第二十三音 ノイズ再臨、ディストノーム登場
異変は、音から始まった。
昼休みの学院中庭。詠はアコースティックギターを膝に乗せ、軽く弦を爪弾いていた。水律祭の準備で、周囲には飾り紐や簡易ステージの資材が並んでいる。
鳴らしたのは、ただの確認のコードだった。
けれど。
「……?」
詠は眉をひそめる。
和音のはずなのに、音の芯がほんの少しだけねじれて聞こえた。オルタレーターの時のような転調ではない。高さは合っている。なのに、重なった瞬間に、音同士が互いを押し潰す。
「音が……濁ってる?」
琴羽も顔を上げた。
「空の響きが変だよ。晴れてるのに、耳の奥だけ曇ってるみたい」
澪は無言で自分のギターを鳴らした。
その瞬間、表情が変わる。
「調は合ってる。テンポもずれていない」
「じゃあ、何が変なんだ?」
天音がスティックを取り出す。
理央が低く答えた。
「律そのものが歪んでいる」
空が波打った。
上空に、黒い裂け目が開く。そこからこぼれ落ちたノイズは、以前のように暴れるだけではなかった。粒子が規則的に並び、五線譜のような形を作ってから、すぐに崩れる。
並び、崩れ、また並び直す。
まるで、世界のルールを書き換える練習をしているみたいだった。
「ノイズ、再出現……!」
理央が呟いた瞬間、五人の祝具が反応する。
「準備は、まだ整ってないよね……?」
澪が言う。
詠は一歩前に出た。
「整ってなくても、放っておけない」
「五人で、だよっ」
琴羽の声に、全員が頷いた。
ノイズの群れをかきわけ、空間のひずみが一点に収束する。
そこから、ゆらりと現れたのは、灰白と藍をまとった男の姿だった。服の輪郭は礼服のように整っているのに、影だけが水面のように歪んでいる。胸元には、折れた五線譜を円形に束ねた紋章。
「……律というものに、こだわるのか」
冷えた音色の声が、地を這うように響く。
「君たちはまだ、律が正しさだと信じているらしい」
澪の指が、ギターの弦の上で止まった。
「誰……?」
男はゆっくりと名乗る。
「戦律監。不協律を司る者」
「テンポスナッパー、オルタレーター……で、今度は律そのものかよ」
天音が低く呟く。
ディストノームは天音を見ない。
視線は、まっすぐ澪へ向いていた。
「君は耳がいい」
澪の肩がわずかに揺れる。
「正しい音を聞き分け、間違いを憎む。ならば、いずれ知るだろう。正しさほど、人を傷つけるものはない」
「……勝手に決めないで」
澪の声は低かった。
ディストノームは淡く目を伏せる。
「音に揺らぎはつきものだ。乱れ、崩れ、壊れることで新たな音が生まれる。なのに君たちは、調律の名で乱れを祓う」
「違う」
詠が言った。
「私たちは、誰かの音を消したいわけじゃない」
琴羽が続ける。
「痛い音を、痛いままで終わらせたくないだけ」
理央がベースを構える。
「律は縛るためのものではない。繋ぐための構造よ」
ディストノームの瞳が、かすかに揺らめく。
「では、繋がりが壊れた時、君たちは何を信じる?」
その問いと同時に、地面に黒い五線譜が広がった。
音符の形をしたノイズが、一斉に牙をむく。
「来る!」
詠の背に、仲間たちの気配が並ぶ。
五人の祝具が、共鳴を始めた。
※ ※ ※
※ ※ ※
「いくよ、みんな……!」
詠の声と共に、五人は一歩前へ出た。
「響け、私たちの祝音」
澪が続ける。
「途切れた律を、もう一度つなぐために」
五色の律紋が足元に咲く。
「五色ノ契、奏装!」
桜と赤茶の光が詠を包む。祝具《櫻音》が起動し、ギターの弦が明るく震えた。
「この声が、みんなに届くように——祝え、《櫻音》!」
深藍の軌道が澪の周囲を巡る。《音幻》が腕に収まり、静かな祝装が水底のような光を帯びる。
「……律が揺らぐなら、私が聴く」
桃色と淡緑の風が琴羽を包み、花桜鍵と春鈴が柔らかく輝く。
「やさしい音で、歪みをほどくんだ」
