第三十音 五人でしか渡れない、本物だった音
競技が終わり、詠たちはプールサイドへ戻った。
琴羽はまだ少し足元がおぼつかない様子で、天音の腕を借りている。詠も《櫻音》を抱えたまま、深く息を吐いた。
「おつかれ」
澪がタオルを差し出す。
「ありがと」
詠は受け取りながら、少し笑った。
「澪、浮島の話、正しかった」
澪が眉を上げる。
「天音と琴羽の動きを聴きながら弾いたら、島が安定した。音楽も同じなんだと思った」
「……そうだ」
澪の返事は短い。
けれど、その短さは冷たさではなかった。
詠は五人を見回した。
「私、今まで五人で弾くって言いながら、実際は自分が弾くことしか考えてなかった気がする」
理央が静かに腕を組む。
「その自覚は重要です」
「急に先生みたい」
「事実を言っただけよ」
天音が笑った。
「まあ、最初からそうしろって話だけどな」
「天音に言われるとちょっと悔しい」
「なんでだよ」
琴羽がくすくす笑う。
「でも、わたしもわかった気がする。誰かに合わせるって、我慢することじゃないんだね」
「うん」
詠は頷いた。
「相手を聴くことなんだと思う」
その言葉に、澪がわずかに目を伏せる。
第二章で得た答え。
届けたいから弾く。
それは、相手を聴くことと同じ場所にあるのかもしれない。
「今日のライブ」
詠は《櫻音》のネックを握り直した。
「ちゃんと聴きながら弾いていい? みんなの音を」
「聞くな」
澪が言う。
詠が目を丸くする。
「え」
「いいに決まってる」
一拍置いて、全員が笑った。
澪も、少しだけ口元を緩める。
理央がセットリストを広げた。
「曲順は昨日の修正版で行きましょう。一曲目で観客を引き込み、二曲目で澪のソロ、三曲目で五人全員の響きを前面に出す」
「理央、それ私が最初に言ってた案にちょっと近くない?」
「近いけれど、危険な転換は削った」
「つまり私の案も完全にダメじゃなかった」
「そこだけ拾うのはやめなさい」
また笑いが起きる。
水上ステージの準備が始まった。
特設ステージは、プールの水面に張り出した板張りの舞台だ。波が来るたび、ほんの少しだけ揺れる。
五人は、そこへ順番に上がった。
詠は中央。
澪は少し左。
琴羽は鍵盤を前に、天音は後方のドラムポジション、理央は低音が全体を支えられる位置へ立つ。
いつもの並び。
でも、今日は少し違って感じた。
五人が同じ場所に立っているのではない。
五人が、それぞれの場所から、同じ水面を渡ろうとしている。
ミヨリが五人の頭上でくるりと回る。
「ようやく、揃ってきたのう」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど詠は、ふと空を見上げた。
「ミヨリ、何か言った?」
「なんでもないわい。さっさと鳴らしてこい」
「うん」
詠はマイクに手を添える。
水面が揺れる。
観客席が静まる。
五人の影が、プールの水に映る。
一人では渡れない。
三人でも、まだ足りない。
でも五人なら。
五人でしか、渡れない音がある。
詠は息を吸った。
水上ライブが、始まる。
※ ※ ※
最初の和音が、水面に溶けるように広がった。
ステージの下で、プールの水がかすかに揺れる。陸のステージとは違う。足元がほんの少し動くだけで、体の芯まで揺さぶられる。
けれど、五人はもう慌てなかった。
浮島で学んだばかりだ。
揺れは敵ではない。
相手を聴くための合図だ。
詠は歌いながら、澪のギターを聴いた。
いつもと違った。
澪の音が、今日はどこか柔らかい。技術は変わっていない。音の精度も高いままだ。
でも、音の選び方に余白がある。
詠が入りやすい場所を、澪が少しだけ空けてくれている。
これが、届けたいから弾く音なのだと思った。
詠はその余白の中に、自分の声を乗せる。
澪のギターが、詠の声を受けてわずかに変わる。
ふたりの音が、会話するように重なっていく。
後ろで天音が笑うのが、詠には見えなかった。
けれど、感じた。
天音の拍が、いつもより少しだけ弾んでいる。詠と澪の会話を邪魔しないように、でも沈みすぎないように、絶妙な場所へビートを置いていた。
理央のベースが、その拍の下に根を張る。
水面の揺れごと支えるような低音。
琴羽の春鈴が、空間を染めるように広がる。
五人の音が、水面に咲いた。
一曲目が終わる。
拍手が来る。
けれど五人は、拍手に飲まれなかった。
次の曲へ入るため、互いの呼吸を聴く。
澪が足元を見ずに、軽く頷いた。
理央が低音を鳴らす。
二曲目。
間奏で、澪のギターソロが始まった。
いつもなら、澪はソロの間、自分の音だけに集中する。
スケールを計算し、フレーズを組み立て、技術で完成させる。
でも今日は違った。
