第三十一音 凪の午後と、灰の記憶
水律祭から三日が経った。
神響女学院は、いつもの静けさを取り戻していた。
南プールの特設ステージは撤去され、廊下の飾り紐も片付けられた。水面を模したフィルムの残りが、窓の隅に少しだけ貼りついている。
祭のあとの学校は、少しだけ眠たそうに見える。
生徒たちはそれぞれの日常へ戻っていた。朝練の音、昼休みの笑い声、放課後の足音。どれも水律祭の熱から離れて、いつもの速さへ落ち着いていく。
ただ、五色ノ契の五人だけは、少しだけ違う空気をまとっていた。
言葉にはしない。
でも、確かにある。
水律祭で掴んだもの。
五人の音が溶け合った、あの瞬間の感触。
それが、まだ指先に残っていた。
放課後。
音楽準備室に、五人が自然と集まっていた。
特に約束をしたわけではない。
詠が《祝華》をつま弾き、澪が楽譜の端に短い運指を書き込む。琴羽は花桜鍵の音色設定をいじり、天音はスティックで机を軽く叩いていた。理央はベースケースの横で文庫本を読んでいる。
誰かが呼んだわけではないのに、気づけばここにいる。
それが、少し嬉しかった。
「……なんか、最近ノイズ来ないね」
琴羽がぽつりと言った。
「ディストノームを倒してから、もうしばらく経つよね」
「そういえばそうだね。嵐の前の静けさ、とか?」
詠が言うと、天音が即座に首を振った。
「それ言うと絶対来るやつ」
「験担ぎ気にする? 天音が?」
「気にしない。でもまあ、言わなくていいことは言わない主義だ」
理央が本から目を上げる。
「静かな期間が続くとき、敵側に何らかの準備がある場合と、単純に動く必要がない場合の二通りが考えられます」
「どっちにしても嫌な言い方」
詠が苦笑する。
「……どちらにしても、私たちがすることは変わらない」
澪が短く言って、ギターのチューニングを確認した。
「弾き続ける」
その言葉に、詠は少し笑った。
第二章の前なら、澪のその言い方は冷たく聞こえたかもしれない。
でも今は違う。
澪の「弾き続ける」は、戦うという意味だけではない。
聴くこと。
届けること。
一緒にいること。
その全部が、少しだけ混じっている。
「じゃあ、軽く合わせる?」
詠が言うと、琴羽の顔が明るくなった。
「うん。あ、でも今日はゆっくりめがいいな。まだ水律祭の筋肉痛が残ってる」
「鍵盤で筋肉痛ってどこに出るんだよ」
天音が笑う。
「心の筋肉」
「急にいいこと言うな」
そんなやり取りに、理央が小さく息を吐いた。
笑いだった。
ほんの少し前まで、理央はこういう曖昧な冗談に困った顔をしていた。今も得意ではなさそうだけれど、拒んではいない。
詠はその変化が嬉しかった。
五人でいることは、きれいに揃うことではない。
少し遅れて、少し外れて、少し迷いながら、それでも同じ部屋に戻ってくることなのだと、水律祭で知った。
詠が最初のコードを鳴らした。
澪のギターが、そこへ細い線を重ねる。
琴羽の鍵盤が、やわらかく空気を満たす。
天音の机ドラムが、笑ってしまうほど小さな音で拍を刻む。
理央の指が、本から離れた。
「理央?」
「低音がないと、落ち着きません」
そう言って、理央はベースケースに手を伸ばした。
五人の音が、準備室の中でほどけるように広がっていく。
戦うための合奏ではなかった。
勝つための音でもなかった。
ただ、五人がそこにいることを確かめるための音。
窓際で丸くなっていたミヨリは、うとうとしているように見えた。
けれど、その耳は、ずっと外の音を聴いていた。
水律祭の余韻が残る、穏やかな午後。
その静けさの奥に、まだ誰も気づかない古い残響が沈んでいる。
ミヨリだけが、かすかに尾を揺らした。
※ ※ ※
その夜。
詠が眠りについたあと、ミヨリは一人、窓の外を見ていた。
星が出ている。
風もない。
静かな夜だった。
