く握っていた。白い指先に、力が入りすぎている。


「昨日、眠れた?」


 詠が聞くと、澪は少しだけ目を伏せた。


「眠った。でも、何度も起きた」


「私も」


 それだけ言うと、二人は並んで歩き出した。


 言葉が少なくても、今はそれでよかった。


 音が届かなかった痛みを、すぐ言葉にできるほど、二人とも器用ではなかった。


 ※ ※ ※


 放課後。


 音楽準備室には、五人が揃っていた。


 約束したわけではない。


 けれど、誰も来ないという選択をしなかった。


 澪は弦の調整ばかりしている。弾くためではなく、弾かない理由を探すみたいに、同じ弦を何度も確かめていた。


 天音はスティックを回していない。机の上に置いたまま、ただ見ている。


 琴羽は笑おうとして、笑顔が少し遅れた。


 理央はノートを開いていた。けれど、いつもの整った文字は一行も増えていない。


 詠は《祝華》をケースから出せなかった。


 誰も、すぐに練習しようとは言わなかった。


 沈黙が長くなる。


 その沈黙を破ったのは、理央だった。


「私たちは、昨日、完全に負けました」


 言葉が、部屋の真ん中に置かれる。


 誰も反論しなかった。


「戦術的にも、音響的にも、精神的にも。あの戦闘は敗北です」


「理央」


 琴羽が小さく呼ぶ。


 理央は眼鏡の奥で、少しだけ目を揺らした。


「言葉にしておかないと、誤魔化してしまう気がしました」


 天音が息を吐く。


「悔しい」


 短い言葉だった。


 けれど、その短さの奥で、音が震えていた。


「でも、それだけじゃない」


 天音はスティックを握る。


「悔しいって言えば前向きっぽくなるけど、昨日のはそれだけじゃなかった。怖かった。誰の拍も返ってこないのが、怖かった」


 琴羽が、花桜鍵のケースを抱きしめる。


「怖かった、って言っていい?」


 澪がすぐに答えた。


「言った方がいい」


 琴羽の目に涙が浮かぶ。


「わたし、優しくしたら届くと思ってた。包めば、痛い音も少しはほどけると思ってた。でも、灰に飲まれて、何もできなかった」


 詠はうなずいた。


「私も。届けたいって思えば、届くまで鳴らせばいいって、どこかで思ってた」


 昨日の自分の声を思い出す。


 喉を塞がれた瞬間。


 音が消えた瞬間。


「でも、届かなかった」


 澪が弦から指を離した。


「届かなかった事実を、なかったことにはできない」


「うん」


 詠はようやく《祝華》のケースを開けた。


 弾くためではない。


 逃げないために。


「あの人に届かなかった理由を、知らなきゃいけない」


 ミヨリが机の上に降りた。


 いつものように胸を張らない。


 小さな体で、五人全員を見上げる。


「ならば、聞く覚悟を持て」


 詠はミヨリを見る。


「あやつは、ただの敵ではない」


 部屋の空気が変わった。


 ミヨリの声は低い。


「カナミ=リクレイン。その名は、ワシの記憶の中で、まだ灰になりきっておらぬ」


 窓の外で、風が鳴った。


 昨日の灰が、まだ誰の胸からも消えていない。




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