轟雷と金の火花が天音を包み込む。《雷陣》が背後に展開され、打面が熱を帯びた。
「律を壊すなら、鼓動で叩き返す」
紫の律紋が理央の足元に広がり、《幽紫》が低く唸る。
「音の基盤は、わたしが支える」
五人が一列に並ぶ。
祝音少女《五色ノ契》、展開。
黒い音符のノイズが一斉に襲いかかった。
詠がコードをかき鳴らし、桜色の斬撃で先頭を払う。天音が踏み込み、雷の連打で群れを押し返す。琴羽は春鈴の音を散らし、負傷した音場を包み込む。理央の低音が足元に根を打ち、澪の深藍の旋律が敵の軌道を読み切る。
最初は、押せていた。
「この程度なら……!」
天音が叫んだ瞬間、ディストノームが右手を上げた。
「律は、合わせれば強くなる。だが、同じ強さで壊れる」
《歪律波動:レゾナンス・ディバイダー》。
空間に見えない亀裂が走った。
詠の斬撃が二つに割れ、澪の旋律とぶつかる。天音の雷が琴羽の春風を吹き散らし、理央の低音が逆に全員の足を重くする。
「っ、私たちの音が……!」
「ぶつけられてる!」
ディストノームは表情を変えない。
「君たちは繋がっている。だからこそ、互いを傷つけられる」
黒い五線譜が舞台のように中庭を覆う。ノイズの群れは、五人の音が衝突した隙間へ潜り込んでくる。
澪が歯を食いしばった。
「音の軌道を、ずらす」
彼女のスライドが鋭く走り、詠の斬撃と天音の雷の衝突点をわずかに逸らす。琴羽がその隙間に和音を差し込み、理央が低音で軸を作った。
「今!」
詠が叫ぶ。
五人の演奏が、もう一度重なる。
ディストノームの不協律が、音に包まれ、反響として返された。
だが。
「甘い」
ディストノームは一歩も退いていなかった。
返された反響を、彼は掌で受け止める。
「今のは、表面を撫でただけだ」
黒い粒子が、その身体の周りに集まる。
「次は、根を壊す」
五人の音が一瞬だけ止まった。
澪の耳の奥で、何かが小さく軋む。
※ ※ ※
※ ※ ※
ディストノームの周囲に、黒い粒子が渦を巻く。
詠は追撃しようと一歩踏み出した。けれど、足元の五線譜がまだ歪んでいて、踏み込んだ拍が半分だけ沈む。
「待って、詠」
澪が止めた。
声は落ち着いていたが、顔色は悪い。
「今、追うのは危ない」
「でも……!」
ディストノームは五人を見渡した。
「君たちは強い。テンポを繋ぎ、調を受け入れ、律を重ねることもできる」
褒めているようで、まるで冷たい診断だった。
「だが、まだ自分たちの音を疑っていない」
その視線が、澪に止まる。
「特に君だ。紫月澪」
澪の指が、わずかに震えた。
「正しく聴けることを、自分の芯だと思っている。その芯が反転した時、君は何を選ぶ?」
「……何を」
問い返す前に、ディストノームの身体が黒いノイズの粒子へほどけ始める。
「明日、答えを聞こう」
「逃げるのか!」
天音が叫ぶ。
「準備だ」
ディストノームは静かに言った。
「律は、一度で壊すものではない。疑いを残し、眠らせ、翌日に折る」
黒い粒子が空へ吸い込まれていく。
「次は、根を壊す」
その言葉だけが、中庭に残った。
五人は、それぞれのポジションで演奏を終え、呼吸を整える。
「……まだ、終わりじゃないよね」
詠が呟く。
「うん」
澪が答えた。
けれど、その声はいつもより遠かった。
琴羽がそっと近づく。
「澪ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫」
即答だった。
だからこそ、詠は不安になった。
理央が歪んだ五線譜の跡を見下ろす。
「今日の目的は撃破ではなく観測。こちらの癖を読まれた可能性が高い」
天音が舌打ちする。
「感じ悪い敵だな」
ミヨリは澪を見つめたまま、珍しく黙っていた。
静けさが戻る。
その静けさが、次の歪みの予兆となるとは、まだ誰も知らない。
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