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第三十三音 初めての完全敗北

 四人が同時に動いた。




 詠の声が封じられた。




 ならば、四人で届かせるしかない。




 澪が《音幻》を鳴らす。




 単独でも届かせようと。




 天音が《雷陣》を叩く。




 拍だけでも刻もうと。




 理央が《幽紫》の根音を這わせる。




 土台だけでも作ろうと。




 琴羽が花桜鍵を構えて前に出る。




 一音でも届けようと。




 全員の音が、カナミへ向かった。




 カナミは九弦を一度だけ、大きく鳴らした。




「《灰燼奏界》」




 中庭の景色が灰色に変わる。




 桜の木も、校舎も、空も、色を失った。




 そこには、届かなかった音の残骸だけが漂っていた。




 灰のひとひらが、詠の頬をかすめる。




 熱くはない。




 冷たくもない。




 けれど触れた瞬間、胸の奥に知らない痛みが落ちてきた。




 誰かの声。




 誰かの泣き声。




 最後まで届かなかった、誰かの音。




 詠は声を出そうとした。




 出ない。




 自分の中にあるはずの歌が、喉の手前で固まっている。




「詠!」




 澪が叫ぶ。




 その声は聞こえた。




 でも、音として届かない。




 耳に入る言葉と、心へ届く音は違う。




 詠はそのことを、こんな形で知りたくなかった。




 澪のスライドが灰を裂く。




 けれど、その線はカナミに届く直前でほどけた。




「まだ浅い」




 カナミは言う。




 澪の表情がわずかに歪む。




 ひとりで鳴ることを選んできた澪が、誰かと鳴ることを選んだ。




 その変化ごと、断ち切られている。




「なら、押し通す!」




 天音が前に出た。




 地面を踏みしめ、全身で拍を刻む。




 雷のような音が灰色の空間に走った。




 だが、拍は返ってこない。




 誰の鼓動とも重ならない。




 天音の音は強い。




 強いまま、孤立していた。




「くそっ……!」




 理央の低音が、その足元へ潜り込む。




 本来なら、天音の拍を支えるはずの根音。




 けれど《断絶律》は、低音の帰る場所すら奪っていた。




 理央の音は正確だった。




 正確すぎるほど正確だった。




 それなのに、何も支えられない。




「理論上は、干渉点をずらせば……」




 理央の言葉が途切れる。




 計算できない。




 証明できない。




 その事実が、理央の指を一瞬止めた。




「だめ、止まらないで!」




 琴羽が前に出る。




 花桜鍵の和音が、四人の間にやわらかな光を咲かせようとした。




 癒やすための音。




 包むための音。




 傷ついた音を、もう一度ほどくための音。




 けれど、灰はその光を静かに飲み込んだ。




 琴羽の和音が、咲く前に散る。




「……わたしの音も、届かない」




 その声が震えた。




 詠は手を伸ばした。




 琴羽に。




 澪に。




 天音に。




 理央に。




 でも、声が出ない。




 音が出ない。




 届かない。




 カナミは五人を見ていた。




 倒れていく姿を、ただ見ていた。




 勝ち誇るためではない。




 見届けるために。




 まるで、何度も何度も同じ結末を見てきた人の目だった。




「あなたたちは、五人でしか鳴れない」




 カナミの声が、灰色の空間に落ちる。




「それは強さ」




 九弦が鳴る。




「そして、弱さ」




 灰が渦を巻いた。




 澪の音が砕ける。




 天音の拍が途切れる。




 理央の低音が沈む。




 琴羽の和音が消える。




 詠の喉の奥で、出ない歌が痛みに変わる。




 五人が、地面に膝をついた。




 祝具が熱を持っている。




 過負荷のサイン。




 詠は声が出ない。




 澪は音が届かない。




 天音は拍を合わせられない。




 理央は根音を機能させられない。




 琴羽は前に出たまま、動けない。




 五人で鳴らすために積み上げてきたものが、一つずつ外されていく。




 水律祭で掴んだ確信が、足元から崩れていく。




 詠は悔しかった。




 怖かった。




 それ以上に、わからなかった。




 届けたいと思えば、届くのだと思っていた。




 少なくとも、届くまで鳴らし続ければいいのだと思っていた。




 けれど、今。




 目の前にいるカナミには、詠の音が届かなかった。




 届かないどころか、受け取る前に消されてしまう。




 カナミが五人を見下ろす。




 その表情は、勝利の喜びではなかった。




 何かを確かめた後の、静かな表情だった。




「本物だった」




 カナミが呟く。




「水律祭の音は、本物だった」




 九弦ギターを背に戻す。




 詠が顔を上げる。




 声は、まだ出ない。




