第9話 『聞こえなくなった喧騒』
文化祭当日は、朝から校舎全体が浮き立っていた。
各クラスの展示や模擬店が廊下や教室を埋め尽くして、普段とはまるで違う雰囲気の学校が広がっている。
僕たちのクラスのダンボールアートも各グループがなんとか無事に完成させた。多少の紆余曲折はあったけれど、松本さんたちのグループも田中たちの助けを借りて仕上げ、当日を迎えることができた。
完成したものを並べてみると、クラスの展示としてはなかなかの見応えになっている気がする。
午後からは日野さんと二人で受付を担当することになっていて、午前中は自由時間だった。クラスの展示を一通り確認してから、僕は一人で校舎を歩く。
他のクラスが作り上げた展示を眺めたり、廊下に溢れる生徒たちの声を聞いたりしながら、特に目的もなく歩みを進める。
模擬店の出ているグラウンドを窓から見下ろすと、焼きそばやたこ焼きの煙が上がって、そこだけ夏祭りみたいな空気になっている。
こういう景色を、去年はどう見ていたんだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、屋上へ続く階段を上った。
屋上のドアを開けると、風が吹き抜けた。
途中の自販機で買ったブラックコーヒーを片手に、フェンス沿いに立つ。
眼下では模擬店の列が伸びていて、友人同士で笑い合っている声がここまで届く。放送で何かを案内するアナウンスも流れ、とても賑わっている。
「相変わらず一人が好きだねぇ」
後ろから声がして、振り返る前にわかった。
「今まさに一人じゃなくなったけどね」
「ハハっ、違いない」
同じクラスの片山暖大が隣に並んだ。
背が高くて、笑うと目が細くなる。サッカー部に所属していて、僕とはなんの接点もないはずのに、なぜか入学してすぐに話しかけてきて、気がついたら一番付き合いの長い人間になっていた。
「どうよ、文化祭は」
「みんな楽しそうでいいんじゃない?」
暖大が少し眉を上げ、怪訝そうな顔でこちらを見る。
「珍しいじゃん、慧がそんなこと言うの」
「そうか?」
「そうだよ。去年だったら『別に』で終わってたね」
返す言葉がすぐに出なかった。暖大はフェンスに腕をかけて、グラウンドの方を眺めてから続けた。
「もしかして……日野さんの影響か?」
その言葉に、心臓が一拍だけ余計に動いた。
「……それ、関係あるか?」
「ないことはないんじゃねぇの?ほら、先週は日野さんを庇って前に出るくらいだし。去年までの慧なら考えられないね」
「まぁ、僕も不本意とはいえ実行委員だしね。あの状況なら仕方ないよ」
「そういうところのことを言ってんだけどなぁ」
暖大は軽く笑って、それからグラウンドに視線を戻す。
そういうところ、とはどういうことだろうか。確かに僕らしくない行動ではあったかもしれない。でも僕と日野さんはもう他人ではないし、あんな泣きそうな顔を見てしまっては、見て見ぬふりなんてできなかった。ただ…
(仮に日野さんの立ち位置が暖大だったら、僕はどうしていたんだろう)
僕は仲裁に入っただろうか。泣きそうな顔をしている暖大なんて想像もつかないけどな、と暖大の方を見ると、ニカっと笑って続ける。
「まぁいいんじゃないの。俺以外に友達のいなかった慧に、話せる人が増えて俺は嬉しいよ。それが日野さんってのは大分予想外だけどな」
「そうなりたくてなったわけじゃないし、なんなら僕が一番驚いてる」
「あぁ、多分クラス全員が同じ気持ちだ」
暖大はけらけらと笑った。
その様子に少しムッとなる。実行委員を変われるものなら変わりたかった。文化祭の実行委員、日野さんと同じならやってもいいぜー、なんて言っていた男子が立候補してくれていれば、今頃こうしてからかわれることもなかったのに。
そんなことを考えながら、暖大の方を目を細めて見つめた。
当の本人は、こちらの視線など意に介した様子もないが。
