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第三十二音 カナミ=リクレイン

 翌朝。




 神響女学院の校庭には、朝露が光っていた。




 詠が校門をくぐったとき、最初に感じたのは静けさだった。




 いつもと同じ朝。




 同じ校門。




 同じ廊下。




 それなのに、何かが違う。




 音が少ない。




 生徒たちの話し声は聞こえている。靴音も、鳥の声も、遠くの練習室から漏れるピアノもある。




 けれど、その全部が薄い膜の向こう側にあるようだった。




「……ミヨリ」




 詠が小声で呼ぶ。




 肩の上にいたミヨリは、身を固くしていた。




「おる」




「え?」




「もう、おる」




 詠の足が止まった。




 その瞬間、桜の木の方から、一本の弦が鳴った。




 低く、深い音。




 聴いたことがないはずなのに、胸の奥を掴まれるような音。




 詠は反射的に《祝華》のケースを抱きしめた。




「みんなを呼ぶ」




 返事を待たず、詠は端末を取り出した。




 連絡を受けた澪、琴羽、天音、理央が駆けつけてくるまで、長い時間はかからなかった。




 澪は息を切らさずに来た。けれど指先だけが、ギターケースの持ち手を強く握っている。




 琴羽は不安そうに周囲を見回していた。




 天音はスティックケースを肩にかけ、いつでも取り出せるようにしている。




 理央は眼鏡の奥で、校庭の音の歪みを測るように目を細めた。




「この静けさ、普通ではありません」




「ノイズ?」




 琴羽が聞く。




 ミヨリは答えなかった。




 答えられなかった。




 五人は中庭へ向かった。




 いつもなら昼休みの生徒たちで賑わう場所に、誰もいない。




 正確には、一人だけいた。




 桜の木の下。




 長い黒髪の少女。




 神響女学院の制服ではない。黒と紫の、見たことのない装束。背には、九弦のギターを負っている。




 少女が振り返った。




 右が深紅。




 左が藍。




 感情を映さない、静かなオッドアイ。




「来たね」




 少女は詠を見た。




「《五色ノ契》の、花咲詠」




 詠は一歩、前へ出る。




 怖くないわけではない。




 けれど、背中には四人の気配がある。




 水律祭で知ったばかりの、五人で立っている感触がある。




「……あなたは」




「カナミ」




 それだけ言った。




 名字も、所属も、説明もない。




 ただ、カナミ。




 理央が一歩前へ出る。




「虚音や戦律監とは異なる反応です。あなたを敵性上位存在と判断してよろしいですか」




 少女は理央を見る。




「上位堕精カナミ=リクレイン」




 その名が、中庭に落ちた。




 空気が、ひとつ冷える。




 ミヨリの身体が、詠の肩の上で小さく震えた。




「カナミ……」




 ミヨリが、初めてその名を声にした。




 カナミはミヨリを見る。




「久しぶり」




 その一言で、詠は理解した。




 ミヨリは、この人を知っている。




 そして、たぶん。




 会いたくなかったのだ。




「ミヨリ、知り合いなの?」




 詠が聞く。




 ミヨリは答えない。




 カナミも、それ以上は言わなかった。




 ただ五人を見渡す。




 その視線が、音を測るように一人ずつ止まっていく。




 詠。




 澪。




 琴羽。




 天音。




 理央。




「水律祭で聴いた音、本物だった」




 カナミは静かに言う。




「だから、来た」




 天音がスティックを握る。




「試しに来たってことか」




「そう」




 あまりにも簡単な肯定だった。




 詠の胸の奥に、ちくりと痛みが走る。




 試す。




 その言葉は、水律祭で掴んだものを、まるごと秤に乗せられたように聞こえた。




「私たちは、見世物じゃない」




 澪が低く言う。




 カナミは澪を見た。




「見世物なら、壊れてもかまわない」




 静かな声だった。




「でも、本物なら違う」




 琴羽が、花桜鍵を胸に抱える。




「本物なら……?」




「届くはず」




 カナミの指が、九弦ギターの肩紐に触れた。




「届かないなら、信じるだけ残酷」




 詠は唇を噛んだ。




「そんなの、やってみなきゃ分からないよ」




「やってみた」




 短い言葉。




 それだけで、カナミの声の底にある灰が見えた気がした。




 怒りではない。




 憎しみでもない。




 もっと長く、もっと乾いた痛み。




