第二十二音 歪みの律始動、水律祭の告知
ノイズ本部の奥には、音のしない廊下がある。
そこを、戦律監が静かに歩いていた。
灰白と藍をまとった輪郭。感情を映さない目。その周囲には、まるで五線譜を切り裂くような歪みの残響が漂っている。
一歩進むたび、床に刻まれた黒い譜面が軋む。
それは音ではなかった。
音になる前の規則。
世界が「これは響きである」と認める前の、もっと根深い線。
「音楽とは秩序だ」
ディストノームは呟いた。
「ならば、歪ませるべきはその根。律そのもの」
彼の指が空中の見えない弦を弾く。
遠く離れた神響女学院で、まだ誰も気づかぬまま、わずかな違和が広がり始めた。
廊下の鈴が、鳴る前に黙る。
窓辺の風鈴が、風に揺れているのに音を失う。
楽譜の上の休符が、ほんの少しだけ濃くなる。
ディストノームは歩みを止めず、闇の奥へ消えていった。
※ ※ ※
初夏、六月下旬。
まぶしい陽光が、教室のガラス越しに射し込んでくる。
神響女学院では、夏制服への完全移行が行われていた。
花咲詠は、水色地にチェリーレッドのセーラーラインが映える軽やかなトップスに、桜ピンクのプリーツスカートという装い。くるぶし丈の白ソックスが、歩くたびに軽いリズムを刻む。
紫月澪は、淡い桃色のセーラートップに翡翠がかったスカートを揺らし、廊下を静かに歩いていた。強い陽光に藍の瞳を少し細めながら、いつものようにイヤホンのない耳で校舎の音を聞いている。
千歳琴羽は、うっすらと花の刺繍が入った薄緑のリブトップに、風に舞うような撫子スカート。髪には小さなクリップを付け、日差しの中でもふんわりと笑顔を浮かべていた。
高等部の火ノ宮天音は、白シャツに紺のチェック柄スカート、胸元には燃えるような赤茶のネクタイ。その後ろを追う式部理央は、落ち着いた黒髪と威厳ある佇まいで、同じ制服でもどこか違う品格をまとっている。
「みんな……夏になったねぇ」
琴羽がふわりとつぶやいた。
「暑いだけじゃん」
天音が言う。
「そこに季節情緒を感じ取れないのは損失よ」
理央が涼しい顔で返す。
詠は笑いながら、窓の外を見た。
青い空。
白い雲。
いつも通りの学院。
けれどそのどこかで、まだ小さな歪みが、音もなく芽吹いていた。
※ ※ ※
※ ※ ※
「これ、見て見てっ!」
詠の声が、廊下に響いた。
手に持っていたのは、掲示板に貼り出された告知ポスターだった。
『神響女学院・全学部合同イベント 水律祭 開催決定!』
青と白を基調にしたポスターには、水面に浮かぶ特設ステージと、音符の形をした浮島が描かれている。
種目は水上ライブ、混合スイムリレー、浮島シンクロ競技。対象は初等部、中等部、高等部すべての希望者。場所は南プールと特設サウンドステージ。
「水上ライブってなにそれ……そんなのあるの……?」
琴羽が目をぱちくりさせる。
詠はすっかり目を輝かせていた。
「いいじゃん! 出ようよっ! リレーとか、ライブとか、めっちゃ楽しそうじゃない?」
「私は……応援するわ」
澪が小さく呟き、顔を背ける。
「え、澪、泳げないの?」
「泳げる。水中で楽器を持ちたくないだけ」
「そこ?」
天音がポスターを覗き込む。
「水上でドラムってどうすんだ。沈むぞ」
「沈まない設計にするに決まっているでしょう」
理央は文面をじっと見つめていた。
「水上で演奏する、という文言があるわね。水面の揺れ、反射音、湿度。音場の条件がかなり変わる」
「むずかしい話になってきた」
詠が笑う。
その足元で、ミヨリがポンと飛び出してきて、くるりと回転した。
「これはなかなか面白い展開ぞい! 水と音、波と律。まさに律流交錯ってやつじゃな!」
「ミヨリ、それ今考えたでしょ」
「名付けとは勢いじゃ」
五人の笑い声が、廊下に広がる。
その瞬間。
掲示板のポスターが、ほんの少しだけ波打った。
水面の絵が揺れたのではない。
紙に描かれたはずの音符が、一瞬だけ位置をずらしたのだ。
澪が振り向く。
「……今」
「どうしたの?」
琴羽が首を傾げる。
澪はポスターを見つめた。
もう何も起きていない。音符は元の場所にあり、廊下には昼休みの明るいざわめきが戻っている。
「いや」
澪は小さく首を振った。
「気のせいかもしれない」
けれど、耳の奥に、ほんの一瞬だけ不協和音が残った。
それが、始まりだった。
※ ※ ※
※ ※ ※
水律祭という言葉は、本来なら楽しい響きを持っているはずだった。
水面に浮かぶステージ。光を返す音響装置。学院中が少しだけ浮き立つ、特別な行事。
けれど、詠たちはもう知っている。
人が集まる場所には、音が集まる。期待も、不安も、競争心も、言葉にならない寂しさも、全部が音になって溜まっていく。
そこに虚音が触れれば、祭は一瞬で戦場になる。
「楽しみにしたいのに、警戒もしなきゃいけないんだね」
詠の呟きに、澪が静かに頷いた。
「どちらも必要」
楽しむことと、守ること。
その二つを同時に抱えるのが、今の五人の役目だった。
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