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第二十八音 束ねる音、黒い九弦が鳴る夜

 放課後。




 詠は一人、南プールの端に座っていた。




 水律祭の準備はまだ続いている。遠くでは生徒たちが飾り紐を結び、仮設ステージの音響確認をしていた。




 けれど、詠の周りだけは少し静かだった。




 夕日を受けた水面が、ゆらゆらと揺れている。




「……なんで、あんな感じになったかな」




 詠は膝を抱えた。




 五人で出ようよ。




 そう言ったとき、本当に楽しいと思った。




 五人で乗って、五人で揺れて、五人で笑って、たぶん誰かが落ちそうになって、それでも支え合って。




 そんな光景が浮かんだ。




 でも、澪は水が苦手だった。




 理央の判断は合理的だった。




 天音の言う通り、全員失格はもったいない。




 琴羽だって、無理をしない方がいいと言った。




 誰も間違っていない。




 間違っていないのに、詠は少しだけ寂しかった。




「私、五人って言葉に寄りかかってたのかな」




 テンポスナッパーを越えた。




 オルタレーターを越えた。




 ディストノームも越えた。




 五人なら大丈夫。




 そう思っていた。




 けれど今日、五人でいることは、ただ全部を一緒にやることではないのだと思い知らされた。




 できること。




 できないこと。




 怖いこと。




 譲れること。




 譲れないこと。




 それぞれ違う。




「……五人でいるって、難しいな」




 詠の声は、水面に落ちて小さく溶けた。




 ※ ※ ※




 同じ頃。




 音楽準備室で、澪はギターを弾いていた。




 Cメジャー。




 昨日より、音は自然に鳴った。




 ディストノームとの戦いから、澪の弾き方は少し変わった。正しい音を選ぶだけではなく、届けたい相手を思って弾くようになった。



 それは確かに前進だった。




 でも。




「正しくても、言い方ってあるじゃん」




 詠の言葉が、頭の中で繰り返される。




 澪は弦の上で指を止めた。




 正しいことを言った。




 浮島に五人で乗るのは危険だ。曲順案にも無理があった。転換も難しい。水上ステージなら足場も揺れる。




 だから指摘した。




 それだけのはずだった。




 なのに、詠は少し傷ついた顔をした。




「……言葉は、音より難しい」




 澪は小さく呟いた。




 音なら、まだわかる。




 強く出すべきか、弱く添えるべきか。沈めるべきか、前へ出すべきか。全部ではないけれど、耳を澄ませば見えてくる。




 でも言葉は、同じ意味でも届き方が変わる。




 正しい言葉が、正しく届くとは限らない。




 それは、ディストノームの反転律場よりもずっと身近で、厄介だった。




「届けたい音を選ぶなら」




 澪はギターを見下ろす。




「届けたい言葉も、選ばないといけない」




 そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。




 謝った方がいい。




 それはわかる。




 でも、どう謝ればいいのかわからない。




 澪はもう一度、Cメジャーを鳴らした。




 音は綺麗だった。




 言葉は、まだ出てこなかった。




 ※ ※ ※




 翌朝。




 詠は音楽準備室のドアをノックした。




「……おはよう」




 中にいた澪が顔を上げる。




「おはよ」




 詠は向かいに座った。




 少しだけ沈黙がある。




 昨日の隙間が、まだ机の上に残っているみたいだった。




 先に口を開いたのは、詠だった。




「昨日、ごめん」




 澪が目を瞬かせる。




「言い方ってあるじゃん、って言ったけど……澪の意見は正しかった。私が感情的になってた」




「……私も、ごめん」




 今度は詠が驚く。




「澪から謝るの、珍しい」




「珍しいことを言わせたのは、詠」




「そこ責任ある?」




 澪は少しだけ目を伏せた。




「言い方を考えなかった。正しいことを言えば伝わると思ってた。でも」




 彼女は弦を一本だけ鳴らす。




「音も、言葉も、届け方がある。昨日、それを忘れてた」




 詠は少し笑った。




「澪、変わったね」




「……そうかな」




「うん。ディストノームとの戦いの後から、ちょっとだけ」



 澪は答えなかった。




 でも、その沈黙は否定ではなかった。




 詠は折りたたんだセットリスト案を広げる。




「じゃあ、一緒に考えてくれる?」




「ああ」




 二人は紙に向かった。




 まだ完全にわかったわけではない。




 でも、こぼれた音をもう一度拾うように、二人は少しずつ言葉を重ね始めた。




 廊下からこっそり覗いていた琴羽が、ほっと息をつく。




 五人の音は、まだ完成していない。




 だからこそ、こうして何度でも結び直す必要があるのだ。




 ※ ※ ※




 昼休み。




 五人は中庭に集まっていた。




「浮島シンクロは三人で出る。水上ライブは五人全員で。それでいい?」




 理央が確認すると、全員が頷いた。




 昨日と同じ結論。




 けれど、今日は詠が最初に頷いた。




「うん。それが一番いいと思う」




 天音が詠を見た。




「なんか昨日と雰囲気違うな」




「そう?」




「昨日はちょっと、ピリピリしてた」




「してたね。ごめん」




「謝らなくていい。ただ、気になっただけ」




 天音は頭をかく。




「俺たちさ、強くなってきたじゃん。三連勝して。それは本当だと思う」




 誰も否定しなかった。




 テンポ。




 調。




 律。




 五人は、それぞれの壁を越えてきた。




「でも俺、最近ちょっと思うんだけど」




 天音は視線を落とす。




「強くなった分、なんか……一人で行けると思い始めてないか? 各自が」




 風が吹いた。




 中庭の木々が、さわさわと鳴る。




 天音は続けた。




「あの戦いの時、俺はリズムを止めないって思って叩いてた。それは間違ってなかったと思う。でも、あの時みんなの音をちゃんと聴いてたかって言うと……正直、自分の拍を守ることしか考えてなかった」



