第二十四音 問いの残響と絶対音感の崩壊
翌朝。
神響女学院、音楽準備室。
窓から差し込む初夏の光が、埃をまとった楽器棚を照らしている。
紫月澪は一人、ギターを膝に置いたまま動いていなかった。
弦を爪弾く。
Cメジャー。
正しい音が、正しく鳴る。
「……」
なのに、昨日からずっと、何かが引っかかっている。
律に従うことと、律を信じることは同じではない。
ディストノームの声が、耳の奥に張り付いていた。
澪はずっと、音を耳で掴むことが自分の強さだと思ってきた。絶対音感。スケールの把握。コードの逆算。どんな転調にも、耳で追いつける。
オルタレーター戦も、そうやって乗り越えた。
変わった調に合わせる。
ずれた場所で鳴らす。
それは難しかったけれど、まだ「耳でわかる」範囲の出来事だった。
でも、信じる、は耳で掴めない。
澪はもう一度、弦を鳴らした。
音は、正しかった。
心は、応えなかった。
「おはよ、澪」
ドアが開いて、詠が顔を出す。手にはパンの袋。朝ごはんをここで食べるつもりらしい。
「……おはよう」
「なんか、ぼーっとしてる。ゆうべ寝れなかった?」
「少し」
詠が隣に腰を下ろす。パンを一口かじりながら、澪のギターをちらりと見た。
「昨日のこと、まだ考えてる?」
澪は答えない。
それが答えだった。
「私も、ちょっと考えてた」
詠が膝を抱える。
「信じるって言われてもさ、なんか、ふわっとしてるじゃない。律を信じるって、具体的に何をすればいいの、って」
「……わからない」
澪が静かに言う。
「私はずっと、耳を信じてきた。音を聴いて、分析して、正しい音を選ぶ。それが私の弾き方だった」
指先が、弦の上で止まる。
「でも昨日、あいつに言われた瞬間、急に」
澪は言葉を探す。
「自分が信じて弾いていたのか、それとも正しいから弾いていただけなのか、わからなくなった」
詠が、小さく息を吐く。
「……それ、怖いね」
「ああ」
ふたりの間に、静かな朝の空気が流れる。
やがて詠が、いつもの調子より少しだけ柔らかい声で言った。
「でもさ、澪の音を聴いて助かった人、いるよ」
「……誰」
「私」
澪が詠を見る。
詠は照れ隠しみたいにパンの袋を丸めた。
「正しいかどうかは、私にはよくわかんない。でも、澪の音があると、私は歌いやすい。ひとりじゃないって思える」
澪は何も言えなかった。
その言葉は、答えではない。
でも、問いから目をそらさないための小さな灯りにはなった。
その時、遠くで鈴が鳴った。
一度だけ。
そして、音が消えた。
※ ※ ※
※ ※ ※
昼過ぎ。
水律祭の準備が始まった中庭に、再び空間の歪みが走った。
昨日より静かな異変だった。
悲鳴もない。大きな裂け目もない。ただ、飾り紐に結ばれた鈴が、一つずつ鳴らなくなっていく。風は吹いているのに、音だけが抜き取られている。
澪は最初に気づいた。
「……来る」
「澪?」
詠が振り向く。
澪の顔は青白かった。昨日から眠れていないのだと、詠にはすぐわかった。
空が薄く裂ける。
灰白の影が、音もなく降りてきた。
ディストノーム。
その足が地面に触れた瞬間、中庭の音がすべて半歩後ろへ下がったように感じた。
「約束通りだ」
ディストノームの声は昨日と変わらず冷えている。
「今日は、根を壊しに来た」
「そんな約束、してない」
詠がギターを構える。
ディストノームは詠を見ず、澪だけを見ていた。
「君は考えただろう。正しい音とは何か。届く音とは何か。自分の耳が信用できなくなった時、自分に何が残るのか」
澪は答えない。
答えない代わりに、《音幻》を構えた。
「いい表情だ」
ディストノームが右手を持ち上げる。
空間に五線譜が展開された。だが昨日と何かが違う。音符の位置が、微妙にズレているだけではない。五線そのものが、裏返しに編まれている。
「何をするつもり」
詠が問う。
「簡単なことだ」
ディストノームが弦のない空気を弾くような動作をした。
音は鳴らなかった。
しかし、世界が変わった。
澪の顔色が、はっきりと変わる。
Cメジャー。
美しいはずの和音が、不快に響いた。
耳の奥で、何かが軋む。
※ ※ ※
※ ※ ※
《歪律波動・反転律場》が展開される。
それは音を消す攻撃ではなかった。
音を、逆にする攻撃だった。
協和音が不快になる。不協和音が心地よくなる。解決するはずの進行が胸を刺し、ぶつかるはずの音が妙に落ち着いて聞こえる。
「……なに、これ」
澪の声がかすれた。
ドミソが、痛い。
トライトーンが、落ち着く。
耳が信用できない。
いや、違う。
耳は正確に聞いている。
正確に、間違った世界を受け取っている。
澪のギターが震える。今まで積み上げてきた音感の全てが、逆さまになる感覚。正しいと思って押さえたコードが、自分の耳に刃として返ってくる。
「澪、下がって!」
詠が叫ぶ。
澪は答えようとした。
けれど、指が動かない。
弾かなければならない。
わかっている。
でも、正しいコードを押さえるほど、耳の奥が焼けるように痛む。
「……弾けない」
初めて、そう思った。
その瞬間、膝から力が抜けた。
「澪!?」
詠が駆け寄ろうとする。だが、黒い五線譜が二人の間を遮った。
ディストノームの声が、静かに降ってくる。
「どうした。耳で全てを掴むのではなかったか」
「……うるさい」
澪の声は震えていた。
「君の耳は正確だ。だから余計に、今は辛いだろう。正確に聴けば聴くほど、正確に不快が返ってくる」
ディストノームは手を下ろさない。
反転律場がさらに濃くなる。
詠のギターも、琴羽の鍵盤も、理央のベースも、天音の太鼓も、全部が少しずつ不穏な響きへ塗り替えられていく。
「君の耳は、私の律場を正確に認識している。つまり、君の耳は今この瞬間、協和音は不快という律に従っている」
澪は唇を噛んだ。
血の味がした。
「さあ、教えてくれ」
ディストノームの声は淡々としていた。
「律に従う君には、何が正しい音に聴こえる?」
澪は答えられなかった。
※ ※ ※
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