偶然の放課後
放課後の教室は、昼間の喧騒をすっかり忘れたように静まり返っていた。外の廊下からは、かすかに掃除道具を持つ足音が響く。私は机の上に手を置き、ノートに目を落としながらも、Sのことが頭から離れず、つい視線がそちらに向いてしまう。
Sは窓際で机を片付けていた。普段と変わらない、柔らかな笑顔。友人たちと一緒ではなく、今日はなぜか私の近くにいる。胸の奥がざわつき、手のひらに汗がにじむ。触れられない距離で、心だけが暴れる。
「A、手伝ってくれる?」
さりげない声に、心臓が跳ね上がる。振り返ると、Sが少し微笑みながら私に視線を向けた。たった一言で、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。私は立ち上がり、Sの机の方へ歩み寄った。
手渡された雑巾を受け取る瞬間、指先がSの手にかすかに触れた気がした。偶然かもしれない。それでも心臓は止まらず、胸の奥が熱を帯びる。Sは何もなかったように微笑むが、その距離の近さだけで、私は心をかき乱される。
「ありがとう、助かるよ」
Sの一言が、まるで魔法のように胸に響く。誰にでも言うような軽い言葉かもしれない。でも、今の私には特別すぎる。言葉の重みよりも、存在そのものが胸を締めつけるのだ。
教室の隅に向かって雑巾を歩きながら、Sがふと私の目を見た。まるで私を意識しているかのように、一瞬視線が絡む。しかし次の瞬間には、Sは視線を逸らし、別の方へ歩き出す。その短い瞬間の視線だけで、私の心は大きく揺れた。
窓の外には夕陽が差し込み、教室の床を赤く染めている。Sの背中が光に照らされ、長く伸びる影が私の心にも映る。触れたい、声をかけたい。でも、まだ言えない。Sは特別な存在だからこそ、簡単に近づけない。その距離感が、甘く切ない。
掃除が終わり、Sが先に教室を出るとき、私は思わず後ろ姿を見つめる。歩くたびに髪が揺れ、肩越しに差し伸べられる手の角度、微かな仕草すべてが胸に刺さる。触れられない距離なのに、心だけはSの側にあるようで、じれったさで胸がいっぱいになる。
帰り道、街灯の光が私の足元を照らす。今日のSの一挙手一投足を思い返しながら、心の中でそっとつぶやく。
「誰でもいいわけじゃない、Sだから……」
触れられない距離でも、ほんのわずかな偶然でも、Sの存在は私にとって特別すぎる。心の奥で揺れる想いは、甘く切なく、そして少し苦しい。それでも、明日もまた、Sのそばにいられるなら——その思いだけで、胸のざわめきは少しだけ落ち着くのだった。




