第十九音 舞台袖と崩れる音、ミヨリの音楽講座
音楽祭本番のステージ袖は、いつもの音楽室よりもずっと狭く感じた。
客席のざわめき。照明の熱。舞台監督の小さな合図。アンプの待機音。誰かが袖の向こうで笑う声。
その全部が、詠の胸を押し上げてくる。
「……詠、変な顔になってるぞ」
天音がスティックで肩を軽く叩いた。
「へ、変な顔ってなによ」
「口角が上がってるのに、目だけ逃げ場を探してる」
「細かい観察やめて」
琴羽がくすっと笑う。澪はギターのチューニングを確かめ、理央はベースの弦を一本ずつ静かに鳴らしていた。
「……あの時の音を、忘れなければいい」
澪が言った。
あの時。
テンポスナッパーとの戦いで、五人は初めて、自分たちの音を自分たちのものとして鳴らした。速さを奪われても、拍を乱されても、それでも繋ぎ直した。
「みんなで、奏でようね。今日も、きっと大丈夫」
琴羽が微笑む。
理央は前を向いたまま、短く息を吐いた。
「支配すべきは他者ではなく、自らの律。舞台でも戦場でも、それは同じよ」
「理央、それ普通の開演前に言う台詞じゃないと思う」
「事実だから問題ない」
詠は思わず笑った。
怖さが、少しだけほどける。
「……さあ、行こう」
そのときだった。
風が止んだ。
いや、風だけではない。
客席のざわめきが、音量を下げられたみたいに遠ざかる。照明のうなる音が伸び、アンプの待機音が半音だけ沈む。
澪が眉を寄せた。
「……このコード、ズレてる」
彼女が鳴らしたのは、いつも通りのはずだった。
けれど、詠の耳にも違和感が刺さる。正しい場所に置いたはずの音が、ほんの少しだけ別の場所に浮いている。天音が試しにリムを叩くと、その音もまた、空間に引っ張られるように歪んだ。
「テンポじゃない」
理央が低く言う。
「高さが、空間ごと変えられてる」
床に落ちた五線譜の影が、ゆっくりと斜めに傾いた。
舞台の中央に、黒い裂け目が走る。
「さあ」
穏やかな声が聞こえた。
「調和の世界に、変律を刻もうか」
裂け目の向こうから、男が現れる。
黒いロングコート。白い手袋。胸元には、複数の調号が重なって潰れたような紋章。指先には、鍵盤にも指揮棒にも見える細い装具が光っている。
戦律監。
空間を書き換えるような冷たい目をした男は、舞台の上に立ちながら、まるで客席へ挨拶する指揮者のように一礼した。
「テンポを戻した程度で、自分たちの音を得たつもりか。かわいらしい誤解だ」
「あなたが、次の敵……」
詠がギターを握りしめる。
「敵、か。そう呼んでも構わない」
オルタレーターは指を鳴らした。
その瞬間、舞台全体のキーが変わる。
詠の喉がひゅっと狭くなった。出そうとした声が、思った高さに届かない。澪の指は正しい場所を押さえているのに、鳴ったコードは違って聞こえる。
客席がざわついた。
「今の、音外してない?」
「トラブル?」
「リハと違う……?」
言葉が針のように飛んでくる。
琴羽の鍵盤は深いリバーブに沈み、和音が一つ、また一つとほどけていく。天音のドラムは打点の強さを保っているのに、響きだけが空間の別の場所へ逃げる。理央の低音も、根を張る前に半音ずらされてしまう。
——歌えない。
詠は唇を噛んだ。
怖い。
テンポスナッパーの時とは違う。あの時は、走ったり遅れたりしても、音の場所はわかっていた。
今は、その場所そのものが書き換えられている。
「キーが変われば、音はすべて狂う」
オルタレーターが静かに言った。
「君たちの調和など、脆い幻想だよ」
五人の視線が交錯する。
調和の崩壊は、まるで心の崩壊を象徴していた。
「……やだよ」
詠が小さく呟く。
「ここで、終わりたくない」
そのとき、風を切って小さな影が飛び込んできた。
※ ※ ※
※ ※ ※
「まったく、おぬしたち、音がズレとるぞい!」
ステージ脇から軽やかに滑空してきたのは、ミヨリだった。
しっぽから流れる音階の光が、舞台に柔らかな残響を残す。小さな身体に似合わぬ存在感で、ふわりと詠の肩の近くに舞い降りた。
「ミヨリ……!?」
「驚いとる場合か。今の敵は、拍ではなく調をずらしておる」
「調……キーのこと?」
琴羽が鍵盤を押さえたまま聞き返す。
「うむ。歌いやすい高さ、弾きやすい位置、和音の色。その土台をまとめて横へ滑らされておるんじゃ」
オルタレーターが目を細めた。
「説明役が来たか。けれど、理解したところで対応できるとは限らない」
「ほほう、言うではないか」
ミヨリは詠のギターへ飛び移ると、小さな金具を取り出した。
「こういう時は、まず調を見直すんじゃ。いいか、カポの出番じゃ!」
ミヨリは自信満々に、詠のギターに小さなカポを取り付ける。
「なにそれ、ちっちゃい金具? ……こんなもので、音が戻るの?」
「カポタストというんじゃ。フレットに取り付けて、押さえる位置を変えずに音の高さを動かす。敵が空間のキーを上げるなら、こちらも楽器の基準を変える」
詠はおそるおそるコードを鳴らした。
さっきまで宙に浮いていた音が、少しだけ足場を取り戻す。
「……ほんとだ。合った」
「完全ではないがの。応急処置じゃ」
澪が目を閉じたまま呟く。
「コード進行は変えない。けれど、鳴る高さを変える……つまり、敵の転調に対して、こちらも移調する」
「そうじゃ。澪は耳で追える。理央は理で組める。琴羽よ、おぬしの花桜鍵はシンセじゃろ?」
「うん。トランスポーズならできる」
「なら、転調しても鍵盤の配置ごと追従できる。天音は拍を捨てるな。調が動いても、鼓動は動かすでない」
「任せろ。あたしは叩く」
理央が眉を寄せた。
「でも、敵が何度も調を変えたら?」
「そこから先は、技術だけでは足りん」
ミヨリの声が、少しだけ低くなる。
「音を合わせるんじゃない。変わった音の中で、おぬしたち自身の居場所を見つけるんじゃ」
オルタレーターが指を鳴らした。
舞台のキーが、さらに変わる。
詠のカポで戻った音が、また逃げた。琴羽のトランスポーズも、次の瞬間にはずらされる。
「ほらね。講義は終わりだ」
オルタレーターの足元に、黒い五線譜が広がった。
そこから生まれた音符の刃が、五人へ向かって飛ぶ。
「奏装!」
詠が叫ぶ。
五色の光が舞台袖を満たし、五人の祝装が展開された。
けれど、オルタレーターの変律フィールドは、変身後の音さえ斜めに歪ませてくる。
「来るぞ!」
天音が前へ出る。
舞台袖で始まった本当の戦いは、ここからだった。
※ ※ ※
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




