第二十六音 ディストノーム撃破、次なる影
五色の光が、一点に収束する。
反転律場は、まだ消えていない。
協和音は痛い。不協和音は甘い。世界の耳は、まだ逆さまのままだ。
それでも五人は、同じ方向を見ていた。
「みんな……最後の一音、合わせよう」
詠が言う。
澪がコードを押さえる。詠が息を吸う。天音がスティックを構える。理央が弦に指を添える。琴羽が鍵盤に手を置く。
言葉はいらなかった。
澪のギターが、最初の音を鳴らす。
耳に痛いCメジャー。
けれど、詠の歌が重なると、その痛みは前へ進む力に変わった。
天音のドラムが鼓動を与え、理央のベースが根を張り、琴羽の鍵盤が傷口を包む。五人の音は、美しく聞こえない世界の中で、それでも美しくあろうとした。
「《ファイブスケール・リゾナンス》——!」
五色の音が、反転律場の中心を貫いた。
歪んだ五線譜が砕ける。
協和音が、本来の響きを取り戻す。
空気が震え、痛みがほどけ、世界の耳がゆっくりと元に戻っていく。
ディストノームが後退した。
灰黒の装束に亀裂が走り、ノイズの粒子が散る。
「……律を、信じる、か」
崩れながら、その声だけは静かだった。
「私はずっと、律が壊れることを見てきた。信じた音が裏切ることを。届くはずの音が、届かないまま腐ることを」
「だから、根から壊そうとした」
澪は一歩近づく。
「あなたも、届かなかった人なんだ」
ディストノームの動きが止まる。
「音が、誰かに届かなかった。だから、意味がないと思った」
「……違う」
最後まで、言葉は続かなかった。
黒いノイズの粒子が、空間に溶ける。
今度こそ、完全に。
静寂が戻った。
※ ※ ※
戦闘が終わり、五人は中庭に立っていた。
水律祭の準備をしていた生徒たちは、いつの間にか元の作業へ戻っている。誰も戦いを覚えていない。けれど、飾り紐の鈴だけが、前より少し澄んだ音で鳴っていた。
澪はギターを下ろす。
「……ねえ、詠」
「なに?」
「さっき言ってた。私の音が好き、って」
「うん、言った」
「……なんで」
詠が少し考えて、笑った。
「わかんない。でも好きなもんは好きじゃん」
「……そっか」
澪は空を見上げる。
律に従うことと、律を信じることは違う。
従うのは、正しいから選ぶこと。
信じるのは、届けたいから選ぶこと。
澪は今日、初めて信じて弾いた。
耳が痛くても。
正しく聞こえなくても。
詠に、届けたかったから。
「……私、またギター弾いていい?」
「え、なんで許可取んの」
「なんとなく」
澪がギターを構えると、指が自然に動いた。
Cメジャー。
今度は、美しかった。
※ ※ ※
一方、ノイズ本部。
ディストノームが消滅したことを、黒い水面のようなモニター越しに確認している影があった。
長い黒髪。
膝に置かれた、九弦のギター。
カナミ=リクレイン。
「テンポも、調も、律も」
彼女は静かに呟く。
「全部、越えてきた」
その声には怒りがなかった。
むしろ、どこか遠い懐かしさが滲んでいる。
「でも、音はいつか途切れる」
カナミの指が、九弦の一本を弾いた。
音が、空間を歪ませる。
「届くと信じた音ほど、届かなかった時に深く壊れる」
モニターの中で、五人が笑っている。
カナミは、その笑顔を見つめたまま、かすかに目を細めた。
「その時、私が行く」
次の影が、静かに立ち上がった。
※ ※ ※
帰り道、五人はいつもよりゆっくり歩いた。
誰も大きな声で勝利を喜ばなかった。ディストノームを退けたことは確かだ。それでも、戦いの最後に残った音は、明るい終止符ではなかった。
澪は自分の指先を見つめている。
一度崩された音は、戻ればそれで終わりではない。戻した後に、何を信じて弾くのかを選ばなければならない。
詠は隣を歩く澪に、何かを言おうとしてやめた。
慰めでは足りない。
励ましだけでも足りない。
ただ、隣にいること。次に音が揺れたとき、ひとりにしないこと。
今の詠にできるのは、それくらいだった。
遠くで、まだ知らない弦の音がした気がした。
振り返っても、そこには夕暮れの坂道しかない。
けれどミヨリだけが、詠の肩の上で小さく耳を伏せていた。
※ ※ ※
その夜、澪はひとりで弦を張り替えた。
切れたわけではない。壊れたわけでもない。それでも、今日の戦いを終えた指先には、前と同じ音をそのまま鳴らすことが少しだけ怖かった。
詠から短い連絡が届く。
『明日、少しだけ合わせよう。無理はしないで』
澪は画面を見つめ、返事を打つまでに時間をかけた。
無理をしないことと、逃げることは違う。
ひとりで完璧に鳴ることと、誰かと不完全に鳴ることも違う。
今日、澪はその違いを痛いほど知った。
『行く』
短い返事を送る。
窓の外では、夜風が静かに鳴っていた。
その音の向こうに、まだ見ぬ黒い弦の気配が混じっていることに、澪はまだ気づいていなかった。
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