第十四音 空白の五線譜と沈黙の旋律
澪は屋上で、一人ギターを抱えていた。
空は晴れていた。
でも、心は曇っていた。
音が揃わない。
昨日の戦闘のことを、澪はまだ引きずっていた。テンポスナッパーを撃退はした。でも「勝った」という感覚がなかった。ぎりぎりで、危うくて、もう一度来られたら同じようにはいかないと、体が知っていた。
(わたしが軸になればいい、と思っていた)
でも、それだけじゃ足りないのかもしれない。
五人が同じ方向を向いていなければ、軸があっても意味がない。
澪はギターを静かに鳴らした。
低い一音が、夕暮れの空に溶けていく。
思い出すのは、昔の屋敷のことだった。
広い応接間の隅に、誰も触れてはいけないクラシックギターが一本、飾られていた。父のものだった。音楽は嗜みだが職業ではない、と父は言っていた。だから澪もギターを弾いてはいけなかった。
でも、夜中にこっそり触れた。
その音が好きだった。誰にも聞かせない、自分だけの音。
父の会社が倒産して、屋敷も家具も全部なくなったとき、澪が唯一手放さなかったのがそのギターだった。持ち出すなと言われたけれど、持ち出した。後悔していない。
今は団地の薄い壁越しに生活音が響く部屋で、古いアンプにつないで弾いている。
音楽だけは、誰にも奪えない。
(でも、一人じゃ届かないものがある)
澪はそれを、昨日初めて本当の意味で理解した気がした。
※ ※ ※
翌朝、神響女学院の掲示板に、目立つポスターが貼られていた。
「――音楽祭・参加者募集 学部・学年不問」
手描きの五線譜と、大きく書かれた『響宴』のロゴ。
学園内の有志によるステージイベントで、上級生から初等部まで参加できる「合同演奏枠」も用意されている、と書いてある。
それを発見したミヨリが、しっぽをふわふわ揺らしながらポスターに顔を寄せた。
「詠よ! あれっての、五人で出るの、ありなのじゃ!」
突然の元気な一声に、詠は目をぱちくりさせた。
「……ミヨリ、それって――」
「響宴じゃと? ワシらの音、今こそみなの者に見せてくれるわ!」
「ワシらって……なんかテンション高くない?」
「高いに決まっておろう! ステージじゃぞ、ステージ! 大観衆の前で五色の音を轟かせる機会など、そうそうあるものではないわ!」
ミヨリがくるくると宙を回る。詠は苦笑しながらも、ポスターに目を向けた。
《五人編成歓迎》の文字が目に入る。
「……でも、今の状態で出られるかな」
昨日の演奏が頭をよぎる。ぎこちない音。噛み合わない息。
「詠」
隣から澪の声がした。
振り返ると、いつの間にか澪が来ていた。ポスターを見ている。その目が、何かを考えているように細くなっていた。
「出よう」
短く、それだけ言った。
「……澪が言うなら」
詠は笑った。
「よし。五人で、出てみよう」
※ ※ ※
※ ※ ※
放課後、五人が音楽室に集まった。
「音楽祭、出ることにした」
詠が言うと、反応はまちまちだった。
琴羽は「わあ」と小さく声を上げた。
理央は「いつ?」と聞いた。
天音は腕を組んで「わかった」と言った。
澪は何も言わなかった。
でも、反対でもなかった。
「じゃあ改めて、合わせてみよう」
詠の声が音楽室に響く。
でも誰も、すぐには動けなかった。
昨日の感触がまだ残っている。うまくいかなかった記憶が、体に染みついている。最初の一音を出すのが怖い、というほどではない。けれど、どこかに迷いがある。
澪だけが黙っていた。
その沈黙は、拒絶なのか。
それとも、何かを考えているのか。
詠には読めなかった。
「……もう一回、やってみよう?」
もう一度、言ってみた。
澪が小さく頷く。
それだけで、詠の胸が少し軽くなった。
最初の一音。
昨日よりは、合っていた。
澪が置いた静かな拍に、理央のベースが重なる。天音のドラムは少しだけ抑えめで、琴羽の鍵盤はその隙間を柔らかく満たす。
詠は歌い出そうとした。
その瞬間だった。
窓ガラスが、内側から曇る。
黒い霧が音楽室の窓から忍び込んできた。昨日と同じ気配。昨日と同じ拍子木の音。
けれど、濃度が違う。
昨日より黒い。
昨日より、こちらの迷いをよく知っている。
《テンポスナッパー》が再び現れた。
「またか……!」
天音が叫ぶ。
拍子木が鳴る。
その一打で、空間のテンポが揺れた。足元がぐらつくような感覚。五人がとっさに楽器を構える。
「昨日と同じなら、昨日と同じように返すだけよ」
理央がベースを鳴らす。
しかし、黒い霧は理央の低音の下へ潜り込み、根音を半拍ぶん遅らせた。
「違う。昨日より、反応が早い」
琴羽の指が鍵盤の上で止まる。
「音が……つかめない……っ」
天音の撥が唸る。だが打ち込んでも手応えが薄い。詠はギターを抱えたまま、声を出す場所を探す。
また、崩れる。
その予感が、五人の間を走る。
だが今度は。
澪が、動いた。
「私が、基準を示す」
その声は、昨日よりもはっきりしていた。
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