表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/60

第三十音 五人でしか渡れない、本物だった音

 競技が終わり、詠たちはプールサイドへ戻った。




 琴羽はまだ少し足元がおぼつかない様子で、天音の腕を借りている。詠も《櫻音》を抱えたまま、深く息を吐いた。




「おつかれ」




 澪がタオルを差し出す。




「ありがと」




 詠は受け取りながら、少し笑った。




「澪、浮島の話、正しかった」




 澪が眉を上げる。




「天音と琴羽の動きを聴きながら弾いたら、島が安定した。音楽も同じなんだと思った」




「……そうだ」




 澪の返事は短い。




 けれど、その短さは冷たさではなかった。




 詠は五人を見回した。




「私、今まで五人で弾くって言いながら、実際は自分が弾くことしか考えてなかった気がする」




 理央が静かに腕を組む。




「その自覚は重要です」




「急に先生みたい」




「事実を言っただけよ」




 天音が笑った。




「まあ、最初からそうしろって話だけどな」




「天音に言われるとちょっと悔しい」




「なんでだよ」




 琴羽がくすくす笑う。




「でも、わたしもわかった気がする。誰かに合わせるって、我慢することじゃないんだね」




「うん」




 詠は頷いた。




「相手を聴くことなんだと思う」




 その言葉に、澪がわずかに目を伏せる。




 第二章で得た答え。




 届けたいから弾く。




 それは、相手を聴くことと同じ場所にあるのかもしれない。




「今日のライブ」




 詠は《櫻音》のネックを握り直した。




「ちゃんと聴きながら弾いていい? みんなの音を」




「聞くな」




 澪が言う。




 詠が目を丸くする。




「え」




「いいに決まってる」




 一拍置いて、全員が笑った。




 澪も、少しだけ口元を緩める。




 理央がセットリストを広げた。




「曲順は昨日の修正版で行きましょう。一曲目で観客を引き込み、二曲目で澪のソロ、三曲目で五人全員の響きを前面に出す」




「理央、それ私が最初に言ってた案にちょっと近くない?」




「近いけれど、危険な転換は削った」




「つまり私の案も完全にダメじゃなかった」




「そこだけ拾うのはやめなさい」




 また笑いが起きる。




 水上ステージの準備が始まった。




 特設ステージは、プールの水面に張り出した板張りの舞台だ。波が来るたび、ほんの少しだけ揺れる。




 五人は、そこへ順番に上がった。




 詠は中央。




 澪は少し左。




 琴羽は鍵盤を前に、天音は後方のドラムポジション、理央は低音が全体を支えられる位置へ立つ。




 いつもの並び。




 でも、今日は少し違って感じた。




 五人が同じ場所に立っているのではない。




 五人が、それぞれの場所から、同じ水面を渡ろうとしている。




 ミヨリが五人の頭上でくるりと回る。




「ようやく、揃ってきたのう」




 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。




 けれど詠は、ふと空を見上げた。




「ミヨリ、何か言った?」




「なんでもないわい。さっさと鳴らしてこい」




「うん」




 詠はマイクに手を添える。




 水面が揺れる。




 観客席が静まる。




 五人の影が、プールの水に映る。




 一人では渡れない。




 三人でも、まだ足りない。




 でも五人なら。




 五人でしか、渡れない音がある。




 詠は息を吸った。




 水上ライブが、始まる。




 ※ ※ ※




 最初の和音が、水面に溶けるように広がった。




 ステージの下で、プールの水がかすかに揺れる。陸のステージとは違う。足元がほんの少し動くだけで、体の芯まで揺さぶられる。




 けれど、五人はもう慌てなかった。




 浮島で学んだばかりだ。




 揺れは敵ではない。




 相手を聴くための合図だ。




 詠は歌いながら、澪のギターを聴いた。




 いつもと違った。




 澪の音が、今日はどこか柔らかい。技術は変わっていない。音の精度も高いままだ。




 でも、音の選び方に余白がある。




 詠が入りやすい場所を、澪が少しだけ空けてくれている。




 これが、届けたいから弾く音なのだと思った。




 詠はその余白の中に、自分の声を乗せる。




 澪のギターが、詠の声を受けてわずかに変わる。




 ふたりの音が、会話するように重なっていく。




 後ろで天音が笑うのが、詠には見えなかった。




 けれど、感じた。




 天音の拍が、いつもより少しだけ弾んでいる。詠と澪の会話を邪魔しないように、でも沈みすぎないように、絶妙な場所へビートを置いていた。




 理央のベースが、その拍の下に根を張る。




 水面の揺れごと支えるような低音。




 琴羽の春鈴が、空間を染めるように広がる。




 五人の音が、水面に咲いた。




 一曲目が終わる。




 拍手が来る。




 けれど五人は、拍手に飲まれなかった。




 次の曲へ入るため、互いの呼吸を聴く。




 澪が足元を見ずに、軽く頷いた。




 理央が低音を鳴らす。




 二曲目。




 間奏で、澪のギターソロが始まった。




 いつもなら、澪はソロの間、自分の音だけに集中する。




 スケールを計算し、フレーズを組み立て、技術で完成させる。




 でも今日は違った。




 詠のマイクが下がり、天音が刻んだ拍がソロの下で鳴り続けている。




