第二十七音 連勝の朝、五人で出る意味
黒い水面のようなモニターに、昨日の戦闘記録が映っていた。
反転律場。
協和音が痛みに変わり、不協和音が安らぎに変わる、ディストノームの歪んだ律。
その中心で、五人の祝音少女は折れなかった。
紫月澪は膝をついた。けれど、立ち上がった。
花咲詠の声が重なり、千歳琴羽の和音が包み、火ノ宮天音の鼓動が支え、式部理央の低音が根を張った。
そして、五色の音は反転律場を内側から貫いた。
映像が、そこで止まる。
暗い部屋に、しばらく音はなかった。
長い黒髪の少女が、椅子に深く腰かけている。
膝の上には、九弦のギター。
指先が、その一本に触れていた。
「テンポも、調も、律も」
カナミ=リクレインは、静かに呟いた。
「全部、越えてきた」
怒りはなかった。
焦りもない。
ただ、遠い昔に聞いた音を思い出すような、凍った静けさだけがあった。
壁際に控えていた黒い影たちは、誰も声を出さない。戦律監たちが退けられたという事実は、彼らの空気を明らかに重くしていた。
カナミはモニターの中の五人を見る。
勝利のあと、笑い合っている五人。
その笑顔が、ほんの一瞬だけ、別の誰かたちと重なった。
桜の下。
五つの音。
届くと信じていた声。
カナミは目を細める。
「でも、音はいつか途切れる」
九弦が、低く鳴った。
「届くと信じた音ほど、届かなかった時に深く壊れる」
モニターの中で、詠が笑っている。
澪が、その隣で少しだけ目を伏せている。
カナミの指が、もう一度、弦に触れた。
「強くなったと自覚した瞬間が、一番脆い」
黒い部屋に、細い残響が広がる。
それは誰かを呼ぶ音ではなかった。
ただ、次に断ち切る音を測るための、一拍だった。
※ ※ ※
翌朝。
神響女学院は、水律祭の準備で浮き立っていた。
廊下には青と白の飾り紐が渡され、窓には水面を模した透明なフィルムが貼られている。南プールへ向かう生徒たちは、いつもより少し早足で、いつもより少し声が大きい。
詠も、その空気にすっかり飲まれていた。
「ねえねえ、聞いて。水上ライブの曲順、考えてきたんだけど」
詠は小走りで澪の隣へ並ぶと、折りたたんだ紙を広げた。
びっしりと書き込まれたセットリスト案。
曲順だけではない。どこでギターソロを入れるか、どこで琴羽の鍵盤を前に出すか、天音のドラムブレイクを何小節取るかまで、細かく矢印が引かれている。
「一曲目はキャッチーなやつで掴んで、二曲目で澪のギターを前に出して、三曲目でサビ頭から全員で入る構成。どう?」
澪は紙をちらりと見た。
「……一曲目と二曲目、キーが離れすぎてる」
「え」
「転換が難しい。現場で焦る」
「でも流れとしては自然じゃない?」
「流れより演奏性の問題。あと、三曲目の入りも危ない。水上ステージなら足場が揺れる」
詠の眉が、ほんの少しだけ寄る。
「澪、最近ちょっと言い方きつくない?」
澪が紙から目を上げた。
「きつくない。正しいことを言ってる」
「正しくても、言い方ってあるじゃん」
澪は口を閉じる。
昨日、彼女は「正しいから弾く」のではなく「届けたいから弾く」と決めた。
それなのに、朝になればまた、正しさが先に口をつく。
「……ごめん」
澪は小さく言った。
「でも、意見は変わらない」
「うん。わかった。考え直す」
詠は紙を折りたたむ。
怒っているわけではない。
けれど、少しだけ胸の中に引っかかりが残った。
第二章の戦いを越えて、五人は強くなった。
そのはずだった。
でも、五人でいることは、勝った翌日にも難しい。
廊下の向こうで、琴羽が二人を見つけて手を振った。
その笑顔に向かって歩き出しながら、詠は折りたたんだ紙をぎゅっと握る。
連勝の朝。
空は明るい。
けれど、五人の音のどこかに、まだ小さな綻びが残っていた。