詠のマイクが下がり、天音が刻んだ拍がソロの下で鳴り続けている。
澪はその拍を聴いた。
天音が、澪のために拍を変えている。
ほんの少しだけ、ゆとりを持たせた刻み方に。
澪が長いフレーズを弾けるように。
理央の根音が、フレーズの着地点を先に示してくれる。
琴羽の和音が、鋭くなりすぎる音を包んでくれる。
詠の声の余韻が、まだ空気に残っている。
澪の指が動く。
技術は変わらない。
でも今日のソロには、四人の音が混じっていた。
それは、澪一人では作れない音だった。
ソロが終わる。
詠のマイクが戻り、サビが始まる。
澪の目が、少しだけ潤んでいた。
気づいた者はいない。
いや。
詠だけは、気づいていた。
でも何も言わない。
ただ、その音を受け取るように、歌を重ねた。
三曲目。
ラスト。
サビに入ったとき、何かが変わった。
音が重なるのではなく、溶け合い始めた。
詠は歌いながら思う。
これが、五人で弾くということだ。
澪の音が聴こえる。
天音の拍が感じられる。
理央の低音が足元から来る。
琴羽の色が空気を染める。
それを全部受け取りながら、詠は歌う。
自分の声が、五人の音の一部になっている。
主役でも中心でもない。
五つの中の一つ。
でも、自分の声がなければ、この音は完成しない。
一人ではなく。
五人でもなく。
五人が、それぞれ一人として鳴る。
それが、五色ノ契。
ラストコードが鳴り止む。
一瞬の静寂。
それから、拍手が来た。
プールサイドの生徒たちが、立ち上がっていた。
水面が揺れている。
光が砕けている。
詠はマイクスタンドを握ったまま、その景色を見ていた。
とても、美しかった。
※ ※ ※
ライブが終わり、五人はステージ袖に戻った。
しばらく、誰も話さなかった。
話す必要がなかった。
水面に残る余韻が、まだ体の中で鳴っている。
やがて、天音がぽつりと言った。
「……この前、俺が言ったこと、覚えてるか」
「一人で行けると思い始めてないか、って言ったやつ?」
詠が答える。
天音は頷いた。
「今日、答えが出た気がする」
「私も」
琴羽が言う。
「一人で頑張ることと、ひとりぼっちで弾くことって、違うんだね」
理央がベースケースに手を置く。
「一人で立てることは必要です。けれど、孤立することとは違う」
澪はギターを見下ろした。
「一人で行けると思うことは、悪くない。でも、一人で行こうとすることは違う」
詠は水上ステージを振り返る。
「今日みたいな音、また鳴らしたい」
誰かが笑った。
全員が笑った。
その笑いは、明るかった。
第二章を越えた後の、勝利の笑いとは少し違う。
もっと静かで、もっと深い。
互いの弱さもズレも、少しだけ知ったあとの笑いだった。
「また鳴らせるよ」
琴羽が言う。
「今日、ちゃんと聴こえたもん。五人の音」
ミヨリは少し離れた手すりの上で、その五人を見ていた。
「……五色ノ契」
小さく呟く。
その声には、安堵と、ほんのわずかな恐れが混じっていた。
五つの音が、ここまで来た。
それは喜ばしいことだ。
けれど、届く音ほど、届かなかった時の痛みも深くなる。
ミヨリは、そのことを知っている。
※ ※ ※
同じ夜。
黒い部屋で、カナミ=リクレインは水律祭の記録を見ていた。
最後のライブ。
五人が溶け合うように鳴った、あの瞬間。
カナミの指が、九弦ギターの上で止まる。
しばらく、何も言わなかった。
モニターの中で、詠が歌っている。
澪がその声を支えている。
琴羽の鍵盤が、空気をやわらかく染める。
天音の拍が、全員の鼓動を前へ進める。
理央の低音が、音の帰る場所を作っている。
それは、見覚えのある光景だった。
違う。
そう思おうとした。
違う時代。
違う少女たち。
違う音。
それなのに、胸の奥で何かが動く。
懐かしさではない。
羨ましさでもない。
もっと古くて、もっと痛いもの。
数百年前に灰になったはずの音が、ほんの少しだけ息を吹き返す。
カナミは九弦の一つを弾いた。
低く、深い音が、部屋に広がる。
「……本物だった」
その言葉は、誰にも向けられていなかった。
認めたくない。
でも、否定できない。
五人の音は、確かに本物だった。
だからこそ、壊れる。
届くと信じた音ほど、届かなかった時に深く壊れる。
「確かめに行く」
カナミは立ち上がる。
九弦ギター《奏哭ノ冥弦》を背負う。
黒い髪が、音もなく揺れた。
「連勝の高揚も、今日で終わり」
扉へ向かう足取りに、迷いはない。
「次に会うとき、あなたたちの束を試させてもらう」
扉が閉まる。
廊下に、静かな足音が響いた。
その音は、まるで灰の中から立ち上がる旋律のようだった。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




