第十三音 足並みなんて揃わなくていい
屋上は静かだった。
澪は金網のそばに立ち、目を閉じていた。
風が吹く。
夕暮れの光が、遠くの校舎の窓を橙色に染めている。
音楽室からここまで階段を上ってくる間、澪はずっと聴いていた。
空間に残る残響。
テンポスナッパーの拍子木の波形。
ズレが発生するタイミング。
それらが、脳裏に細い線として浮かび上がる。
八拍目で、最初のズレが来る。
次は十三拍目。
その次は、十九拍目。
規則的ではない。けれど、完全なランダムでもない。こちらが焦った瞬間、誰かが走った瞬間、誰かが合わせようとして迷った瞬間に、拍子木が入り込んでくる。
「……私たちの迷いを、喰ってる」
澪には昔から、音が見える感覚があった。
正確に言えば見えるわけではない。音の構造が図のように頭の中に広がるのだ。
ピッチ、リズム、和音の重なり、空間の反響。
それらが同時に、整理された形で入ってくる。
だから一人で弾くとき、澪はほとんど迷わない。
音が見えているから、どこへ行けばいいかわかる。
でも。
みんなと合わせると、違う。
他の四人の音が入ってきた瞬間、その見え方が複雑になりすぎる。天音の拍は強く、理央の低音は厳密で、琴羽の和音は柔らかく広がり、詠の歌はまっすぐ前へ進もうとする。
どれも悪い音ではない。
なのに、全部を正しく見ようとした瞬間、澪自身の指が止まる。
「私が、合わせられていないのかも」
澪はギターをそっと鳴らした。
一音。
低く、静かな一音。
空中にテンポの基準を置くように。
次の一音。
等間隔に。
揺れない。
どんな外乱があっても、この拍だけは動かさない。
けれど、それだけでは足りない。
みんなを自分に従わせるだけなら、ディストノームが言っていた「律に従う」と同じだ。
まだ彼女はディストノームを知らない。
それでも澪は、直感的に思った。
違う。
揃えるんじゃない。
戻れる場所を置くんだ。
走ってもいい。
遅れてもいい。
迷ってもいい。
ただ、戻れる一拍があれば、音はもう一度繋がる。
「足並みなんて、揃わなくていい」
澪は小さく呟いた。
「でも、ひとりにはしない」
もう一度、ギターを鳴らす。
今度の音は、さっきより少しだけ強かった。
屋上の風が、その音を音楽室の方へ運んでいく。
澪はギターを抱え直した。
試してみよう。
正しいかどうかは、まだわからない。
でも、今の四人には、戻れる場所が必要だった。
※ ※ ※
音楽室に澪が戻ってきたとき、四人はまだそれぞれの場所に散らばっていた。
戦闘は続いている。
テンポスナッパーは霧の中で拍子木を構えていた。追い詰める必要がないのだろう。このまま待っていれば、五人の演奏はひとりでに崩れていく。
「澪、どこ行ってた……」
詠が振り返る。
澪は何も言わず、ギターを構えた。
一音。
静かに、正確に、空間に拍を置く。
テンポスナッパーが拍子木を打つ。
かん。
それでも、澪の置いた一拍は揺れなかった。
「この音を基準にして」
低い声で言った。
詠がそれを聴く。
澪の音は、命令ではなかった。
合わせろ、と迫ってくる音ではない。
ただ、そこにある。
迷ったら戻っていい、と言っているような音だった。
理央が先に動いた。
澪の音にベースを重ねる。根音が揃い、空間の下半分がようやく安定した。
「基準拍、確認。構造を組み直す」
天音が撥を構え直す。
余計な力を抜いて、澪の拍に鼓動を重ねた。
ドンッ、ドンッ。
強く叩きすぎない。
走りすぎない。
ただ、戻れる音に、自分の心臓を預ける。
「……聴こえた」
琴羽が鍵盤に指を乗せた。
和音が舞い上がる。不安そうだったその音が、今度はちゃんと四人の上に乗った。
四人の音が、少しずつ揃っていく。
テンポスナッパーは拍子木を連打した。
かん、かん、かん。
空間が揺れる。
それでも、五人の音の核だけは動かない。
詠は、その中心で一歩前に出た。
「……わたし、歌ってもいいかな?」
誰も何も言わなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではなかった。
澪が、ほんの少しだけ顎を引く。
詠は息を吸った。
歌詞なんてない。
メロディも決まっていない。
でも、今この瞬間に感じていることを、音にしたかった。
声が出た。
まだうまく 重ならない
わたしたちの音は バラバラで
間違えて 傷ついて
それでも、止まりたくない
テンポスナッパーが拍子木を打つ。
空間が揺れる。
でも、五人の音の核だけは動かなかった。
本当は怖くて 叫びたいのに
大丈夫って笑うクセがついた
でも 聞こえたんだ
あの子たちの音が
ノイズが形を変えようとした。
黒い霧が、詠の声を呑み込むように広がる。拍子木の音が速度を増し、心拍が勝手に引っ張られる。
詠の声が一瞬、揺れた。
その揺れを、澪の一音が受け止める。
理央の低音が支える。
天音の鼓動が押し上げる。
琴羽の和音が包み込む。
「ひとりじゃない」
詠は、歌いながら思った。
not alone, not yet
ひとりじゃ届かない旋律も
信じるだけで 少しだけ近づける
もう一度 声を重ねてみるよ
まだ未完成なこのバンドで
未来を鳴らしたいんだ
最後の音が空に溶けた瞬間、テンポスナッパーが崩れ落ちた。
黒い霧が散り、拍子木が音を失い、空間にようやく正しいテンポが戻ってくる。
しばらく、誰も喋らなかった。
息を整えながら、五人は互いの顔を見る。
「……今の、少しだけ、重なった気がする」
琴羽の声が風に乗る。
「不完全だったけど、それでも」
詠が微笑んだ。
うまく言葉にならなかったけれど、笑顔だけは本物だった。
「もう一度、やってみよう」
理央が静かに言う。
「今度こそ、ちゃんと合わせてみたい」
天音も頷く。その声は短くて、でも確かだった。
「……音は、まだ続いてる」
澪がどこか遠くを見ながら言った。
彼女たちの五線譜は、まだ仮のまま。
ずれていて、粗くて、未完成だ。
でも、それは確かに音楽だった。
五人でなければ、生まれなかった音だった。
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