 ミヨリが、ようやく口を開いた。




「詠。油断するでない」




 声が硬い。




 いつもの得意げな調子はない。




「あやつの音は、ただ強いだけではない。おぬしたちが一番大事にしておるものへ、まっすぐ届く」




「一番大事にしてるもの?」




「つながりじゃ」




 その瞬間、カナミは九弦ギター《奏哭ノ冥弦》を構えた。




 その動作は、あまりにも自然だった。




 構えた、というより、最初からそう在ったように。




 九本の弦が、朝の光を吸い込んで黒く輝く。




「始めよう」




 九弦が鳴った。




 美しい音だった。




 恐ろしいほど、美しい音だった。




 詠の心が、一瞬、その音に引き込まれる。




 きれい。




 でも。




 その次の瞬間、世界が変わった。




 五人の祝具が呼応しようとした。




 詠の《祝華》が、澪の《音幻》に呼びかける。




 届かない。




「……え?」




 詠は振り返る。




 澪はすぐそこにいる。




 二メートルも離れていない。




 それなのに、澪の音が聴こえない。




 天音の拍が感じられない。




 理央の根音が届いてこない。




 琴羽の色が、空気に混じらない。




 五人はそこにいる。




 でも、音が届かない。




 カナミの九弦が、静かに震えていた。




「《奏哭ノ冥弦》」




 カナミが告げる。




「第一奏、《断絶律》」




 見えない刃が、五人の間に落ちたようだった。




「束を、切られた……!」




 ミヨリが叫ぶ。




「おぬしたちのつながりを断ち切る音じゃ!」




「みんな、聴こえてる?」




 詠が叫ぶ。




 澪が首を横に振る。




「聴こえない。詠の音が、届かない」




「わたしも……みんなの音が遠い……」




 琴羽の声が震える。




「拍が合わせられない。誰の音も感じられない」




 天音が歯を食いしばった。




 理央が即座に判断する。




「各自、単独で対応を」




 しかし、言った本人が一番よく知っていた。




 単独では足りない。




 水律祭で、それを学んだばかりだった。




 詠は《祝華》を構える。




 つながりが断ち切られているなら、まず自分の音を届かせるしかない。




 詠の最大の武器。




 声。




 ギター。




 届けたいと思う音。




「いくよ!」




 コードを鳴らす。




 桜色の旋律が、空間を走る。




 カナミに向かって、まっすぐに。




 カナミは避けなかった。




 九弦の一弦で、受けた。




 詠の音が触れた瞬間。




 吸い込まれた。




「……え」




 音が、消える。




 詠の旋律が、カナミの九弦に飲み込まれ、そのまま消えた。




「良い音だ」




 カナミが静かに言う。




「でも、まだ浅い」




「なんで……!」




 詠はもう一度弾く。




 また、吸収される。




 三度目。




 同じだった。




 カナミは表情を変えない。




 ただ、詠の音が消えるたび、九弦の奥で灰が舞う。




 そこには届かなかった音が沈んでいる。




 たくさんの、古い、名前を失った音。




 詠はその気配だけで、息が詰まりそうになった。




「届けたい、という気持ちだけでは、届かないこともある」




 その言葉が、詠の胸に刺さった。




「そんなの……!」




 叫ぼうとした瞬間、カナミの指が九弦の別の弦を弾いた。




 空気が震える。




「第二奏、《声殺律》」




 詠の喉が塞がれた。




「……っ」




 口を開いても、音が出ない。




 声が、消えている。




 花咲詠の歌が、完全に封じられた。




 澪が目を見開く。




 琴羽が詠の名を呼ぶ。




 天音が机ではない本物のドラムのように地面を叩き、理央が低音の防壁を張ろうとする。




 けれど、どれも詠へ届かない。




 届いているはずなのに、届かない。




 カナミは詠を見つめる。




 その表情に、勝ち誇った色はない。




「叫んでも、届かない相手がいる」




 静かな声だった。




「それを、知っているか」




 詠は答えられない。




 声が出ない。




 ただ、胸の奥で、何かが冷たく沈んでいく。




「私はずっと、届かなかった」




 カナミの声が、ほんのわずかに揺れた。




「だから、知っている」




 九弦が、もう一度鳴る。




 五人の足元から、灰色の音が立ち上がった。






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