第十一音 対峙と共鳴、式部理央の覚悟
「……また、音をやるつもり?」
天音が先に口を開いた。
「やってる。『また』じゃない」
「……そうか」
「あなたは?」
「声が聞こえた。来た」
理央が少しだけ目を細めた。
「相変わらず、言葉が少いのね」
「……理央こそ」
「わたしは必要なことしか言わないの。それはあなたも同じでしょう」
詠は二人のやりとりを見ながら、なんとなく、これがこの二人の「普通」なんだと感じた。険悪ではない。でも柔らかくもない。言葉は少ないけれど、通じ合っている何かがある。
「理央」
天音がもう一度、名前だけ言った。
「わかってる」
理央はそれだけで、詠たちの方へ目を向けた。
「あなたたちが、天音の言う『五人』?」
「そう! 花咲詠です。ギターボーカルで――」
「知ってるわ。旧演奏棟から音がしていたもの、ずっと」
詠は少し驚いた。
「聞こえてたの?」
「この学院で、祝音の気配を持つ者が動けば、わかる。……もっとも、わたし自身もそうだと気づいたのは、最近のことだけど」
理央はベースを構え直した。
「確かめさせて。あなたたちの音が、本当に『届く』かどうか」
その瞬間、足元から這い出すようなノイズが、ホールの壁を這い始めた。
「虚音……!」
ミヨリが警告を発する。
「理央がここで音を鳴らしたせいで、ヤツらが寄ってきた!」
「ふぉっふぉ……いや、それもまた運命の音じゃ」
黒いノイズは、ただ這っているだけではなかった。
床に刻まれた五線のような影が、ぐにゃりと曲がる。
壁に反響していた音が、半音だけずれた。
詠が思わずギターを鳴らす。
けれど、出た音は自分の指の形と合っていなかった。
「えっ、今の……違う!」
澪がすぐに弦を押さえる。
藍の波紋が床を走ったが、途中でねじれ、別の方向へ流される。
琴羽の和音が濁った。
天音の太鼓の拍が、一拍だけ沈む。
「テンポじゃない」
理央が静かに言った。
「根音が、ずらされている」
歪律系の虚音。
音の高さそのものではなく、音が立つための土台を崩してくる敵。
詠たちの音は出ている。
でも、立つ場所がずれている。
だから、届かない。
理央はノイズの中で一歩も引かなかった。
ベースを低く構え、一音、叩きつけた。
重い。
詠はそれを体で感じた。音というより、圧力のような。空間ごと揺さぶるような低音。
(これが……ベースの『重さ』)
天音が言っていた言葉が、一瞬でわかった。
理央の低音が、床に杭を打つように響く。
ずれていた五線の影が、そこで一度止まった。
「今」
理央の声。
短い。でも、全員に届いた。
詠はギターを構えた。澪が音を重ねる。琴羽の鍵盤が空間に広がる。天音の太鼓が炸裂する。
そして、理央のベースがその全部を底から支えた。
五つの音が、初めて揃った。
虚音の波が押し寄せる。
また根音がずらされる。
詠の旋律が浮きかける。
そのたびに、理央のベースが底へ引き戻した。
澪の波紋がまっすぐ伸びる。
琴羽の和音が濁らず広がる。
天音の太鼓が、今度は沈まずに前へ出る。
今度の音には「底」があった。崩れない。
理央の音が、全員の音場を一点につなぎ止めていた。
「まだ、終わらない……!」
「……届いたわ」
理央が小さく呟いた。
それは、詠たちの音に向けた言葉だった。
同時に、自分自身へ向けた言葉でもあった。
証明できるから意味があるのではない。
届いたから、今ここに意味が生まれた。
次の瞬間、一撃の低音が、虚音の中心を打ち抜いた。
黒いノイズが砕け散る。
音が、沈黙を取り戻す。
※ ※ ※
崩れ落ちるように、理央が一歩下がった。
詠が駆け寄り、そっと手を差し出す。
「……わたしたちと、音を重ねてくれる?」
一瞬の沈黙。
理央の目が、詠の顔を、澪を、琴羽を、天音を、順に見た。
そして、手を取った。
「音が、導いたのなら。……それに従うまでよ」
五人目の契が、今、結ばれた。
ミヨリがくるくると宙で回る。
「五色の音、ここに揃ったり! これで『五色ノ契』は完成じゃ!」
「……うるさい」と天音。
「わたしも同意見」と理央。
詠は思わず笑った。
このふたりは、やっぱり息が合っている。
※ ※ ※
夜の帳が下りた神響の街。
理央の部屋は整然としていた。
書棚と譜面棚。窓際の譜面台。余計なものがない。
散らかりはなく、すべてが機能的に並んでいる。
その静けさは、式部家そのものに似ていた。
大学教授の父は「音は学問である」と言う。
音楽評論家の母は「音は教養である」と言う。
だから理央も幼い頃から、音楽理論と歴史と批評の言葉を学んできた。
でも今夜、理央はただベースを弾いていた。
理屈ではなく。評価のためでもなく。
ただ、弾きたいから弾いた。
「……確かに、響いたわ。あの子たちの音」
低い声に、微かな揺れが混じった。
詠の真っ直ぐな視線。
澪の静かな気配。
琴羽の柔らかな音色。
天音の熱い鼓動。
そして自分自身の、低く深い、支える音。
「支配ではなく、調和……か」
理央はもう一度、弦を鳴らした。
今まで「音で場を制する」ことが理央の音楽だった。
場を整え、秩序を作り、乱れを正す。
でも今日の演奏は違った。
五人の音が重なったあの瞬間、理央は「制していた」のではなく、「一緒にいた」。
その違いが、じんわりと胸に残っていた。
月明かりの下、ベースの弦がもう一度、そっと鳴る。
それは誰に聴かせるでもない、心の中の音合わせ。
幼い頃、天音と音を出していたあの部屋の感覚に、少しだけ似ていた。
※ ※ ※
同じ頃。
学院の古い桜の枝の上で、ミヨリは夜風に尾を揺らしていた。
五つの音が、揃った。
詠の桜。
澪の藍。
琴羽の春。
天音の雷。
理央の紫。
「……ようやく、ここまで来たのじゃな」
ミヨリは小さく目を細める。
喜びだけではない。
その横顔には、どこか遠い昔を思い出すような影があった。
「かつて、同じように五人が揃ったことがあった」
誰に聞かせるでもなく、ミヨリは呟く。
「じゃが……」
その先の言葉は、夜の風に消えた。
神響の空に、五つの音の残響がまだ微かに残っている。
けれど、その奥で。
ほんの一瞬だけ、別の弦が震えた気がした。
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