第十五音 拍を揃える魔法と黒い会議室
「わたしが、基準を示す」
澪が一歩、前へ出た。
昨日の屋上で、一人で確かめたこと。
軸になれば、みんながそこに合わせてくれる。
そう信じて、澪はギターを鳴らした。
一音。
揺れない。
テンポスナッパーの拍子木が響いても、その一拍だけは動かなかった。
もう一音。
等間隔に。
「この音を基準にして」
低い声で言った。それだけで十分だった。
理央が先に反応した。
ベースが澪の音を拾う。根音が揃い、空間の底が安定し始める。
天音が撥を握り直した。
余計な力を抜いて、ただ澪の拍に鼓動を重ねる。
ドンッ、ドンッ。シンプルに、正確に。
琴羽が鍵盤に指を乗せた。
不安げだった和音が、今度はちゃんと四人の音の上に乗った。
四人の音が、少しずつ、揃い始めた。
テンポスナッパーが拍子木を連打する。
空間が揺れる。でも今度は、五人の演奏の核が揺れなかった。
澪は前を見たまま言った。
「詠、歌って」
「え……わたし、まだ――」
「今なら、届く」
一瞬の間があった。
「君の音が、必要なんだ」
詠は息を吸った。
澪がそう言うのを、詠は初めて聞いた気がした。
「必要」という言葉を、澪がこんなにまっすぐ言うのを。
「……うん、歌うよ」
詠の足元に光が走った。
祝具《櫻音》が展開され、桜色のエフェクトが広がる。
声が出た。
まだうまく 重ならない
わたしたちの音は バラバラで
間違えて 傷ついて
それでも、止まりたくない
本当は怖くて 叫びたいのに
「大丈夫」って笑うクセがついた
でも――聞こえたんだ
あの子たちの音が
テンポスナッパーが形を変えようとした。
でも四人の音が揃っていた。揺れない軸があった。
詠の声が、その上に乗った。
not alone, not yet
ひとりじゃ届かない旋律も
信じるだけで 少しだけ近づける
もう一度 声を重ねてみるよ
まだ未完成なこのバンドで
未来を――鳴らしたいんだ!
サビで五人の音が重なった瞬間、テンポスナッパーが弾かれるように揺れた。
ノイズが最後の抵抗を見せる。拍子木が激しく鳴る。
でも五人の演奏は崩れなかった。
澪の軸が、ずっとそこにあった。
黒い霧が薄れ、ちぎれ、消えていく。
最後の残響が音楽室に広がり、静寂が戻ってきた。
しばらく、誰も喋らなかった。
「……今の、ズレてなかったよね?」
詠がそっと口にした。
「不完全だけど、同じ方向を向けた」
理央が答えた。珍しく、その声に少しだけ温度があった。
「……うん」天音がぽつりと言った。「今日は、ちゃんと聴けた気がした」
「わたしも……みんなの音、ちゃんと聞こえてた」
琴羽が微笑んだ。
澪はギターを下ろして、静かに言った。
「……何度でも、合わせていこう」
その目が、やさしく光っていた。
詠は思った。昨日の澪と、今日の澪は、何かが変わった気がする。
何が変わったのかはうまく言えない。でも確かに、音が変わった。
「音楽祭、絶対出ようね」
誰かが言った。詠だったかもしれないし、琴羽だったかもしれない。
「……当然でしょ」
理央が、ほんのわずかだけ口元を緩めた。
彼女たちの音は、まだ未完成だった。
でも今日初めて、「一緒に未完成だ」と思えた気がした。
それだけで、少しだけ、音楽祭が楽しみになった。
※ ※ ※
※ ※ ※
黒いノイズの漂う、異様な静寂。
そこは部屋というより、音を失った空間だった。
壁も床もあるように見える。だが、どこを見ても輪郭が曖昧で、机に置かれた黒い譜面だけが妙にはっきりしている。
会議机の奥に、ひとりの少女が座っていた。
長い黒髪。
感情を読ませない瞳。
指先は机を叩いているのに、音は鳴らない。ただ、無音の律動だけが空間に波紋を作っていた。
「ふぅん。テンポが狂っていたのに、戻した」
報告を聞き終えて、少女は小さく息を吐いた。
「五人になったばかりで、もう拍を繋いだのね」
壁際に控えていた小型ノイズたちが、ざわりと揺れる。
少女はそれを見ない。
視線は、黒い譜面に映る五人の残響へ向けられていた。詠の歌。澪の軸。琴羽の和音。天音の拍。理央の根音。
五つの音が、不完全なまま重なっている。
「まだ弱い。でも、弱いまま繋がる音は厄介」
少女の指が止まった。
その瞬間、空間全体の静寂が一段深くなる。
「なら、次は試験ではなく観測にする」
闇の奥から、拍子木の音が一つ鳴った。
かん。
軽い音。
けれど、そこにいる小型ノイズたちが一斉に身をすくませるほど、鋭い一拍だった。
黒い燕尾服のような輪郭を持つ影が、ゆっくりと前へ出る。
《テンポスナッパー・Allegro》。
拍を奪う雑音体たちを束ねる、戦律監級の上位ノイズ。
「呼んだかな」
Allegroは軽薄に笑う。
少女は表情を変えなかった。
「あの子たちが本当に繋がったのか、測りなさい」
「壊しても?」
「壊れるなら、その程度」
少女は黒い譜面を閉じる。
「壊れないなら、次の段階へ進める」
Allegroは肩をすくめ、拍子木を指で回した。
「了解。じゃあ、少しだけ速くしてあげよう」
少女はもう答えなかった。
ただ、モニターの中の五人を見つめている。
その瞳の奥には、怒りとも懐かしさともつかない、凍った音が沈んでいた。
静かな声が、黒い空間に染み込む。
「響けるものなら、響いてみせて」
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