第十二音 音が揃わない、テンポを喰らうもの
五人での初めての演奏は、思っていたよりもうまくいかなかった。
音は出ている。合わせているつもりだった。
でも、どこかがずれていた。
天音の太鼓が走り気味になる。
それに引っ張られまいと、理央のベースがテンポを引き戻そうとする。
その綱引きの中で詠は歌に集中できなくなり、琴羽は空気を読んで音量を落とし、鍵盤が他の音に埋もれていく。
そして澪は――黙ったまま、ギターを弾き続けていた。
「……やり直そう」
詠の声は、どこか乾いていた。
誰も反論しない。
ただ、誰も動かなかった。
音楽室に沈黙が満ちる。
さっきまで音があった空間が、余計に広く感じられた。
(なんで、こんなに難しいんだろう)
詠は《櫻音》のネックをそっと握り直した。
一人で弾いているときは、こんな気持ちにはならない。
でも、五人になった途端、音が言うことを聞かなくなる。
人が増えるほど、音が遠ざかる気がした。
練習の後、旧演奏棟の裏手。
天音は一人で太鼓の手入れをしていた。
撥の先を丁寧に確かめ、打面の張り具合を指で叩いて確かめる。
こういう時間が、天音には必要だった。音を出した後は、静かに道具と向き合う。それが彼女のやり方だった。
「……走ってたわよ、今日」
無言で理央が隣に立った。
天音は手を止めなかった。
「わかってる」
「わかってるなら、なぜ直さないの」
「言われたから直す、っていうのが苦手なんだ」
理央が少し黙った。
「……もっと周りを見ろって言いたいんだろ?」
天音が先に続けた。
先手を打つように。言われる前に言ってしまうように。
「そんなことは言わないわ」
理央の声は冷たかった。でも怒っているわけではなく、ただ事実を述べているような静けさだった。
「ただ、音が揃っていない。それだけ」
「じゃあ言えよ。合わせろって」
「言ったら、合わせてくれるの?」
天音は口をつぐんだ。
理央も何も言わなかった。
風が吹き抜ける。夕暮れの風は、少しだけ湿っていた。
旧演奏棟の蔦が揺れる音だけが、二人の間を流れていった。
幼い頃はこんなじゃなかった、と天音は思う。
口で言わなくても、太鼓とベースが勝手に会話していた。
言葉がいらなかった。
でも今は、音まで噛み合わない。
(何が変わったんだろう)
答えは出なかった。
※ ※ ※
翌日の放課後。
五人は再び音楽室に集まり、練習を再開しようとしていた。
昨日の空気は、まだ部屋の隅に残っている。
譜面台の位置。椅子の向き。アンプの待機音。どれも昨日と同じはずなのに、誰も最初の一音を出せない。
「昨日より、合わせる意識で行こう」
詠が言う。
みんな頷く。でも表情は硬い。
天音はスティックを指先で回している。理央はベースのチューニングを何度も確認している。琴羽は鍵盤の上に手を置いたまま、押す前に迷っている。澪は黙ってギターを構えていた。
詠は息を吸った。
「じゃあ、いくよ」
最初の一音を出した瞬間、違和感が走る。
テンポが、ない。
正確には、誰かが出しているテンポはある。天音の拍も、理央の低音も、詠のコードも鳴っている。
けれど体が乗れない。
まるで足元の地面が、一拍ずつ後ろへ滑っていくような感覚だった。
「……おかしい」
澪が呟く。
その声に応えるように、窓の外から黒い霧が忍び込んできた。
霧は五線譜のように細く伸び、床を這い、音楽室の中心で人型を作る。
拍子木を手にした影。
《テンポスナッパー》。
BPMを狂わせる雑音体級のノイズ。
拍子木を一打するたび、空間のテンポが微妙にずれる。ずれは小さい。けれど積み重なると、演奏の足場そのものを崩していく。
「ノイズ……!?」
琴羽の声が震えた。
「来た……!」
詠がギターを構える。
「奏装、起動——祝・華!」
桜色の光が弾け、詠の祝装が展開される。続けて澪、琴羽、天音、理央の祝具が応じ、五色の律紋が音楽室に咲いた。
けれど、変身したからといって、ズレが消えるわけではない。
テンポスナッパーが拍子木を打つ。
かん。
詠のギターが半拍早く鳴った。音波はノイズの肩をかすめ、壁に散る。
「くっ、タイミングが……」
理央がベースでテンポを保とうとする。しかし空間ごとスライドしていく錯覚が、指の動きを狂わせた。
「基準拍が固定できない。これでは構造が組めない」
天音が踏み込む。
「だったら、でかい音で押し返す!」
雷の打撃が床を揺らした。だが次の瞬間、拍子木の音が割り込む。天音の一撃は、思った場所より半歩遅れて炸裂した。
「叩いてるのに追いつけない……!」
ドラマーにとって、それは自分の心臓を他人に握られるような不快さだった。
琴羽は鍵盤の上で指が止まる。
どの音が正解かわからない。和音を押さえても、空間の中でそれが正しく響く前に、別の拍へ引っ張られる。
「みんなに合わせたいのに……合わせる場所が、ない」
五人の演奏が、ばらばらに崩れていく。
テンポスナッパーは何も語らない。
ただ、拍子木を鳴らす。
かん。
また一拍。
それだけで、五人の焦りが少しずつ増幅される。
詠は歌おうとした。
けれど、喉が開かない。
どこに声を乗せればいいのか、わからない。
そのとき。
澪が、ギターを構えたまま音を止めた。
ふっ、と。
まるで風が止むように、静かに。
「澪?」
詠が呼ぶ。
澪は答えない。
ただ、ノイズの拍子木を一度だけ見て、踵を返した。
そして無言のまま、音楽室を出ていった。
「澪!」
返事はなかった。
残された四人の音は、さらに不安定に揺れた。
テンポスナッパーの拍子木が、また鳴る。
かん。
まるで、逃げ場を失った心臓を数えるように。
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