 澪はその拍を聴いた。




 天音が、澪のために拍を変えている。




 ほんの少しだけ、ゆとりを持たせた刻み方に。




 澪が長いフレーズを弾けるように。




 理央の根音が、フレーズの着地点を先に示してくれる。




 琴羽の和音が、鋭くなりすぎる音を包んでくれる。




 詠の声の余韻が、まだ空気に残っている。




 澪の指が動く。




 技術は変わらない。




 でも今日のソロには、四人の音が混じっていた。




 それは、澪一人では作れない音だった。




 ソロが終わる。




 詠のマイクが戻り、サビが始まる。




 澪の目が、少しだけ潤んでいた。




 気づいた者はいない。




 いや。




 詠だけは、気づいていた。




 でも何も言わない。




 ただ、その音を受け取るように、歌を重ねた。




 三曲目。




 ラスト。




 サビに入ったとき、何かが変わった。




 音が重なるのではなく、溶け合い始めた。




 詠は歌いながら思う。




 これが、五人で弾くということだ。




 澪の音が聴こえる。




 天音の拍が感じられる。




 理央の低音が足元から来る。




 琴羽の色が空気を染める。




 それを全部受け取りながら、詠は歌う。




 自分の声が、五人の音の一部になっている。




 主役でも中心でもない。




 五つの中の一つ。




 でも、自分の声がなければ、この音は完成しない。




 一人ではなく。




 五人でもなく。




 五人が、それぞれ一人として鳴る。




 それが、五色ノ契。




 ラストコードが鳴り止む。




 一瞬の静寂。




 それから、拍手が来た。




 プールサイドの生徒たちが、立ち上がっていた。




 水面が揺れている。




 光が砕けている。




 詠はマイクスタンドを握ったまま、その景色を見ていた。




 とても、美しかった。




 ※ ※ ※




 ライブが終わり、五人はステージ袖に戻った。




 しばらく、誰も話さなかった。




 話す必要がなかった。




 水面に残る余韻が、まだ体の中で鳴っている。




 やがて、天音がぽつりと言った。




「……この前、俺が言ったこと、覚えてるか」




「一人で行けると思い始めてないか、って言ったやつ?」




 詠が答える。




 天音は頷いた。




「今日、答えが出た気がする」




「私も」




 琴羽が言う。




「一人で頑張ることと、ひとりぼっちで弾くことって、違うんだね」




 理央がベースケースに手を置く。




「一人で立てることは必要です。けれど、孤立することとは違う」




 澪はギターを見下ろした。




「一人で行けると思うことは、悪くない。でも、一人で行こうとすることは違う」




 詠は水上ステージを振り返る。




「今日みたいな音、また鳴らしたい」




 誰かが笑った。




 全員が笑った。




 その笑いは、明るかった。




 第二章を越えた後の、勝利の笑いとは少し違う。




 もっと静かで、もっと深い。




 互いの弱さもズレも、少しだけ知ったあとの笑いだった。




「また鳴らせるよ」




 琴羽が言う。




「今日、ちゃんと聴こえたもん。五人の音」




 ミヨリは少し離れた手すりの上で、その五人を見ていた。




「……五色ノ契」




 小さく呟く。




 その声には、安堵と、ほんのわずかな恐れが混じっていた。




 五つの音が、ここまで来た。




 それは喜ばしいことだ。




 けれど、届く音ほど、届かなかった時の痛みも深くなる。




 ミヨリは、そのことを知っている。




 ※ ※ ※




 同じ夜。




 黒い部屋で、カナミ=リクレインは水律祭の記録を見ていた。




 最後のライブ。




 五人が溶け合うように鳴った、あの瞬間。




 カナミの指が、九弦ギターの上で止まる。




 しばらく、何も言わなかった。




 モニターの中で、詠が歌っている。




 澪がその声を支えている。




 琴羽の鍵盤が、空気をやわらかく染める。




 天音の拍が、全員の鼓動を前へ進める。




 理央の低音が、音の帰る場所を作っている。




 それは、見覚えのある光景だった。




 違う。




 そう思おうとした。




 違う時代。




 違う少女たち。




 違う音。




 それなのに、胸の奥で何かが動く。




 懐かしさではない。




 羨ましさでもない。




 もっと古くて、もっと痛いもの。




 数百年前に灰になったはずの音が、ほんの少しだけ息を吹き返す。




 カナミは九弦の一つを弾いた。




 低く、深い音が、部屋に広がる。




「……本物だった」




 その言葉は、誰にも向けられていなかった。




 認めたくない。




 でも、否定できない。




 五人の音は、確かに本物だった。




 だからこそ、壊れる。




 届くと信じた音ほど、届かなかった時に深く壊れる。




「確かめに行く」




 カナミは立ち上がる。




 九弦ギター《奏哭ノ冥弦》を背負う。




 黒い髪が、音もなく揺れた。




「連勝の高揚も、今日で終わり」




 扉へ向かう足取りに、迷いはない。




「次に会うとき、あなたたちの束を試させてもらう」




 扉が閉まる。




 廊下に、静かな足音が響いた。




 その音は、まるで灰の中から立ち上がる旋律のようだった。






少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