 なぜ、と目で問う。




「壊したいわけじゃない」




 カナミは言った。




「試したかっただけ」




「本物の音が、どこまで届くか」




 黒い粒子が、カナミの足元に集まっていく。




「次に会うとき、答えを持ってきて」




 彼女は踵を返す。




「届けたいだけじゃない、もっと深い答えを」




 少しだけ、カナミの指が止まった。




「本物なら、まだ立てる」




 その言葉が、優しさなのか、呪いなのか、詠にはわからなかった。




「楽しみにしている」




 カナミの姿が、灰色の残響に溶けていく。




 最後に残ったのは、桜の花びら一枚だった。




 木から落ちた、ただの花びら。




 それが地面にゆっくりと落ちる。




 灰色の世界が戻り、中庭に朝の色が戻った。




 しばらく、誰も動かなかった。




 詠の声が戻ってきたのは、カナミが消えてから少し経ってからだった。




「……私の声、届かなかった」




 詠が初めて言葉にした。




 かすれた声だった。




 自分の声なのに、自分のものではないみたいに聞こえた。




「どんなに弾いても、どんなに叫んでも」




「あの人に、届かなかった」




「……私も、音が届かなかった」




 澪が続ける。




 悔しさを隠すように、指先がギターの弦を押さえている。




 でも弾かなかった。




 今弾けば、音が震えるとわかっているから。




 天音が、スティックを握り直す。




 その手が、少し震えていた。




「強かった」




 言葉は短い。




 それ以上を言えば、何かが崩れそうだった。




「格が、違った」




 理央が眼鏡を直す。




 レンズが、わずかに曇っている。




「私たちは今日、初めて」




 声が、少し揺れた。




「完全に、負けました」




 その言葉が、中庭に落ちた。




 琴羽が花桜鍵を胸に抱きしめる。




「……怖かった」




 誰も否定しなかった。




 詠も怖かった。




 澪も、天音も、理央も。




 きっと全員、怖かった。




 五人でいることを覚えたばかりだからこそ、その五人をばらばらにされることが、こんなにも怖い。




 ミヨリが、五人の前に静かに降りる。




 いつものように胸を張ることはしなかった。




 小さな式神は、ひどく疲れたような顔をしていた。




「よく生きて戻った」




「あやつは、本気ではなかった」




「それでも、この結果じゃ」




 詠はミヨリを見た。




「ミヨリ、知ってたの? あの人のこと」




 ミヨリは少し間を置く。




「……知っておる」




「でも、今は言えぬ」




「おぬしたちが、自分たちの足で立ち上がった後でなければ、ワシの言葉はただの重しになる」




「重し……?」




 琴羽が小さく聞く。




 ミヨリは頷いた。




「今のおぬしたちに必要なのは、あやつの昔話ではない。まず、自分たちが何を断たれたのかを知ることじゃ」




 詠は黙った。




 知りたい。




 でも、ミヨリの言うこともわかった。




 今ここで過去を聞いたら、きっとカナミを「かわいそうな人」として見てしまう。




 それでは、届かない。




 届かなかった痛みを、わかったつもりで上から包もうとしてしまう。




 それは、たぶん違う。




 詠は空を見上げる。




 青い空だった。




 さっきまで、こんなに青かっただろうか。




「……立ち上がれる? みんな」




 誰も、すぐには答えなかった。




 最初に立ったのは、澪だった。




 膝についた土を払い、ギターを握り直す。




「立ち上がれないとは、言っていない」




 天音が続く。




「俺も」




 理央が続く。




「私も」




 琴羽が、花桜鍵を胸に抱きしめる。




「わたしも……怖いけど。でも」




 最後に、詠が立つ。




 声はまだ、少しかすれていた。




「もう一回、やろう」




「今度は、負けない」




 言ってから、詠は首を横に振った。




 違う。




 それだけでは、きっと足りない。




 カナミは勝ち負けだけを見ていたわけではない。




 あの人は、届くかどうかを見ていた。




 詠は《祝華》を握りしめる。




「ううん。今度は……ちゃんと考える」




「どうすれば、あの人に届くのか」




 誰も笑わなかった。




 笑える状況ではなかった。




 でも、五人は立っていた。




 それだけで、今日は十分だった。




 ミヨリは五人を見上げ、ほんの少しだけ目を細めた。




「それでよい」




 風が吹いた。




 桜の花びらが一枚、詠の足元を転がっていく。




 水律祭の余韻は、もう遠い。




 代わりに残ったのは、灰の匂いを帯びた問いだった。




 届かない音にも、意味はあるのか。




 詠たちはまだ、その答えを知らない。






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