※ ※ ※
昼休み。
五人は南プール脇の特設テントに集まっていた。
水律祭の競技説明会である。
プールサイドには仮設のスピーカーが並び、水面には音符の形をした浮島ボードがいくつも浮かんでいる。風が吹くたび、ボードはゆらゆらと揺れ、そこに反射した光が白い壁へ跳ねた。
「今年の目玉競技は、浮島シンクロです」
担当教師が、楽しげに説明する。
「水面に浮かぶ島型ボードの上で、複数人が演奏しながらバランスを保つ競技です。落水したら失格。最後まで演奏を続けたチームに高得点が入ります」
「面白そうじゃん」
天音が目を輝かせた。
「足場が揺れる中で演奏、か。ドラムは厳しそうだけど、燃える」
「バランス感覚と演奏の両立。どちらか一方に集中すれば、もう一方が崩れる」
理央はすでに分析に入っていた。
「浮島の広さは?」
「三人用を想定しています。ただし、最大五人までなら申請可能です」
その言葉を聞いた瞬間、詠が身を乗り出した。
「五人でやろうよ!」
声が明るく弾む。
昨日までの引っかかりを吹き飛ばすような勢いだった。
「せっかく五人いるんだし、五人で出た方が絶対楽しいって」
琴羽は「わあ」と両手を合わせた。
「五人で浮島……ちょっとぎゅうぎゅうだけど、楽しそう」
だが、澪はすぐに口を開いた。
「……私は水泳が得意じゃない」
「泳がないよ、落ちなければいいだけ」
「落ちないとは限らない」
「落ちないようにすればいい話じゃん」
詠の返しは軽かった。
けれど、その軽さに澪の表情が少しだけ硬くなる。
理央が静かに割って入った。
「詠。澪の懸念は合理的よ」
「理央まで」
「浮島の面積は制限されている。五人全員が乗れば、動きの自由度が大幅に下がる。楽器を持つことまで考えれば、事故の確率も上がる」
「じゃあ理央はどうしたいの」
「三人でエントリーする。残り二人は水上ライブに集中する。役割を分担した方が、全体の完成度は上がる」
詠は唇を結んだ。
「でも、五人で出た方が楽しくない?」
「楽しさと結果は別の話です」
理央の声は冷静だった。
正しい。
きっと正しい。
だからこそ、詠の胸に小さな棘が刺さった。
「まあ、理央の言う通りかもな」
天音が頭をかきながら言った。
「天音まで」
「詠の気持ちもわかるけどさ。浮島から落ちて全員失格ってのは、ちょっともったいないだろ」
琴羽が困ったように、詠と澪を交互に見る。
「わたしは……五人でやりたい気持ちもあるけど、澪ちゃんが怖いなら無理はしない方がいいと思う」
「……怖いわけじゃない」
澪が小さく言う。
「ただ、危険があると言っているだけ」
「それ、怖いって言ってもいいんだよ」
詠はそう言いかけて、飲み込んだ。
今言ったら、また余計にこじれる気がした。
沈黙が落ちる。
プールの水音だけが、五人の間を行き来した。
詠は浮島を見た。
五人で乗ったら、きっと狭い。
誰かが足を滑らせれば、全員が巻き込まれる。
理央も澪も、間違ったことは言っていない。
それなのに。
「……わかった」
詠は、ようやく言った。
「三人で出よう。水上ライブは、五人全員で」
「詠ちゃん……」
琴羽が心配そうに呼ぶ。
詠は笑った。
少しだけ、いつもより作った笑顔だった。
「大丈夫。ライブで五人なら、それでいいし」
誰も責めていない。
誰も間違っていない。
なのに、五人の間にほんの少しだけ、音の届かない隙間ができた。
そのことに、一番早く気づいたのは琴羽だった。
彼女は何も言わず、水面に映る五人の影を見つめていた。
揺れる水の上で、五つの影はひとつに重なりそうで、少しずつ離れていた。
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