第二十九音 水上の五線譜、三人では届かない拍
神響女学院、南プール。
初夏の陽光が水面に砕けて、無数の光の粒になっていた。
プールサイドには青と白の飾り紐が渡され、音符の形をした浮き飾りが風に揺れている。水上には特設ステージが組まれ、端には浮島シンクロ競技用のボードがいくつも並んでいた。
普段は別々の棟にいる初等部、中等部、高等部の生徒たちが、今日だけは一つの場所に集まっている。
音楽部。
舞踏部。
声楽部。
管弦楽の制服を着た生徒たちや、ダンス衣装の生徒たちが行き交い、プールサイド全体が大きなステージのようだった。
「すごい人だ……」
琴羽が目をぱちくりさせる。
「神響女学院って、こんなに生徒いたんだね」
「普段は学部ごとに分かれてるからな。こういう時しか全員集まらない」
天音が言う。
「水上での演奏は、音の反響特性が陸と異なります。湿度、床の揺れ、観客の位置、すべて確認しておく必要があるわ」
理央はもう分析を始めていた。
その隣で、詠は深呼吸をする。
「……よし」
澪が詠の顔を見た。
「緊張してる?」
「してない、って言ったら嘘になる」
詠は苦笑した。
「でも、楽しみの方が大きい。今日、ちゃんと五人で鳴らしたい」
「……ああ」
澪の短い返事には、昨日までの棘がなかった。
浮島シンクロ競技に出るのは、詠、天音、琴羽の三人。
澪と理央は水上ライブの最終調整に回る。
昨日話し合って決めたことだ。
全部を五人でやるわけではない。
けれど、五人でいることを諦めたわけでもない。
「詠ちゃん、落ちたらどうしよう」
琴羽がボードを見つめながら、不安そうに言う。
「落ちたら濡れる」
天音が即答した。
「それはそうなんだけどっ」
「大丈夫。私も落ちたくないから本気で支える」
詠が笑う。
今度は、昨日のような強がりではなかった。
出発前、澪が詠に近づいた。
「……詠」
「なに?」
「浮島の上では、天音と琴羽の音をちゃんと聴け」
「うん」
「自分の演奏に集中しすぎると、重心がズレる。二人の動きと呼吸を感じながら弾けば、バランスが保ちやすい」
それは音楽の話でもあり、体重移動の話でもあった。
詠は少しだけ目を丸くする。
「澪って、実はすごく気が利くよね」
澪が顔を逸らした。
「言い方を覚えようとしているだけだ」
「それ、けっこうかわいい」
「やめろ」
詠が声を立てて笑う。
その笑い声が、水面へ落ちて、きらきらと広がった。
審判の笛が鳴る。
浮島シンクロ競技、開幕。
詠は《櫻音》を抱え直し、天音と琴羽を見る。
今日は、自分の音だけでは渡れない。
水の上に浮かぶ小さな五線譜へ、三人はゆっくりと足を踏み出した。
※ ※ ※
浮島は、思っていたよりずっと揺れた。
水面のさざ波が、ボード越しに足裏へ伝わってくる。少し体重を動かすだけで、島全体が傾いた。
「……うわ、これ普通に難しい」
詠が小声で言う。
「黙って弾け。喋ると重心がズレる」
天音が短く返した。
「は、はい」
琴羽は鍵盤を抱えたまま、足元を見ている。
三人の前には、水面に浮かぶ小さなステージ。
岸からは澪と理央、ミヨリが見守っていた。
「詠、肩に力が入ってる」
澪の声が飛ぶ。
「わかってるけど、抜いたら落ちそう!」
「それは力の抜き方が違う」
「今それ詳しく説明されても無理!」
笛が鳴った。
演奏開始。
最初の一小節は、なんとかなった。
天音が軽く拍を刻み、詠がそれに合わせてコードを入れる。琴羽の鍵盤も、やわらかく上に乗った。
いける。
そう思った瞬間だった。
二小節目に入ったところで、琴羽がシンセの鍵盤を押さえるために前傾みになる。
ボードが右へ傾いた。
「わっ」
三人が同時に足を踏み替える。
島は戻った。
けれど、演奏が止まった。
プールサイドで見ていた審判が旗を上げる。
「演奏停止、一回目の警告」
「ごめんなさいっ、私が前に出すぎた……」
琴羽が慌てて謝る。
「気にするな」
天音は短く言った。
「もう一回、最初から」
詠は息を整える。
岸にいる澪の言葉が、頭の中で鳴った。
天音と琴羽の音を聴け。
二人の動きを感じながら弾け。
今の詠は、自分のコードを間違えないことばかり考えていた。
だから、琴羽の体が前に出たことに気づくのが遅れた。
「……ごめん。私も聴けてなかった」
「詠ちゃんのせいじゃ」
「ううん。三人で乗ってるんだから、三人分聴かなきゃだめだよね」
天音が、少しだけ詠を見る。
「いいじゃん。気づいたなら、次で直せばいい」
二回目。
詠は、今度は自分のギターより先に、天音の足音を聴いた。
天音がどこに重心を置いているか。
どちらの足に体重をかけているか。
その微妙な揺れを感じながら、詠も体重を合わせる。
島が、少しだけ安定した。
天音のリズムが刻まれるたびに、詠の体がそれに合わせて動く。
琴羽も同じことをしていた。天音の拍を感じ、詠の体重移動を感じ、その中心を保ちながら鍵盤を押さえている。
三人の重心が、少しずつ一つになっていく。
十小節。
二十小節。
ボードは揺れる。
でも、倒れない。
プールサイドから声援が上がり始める。
詠は笑わなかった。
笑うと重心がズレることを、もう知っていたから。
けれど、胸の中では確かに笑っていた。
自分の音だけ聴いていたら、こうはならなかった。
天音の拍を感じて、琴羽の重さを感じて、その上で弾いて、初めて。
水の上に、立っていられる。
最終小節。
三人の音が揃い、浮島が静かに水面を漂った。
審判が旗を下ろす。
「演奏完了。失格なし」
プールサイドが、どっと沸いた。
「やったあっ……!」
琴羽が声を上げる。
「上出来だ」
天音が静かに言う。
詠は天音を見た。
「天音、途中から重心変えてくれてたよね。私と琴羽に合わせて」
「気づいたか」
「うん。助かった」
「礼はいい。当然のことをしただけだ」
天音は照れを隠すように前を向く。
その背中を見て、詠は思った。
天音は、きっとずっとそうしていたのだ。
ドラムでも。
みんなの音を聴きながら、拍を置き、重心をずらし、誰かが戻れる場所を作っていた。
自分の音だけでは、届かない拍がある。
それが、浮島の上で初めてわかった。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