「ま、なんにせよ」
暖大は正面を向いたまま言う。それからこちらを振り向き、
「さっきも言った通り、俺は嬉しいんだよ」
屈託のない笑顔だ。こういう顔で言われると、何も言い返せなくなる。
「……そうかよ」
自分では変わったかどうかなんて、全くわからない。ただ気がついたら、こうなっていた。それだけのことなんだけどな、と思いながら、コーヒーを一口飲んだ。
午後になって、日野さんと二人でクラスの受付に入った。
展示に訪れる生徒や保護者に、日野さんが諸注意と案内を伝えていく。話しかけ方が自然で、初めて来た人でも緊張しないような声色だった。
保護者の方々には丁寧に、他クラスの学生が来た時はきさくに、保護者に連れられている小さな子どもには目線を合わせて。
説明が終わるたびに「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、次の人に目を向ける。こういう場面での彼女の人柄の良さは、より際立っている気がする。
僕も自分の担当をこなしながら、来場者の流れを整えていく。
少し落ち着いた頃に、日野さんが横から声をかけてきた。
「さっきまでの自由時間、なにしてたの?」
「屋上にいた」
「イメージ通りだ」
彼女はくすくすと笑う。
「缶コーヒー持って一人で外眺めてた感じ?」
「……そんなところ」
「想像通りすぎて笑えてくる」
「悪かったな」
「褒めてるんだよ」と日野さんは言う。
「なんか、ちゃんと瀬川くんって感じがして。文化祭だからって浮かれないところが」
「浮かれてないわけじゃないけど」
「え、浮かれてたの?」
「少しくらいは」
日野さんは目を丸くしてから、「それ聞けてよかった」と嬉しそうに笑う。何がそんなに嬉しいのだろう。まぁ実行委員という立場上のことだろう。
しばらく来場者の対応を続けながら、会話が途切れたり繋がったりした。
「そういえば」と日野さんが思い出したように、
「瀬川くんって、片山くんとは仲良いよね?」
「まぁそうだね。屋上にも一緒にいたし」
「あ、そうなんだ!」とぱっと笑顔を向けてきた。
「屋上に一人でいるって聞いたとき、少し触れにくいなって思ったけど、そういうことなら良かった」
「触れにくいって、ハッキリ言うね」
「だって、一人で屋上って聞いたら、なんかその……少し心配になるじゃん?」
「それはどうも。まぁでもそんな心配は無用だよ」
「でもなんか意外だよね、瀬川くんと片山くんってタイプ全然違うのに」
「向こうがグイグイ来たから、自然に」
日野さんは声を立てて笑った。
「グイグイくる片山くん、なんか想像つくなぁ。」
「最初はなんだこいつ、って感じだったけどね」
ふふっと彼女は笑って、「瀬川くんはどうしてたの、最初」と続ける。
「適当に返してたら、いつの間にか自然と仲良くなってた」
「それ、されるがままだね」
「まあ、違うとは言い切れないね」
「可愛い」
「……それはない」
日野さんはまた笑った。受付のカウンター越しに、次の来場者に「いらっしゃいませ」と声をかけながら、笑顔の余韻を残したまま案内に移る。そのマルチタスクぶりは、見ていると普通に感心させられる。
やがて交代の時間が近づいて、次の担当のクラスメイトがやってきた。引き継ぎを済ませて、二人で受付から離れた。
この後どうしようか、と考えかけたとき。
「ね、瀬川くん」
日野さんが声をかけてくる。
「この後は片山くんとまた合流するの?」
「いや、特に何も決めてないよ」
「そっか」
彼女は俯き、少しの間だけ黙った。何かを考えているようだけど、どうしたのだろう。
それから少ししてこちらを向く。唇をギュッと結び、その表情はいつもより硬く映る。
「じゃあ……この後、一緒に文化祭回らない?」
さっきまでうるさいほどに聞こえていたはず廊下の喧騒が、耳に入ってこなくなった。