 理央が小さく頷く。




「私も、ルートを支えることに集中していた。全体を聴く余裕はなかった」




「わたしも」




 琴羽が両手を胸の前で握る。




「単音を出すのに精一杯で、みんながどう弾いてるか、あんまり聴けてなかった」




 澪は静かに言う。




「私は、詠に届けたくて弾いた。でも他の三人の音は、全部は聴けていなかった」




 詠は最後に、自分の胸へ手を当てた。




「私も。歌うことに必死だった」




 五人が黙る。




 誰かを責める沈黙ではない。




 むしろ、同じ場所を見つめるための沈黙だった。




「各自が、各自のことをした」




 詠がゆっくり言う。




「それで勝てた。でも、それって本当に五人で戦ったって言えるのかな」




 答えは、すぐには出ない。




 けれど、その問いを五人が共有できたことが、今日の一歩だった。




 ミヨリが中庭の桜の枝から、ふわりと降りてくる。




「よい問いじゃ」




「ミヨリ」




「勝ったから強い、とは限らん。負けなかったから届いた、というわけでもない。おぬしたちは、ようやくそれに気づき始めた」




 詠はミヨリを見る。




「じゃあ、五人で戦うって、どういうこと?」




 ミヨリは少しだけ目を細めた。




「今は、まだ答えを急がんでよい」




「またそれ?」




「答えは、もっと大きな試練の中で出る。音とは、そういうものじゃ」




 ミヨリの声に、ほんの少しだけ影が混じった。




 詠はそれに気づいたが、問い返す前に、予鈴が鳴った。




 五人はそれぞれ教室へ戻っていく。




 ミヨリだけが、枝の上に残り、遠くの空を見つめていた。




 ※ ※ ※




 その夜。




 暗い部屋で、九弦が鳴った。




 カナミ=リクレインは、モニターに映る五人を見ていた。




 プールサイドで一人考える詠。




 音楽準備室で言葉を探す澪。




 廊下で琴羽に声をかけられ、少し照れたように笑う天音。




 ノートに何かを書き込む理央。




 五人は、少しずつ自分たちの綻びを見つめ始めている。




「いいね」




 カナミが呟く。




 笑い、と呼べるほど温かくはない。




 けれど、口元がわずかに緩んでいた。




「三連勝した子たちの顔じゃない」




 九弦のひとつを押さえる。




 その音は、神響女学院の方角へ細く流れ、途中で夜に溶けた。




「ねえ」




 誰にも届かない声で、カナミは言う。




「あなたたちは、本当に五人でいるつもり?」




 モニターの中で、詠が笑っている。




 カナミの瞳に、ほんの一瞬、別の五人が映った。




 笑っていた。




 歌っていた。




 そして、消えた。




 カナミは目を閉じる。




「確かめに行くのは、もう少し後でいい」




 九弦が、低く鳴る。




「音は、熟すほど深く壊れる」




 ※ ※ ※




 同じ夜。




 詠の部屋の窓辺に、ミヨリが座っていた。




「詠よ」




「なに、ミヨリ」




 詠はベッドに横になったまま答える。




「今日、よく気づいたのう」




「……でも、まだちゃんとわかってないと思う。五人で戦うって、どういうことか」




「わかっておらんでいい。今は」




「え?」




「わかろうとしていることが大事なんじゃ。答えは、もっと大きな試練の中で出てくる」




 ミヨリは窓の外を見る。




 夜の空は、静かだった。




 けれど、その静けさの奥に、ミヨリだけが知っている古い残響が混じっている。




「おぬしたちには、もうすぐ本当の意味での断絶が来る」




 詠が起き上がった。




「断絶?」




「技術でも理論でも、耳でも意志でも、太刀打ちできない音じゃ」




 ミヨリの声が、少しだけ低くなる。




「その音は、音を壊すのではない」




「じゃあ、何を壊すの」




 ミヨリは、すぐには答えなかった。




 遠くで、風が鳴る。




 その風の中に、微かに九弦の残響が混じっていた。




 詠には聴こえない。




 ミヨリには、聴こえる。




「信頼じゃ」




 ミヨリは小さく言った。




「おぬしたちが、ようやく束ね始めたものを、根から断ち切りに来る」




「誰が」




 ミヨリの尾が、静かに揺れる。




「古い音じゃ」




 それだけ言って、ミヨリは夜空を見上げた。




 詠はそれ以上、聞けなかった。




 ただ胸の奥で、まだ見ぬ九弦の音が、静かに鳴った気がした。






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