静かすぎる夜だった。
「……来る」
三日前から、感じていた。
遠い残響。
深い音。
九弦が奏でる、引力のような波動。
戦律監たちの音とは違う。
テンポを乱す音でもない。
調を変える音でもない。
律を反転させる音でもない。
もっと古い。
もっと乾いている。
灰になったはずの旋律が、まだ燃え残っているような音。
ミヨリのしっぽが、静かに揺れる。
その名を、口に出すことができなかった。
出してしまえば、何かが始まる気がして。
眠る詠の頬には、水律祭の疲れがまだ少しだけ残っていた。枕元には、祖母の形見から祝具となった《祝華》が置かれている。
「おぬしらは、確かに強くなった」
ミヨリは小さく呟く。
「じゃが、強くなった音ほど、断たれたときに深く痛む」
窓の外には、学院の桜が見えた。
その枝先が、風もないのにほんの少しだけ揺れる。
ミヨリは知っている。
かつて、同じように五人が揃ったことがあった。
笑って、歌って、誰かに届けようとしていた少女たちがいた。
その中心にいた一人を、ミヨリは知っている。
けれど、すべてを知っているわけではない。
どうして折れたのか。
折れた後、どれほど長く暗闇を歩いたのか。
その痛みの底までは、ミヨリにも届かない。
「……すまんのう」
眠る詠へ、ミヨリは声にならない声で言う。
「また、おぬしたちに重い音を背負わせることになる」
遠くで、九弦が鳴った。
詠には聴こえない。
けれど、ミヨリにははっきりと聴こえた。
名を呼べない影が、もうすぐそこまで来ている。
ミヨリは窓辺で身を固くした。
夜は、まだ静かだった。
※ ※ ※
カナミは夢を見ていた。
いつもの夢だ。
桜の木の下に、五人がいる。
自分と、幼馴染の四人。
誰かが歌っている。
誰かが手を叩いている。
誰かが泣きながら笑っている。
名前は、もう思い出せない。
顔も、少しずつ薄れている。
でも、音だけは覚えている。
あの五人が奏でた音だけは、数百年経った今でも、耳の奥に残っていた。
下手だった。
今思えば、本当に下手だった。
音程は揺れた。拍も走った。誰かが間違えるたび、誰かが笑った。
それでも、誰かに届けようとしていた。
それだけは、確かだった。
夢が、割れる。
桜の木が、音もなく崩れる。
五人が、音もなく消える。
残ったのは、自分一人だった。
届かなかった。
どれだけ弾いても。
どれだけ叫んでも。
音は、届かなかった。
カナミの目が開く。
黒い天井がそこにあった。
「……夢か」
彼女は手を伸ばし、九弦ギター《奏哭ノ冥弦》を取る。
冷たい。
重い。
けれど、この重さだけが、今の自分を地面につなぎ止めている。
モニターには、水律祭の記録が映っていた。
五人が溶け合うように鳴った、あのラスト。
詠の声。
澪のギター。
琴羽の鍵盤。
天音の拍。
理央の低音。
違う。
違うはずだ。
あの子たちとは違う。
時代も、顔も、音も違う。
それなのに、胸の奥で灰が動いた。
「……本物だった」
カナミは小さく呟く。
認めたくない。
けれど、否定できない。
あの音は、本物だった。
だからこそ、試さなければならない。
本物なら残る。
偽物なら壊れる。
届くと信じた音ほど、届かなかった時に深く壊れる。
それを知らずに笑っているなら、壊してでも知らせなければならない。
カナミの指が、九弦の一本を弾いた。
「確かめる」
その声は、怒りでも憎しみでもなかった。
楽しみでもない。
ただ、何かを失う前に手を伸ばすような、静かな声だった。
「あの音が、どこまで届くのか」
カナミは立ち上がる。
窓の外に、夜が広がっていた。
灰の中で、古い五重奏がまだ鳴っている。
彼女はその残響を背負い、闇の中へ歩き出した。
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