第6話 『気にしているのは僕だけらしい』
六時間目のチャイムが鳴って、片桐先生がホームルームを始める。
「それじゃあ、実行委員の二人から、文化祭について共有してもらいます」
その言葉を聞いた日野さんが立ち上がり、プリントを手に持って教壇の前に立つ。
僕も彼女の後ろに立ち、教室の雰囲気を見渡してみる。視線は日野さんに集中しており、僕のことなど気に留めるような様子は見られない。
彼女はクラス全体に視線を一度走らせてから、口を開いた。
「はい、えーと、改めまして実行委員の日野です。昨日の会議の内容と、今日決めてほしいことを共有しまーす」
気負いのない声だった。内容を噛み砕いて言葉にする手際がよくて、クラスメイトが自然と耳を傾けている。
その様子を眺めながら、昨夜のことを思い出していた。
午後九時を少し回った頃、閉店作業の合間に外を見ると、出口のそばに日野さんが立っていた。課題のプリントを鞄に突っ込みながら、こちらに気づいてひらりと手を振る。
バイトが終わって外に出ると、夜風がひんやりと頬に触れた。
「お疲れ様でーす」
日野さんが少し大げさに頭を下げた。
「…なんでお疲れ様?」
「バイト終わりの人には敬意を表さないといけない気がして」
「そうかもしれないけど、まさか日野さんから言われるとは思わなかったよ」
というより、まさか僕を待っているとは思わなかった。
店を出て行く姿はチラッと見えていたが、帰ろうと思えたんだな、くらいにしか思っていなかった。律儀というか、なんというか。
「ねえ、さっきお客さんに笑顔向けてたの見えたよ。あれが噂の営業スマイルってやつ?」
「普通に仕事してただけだよ」
「いやぁ、私には向けてくれないじゃんって思って」
言いながら、日野さんは口をへの字に曲げた。拗ねているのか、ただ言ってみたかっただけなのか。
「……日野さんはお客さんじゃないから。そういうタイミングもなかったしね」
「なにそれ、じゃあ私は何なの」
「強いて言うなら、知人かなぁ」
「知人!」と日野さんは目を丸くしてから、ぷっと吹き出した。
「知人って。ひどいな。まあ確かに知人か。でもなんかもうちょっとこう、ない?」
「ないよ」
「もう、即答しないでよ」
彼女はけらけらと笑いながら歩き始める。夜道の街灯の下で、その横顔がくっきりと浮かんでいる。笑い方が屈託なくて、ファミレスに来る前の重さは、もうほとんど感じない。
しばらく並んで歩いてから、日野さんが「じゃあここで」と足を止めた。角の手前だった。
「今日はありがとう。いろいろ」
「何もしてないよ」
「ちゃんと受け取ってよ」
と彼女は少し語気を強めてから、「ありがとう。また明日」と続けた。
「うん、また明日」
日野さんは一度だけ振り返って、手をひらりと振ってから曲がり角の向こうに消えた。その後ろ姿が見えなくなってから、僕は歩き出す。
少し歩いて、以前彼女が一人でいた公園が見えてきた。歩きながら公園の中を見ると、当然だが誰もいない。あるのは街頭の灯りだけで、薄暗い。こんな場所に今日も一人でいさせる可能性があった以上、声をかけて良かったと思えた。
「はい、以上です。なにか質問ある人はいますかー?」
日野さんの声で、思考が引き戻される。
出し物の候補を板書した片桐先生のホワイトボードには、いくつかの案が並んでいた。いつの間にか議論が進んでいたらしい。
たこ焼き。甘味処。ダンボールアート。劇。
四つの候補が出揃ったところで、教室がざわついていた。たこ焼きを推す声と、甘味処を推す声が半々くらいで、ダンボールアートは面白そうだけど、難しそうだともいう声が混在している。劇は誰がやるんだという笑いが起きている。
日野さんが前に立ったまま、手をニ、三度叩く。
「はいはい、じゃあそろそろ決めよっか。挙手で多数決ね!」
片桐先生が補足する。「一人一票だからね」
「たこ焼きがいい人ー」
七、八人の手が上がった。
「甘味処ー」
同じくらい。
「ダンボールアートー」
少し間があってから、ぱらぱらと手が挙がる。数えると十二、三人ほどだ。
「劇ー」
数人。笑いが起きた。
「はい、ダンボールアートに決定でーす」
日野さんは涼しい顔で宣言する。
「異議ある人?」
特にないのだろう。手も上がらず、誰も意見を発しない。
「なし!じゃあ決まり。あとは実行委員がいろいろ動くので、みんなは追って連絡を待っててください」
片桐先生が「はい、ありがとう」と引き取って、ホームルームが締められた。
放課後、日野さんと二人で職員室前の廊下を歩く。管理棟の端にある生徒会室に、先ほど決まった出し物の承認を取りに行くところだ。
「意外なものに決まったね」
「まあ、誰もやったことがない分、票が集まったんだと思うよ」
「瀬川くんは何に入れたの」
「ダンボールアート」
「あ、私も。なんか面白そうだし」
「実際、やることは多いけどね。ダンボール集めないといけないし、設計も要る」
「でも楽しそうじゃん」
「楽しそう、っていう理由で動かないといけない量が決まるわけじゃないけど」
「もう、瀬川くんってそういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「夢より先に現実を言う」
「間違ってはいないと思うけど?」
「間違ってないけどさぁ」と彼女は苦笑いした。
「でもまあ、そういう人が実行委員にいてくれてよかったとも思うよ。私だけだったら絶対ふわっとしたまま進めちゃうから」
「それはそれで問題だね」
「ひどっ」
彼女はわざとらしく肩をすくめてから、「でも本当に、よかったよ」と付け加える。
さっきとは少しだけ声のトーンが違った。からかいの色がなくて、真直ぐな響きだった。
受け取り方に困って、「そっか」とだけ返した。
生徒会室のドアをノックすると、中から返事が来た。生徒会長の三年生が出てきて、プリントを確認してから承認のサインをしてくれた。ただし、と彼は付け加える。
「ダンボールは自前で集めてもらうことになってます。学校側では用意ができず、各クラスで調達する形なので」
「集める、というのはスーパーとか商店街のお店に声をかける感じですか?」
「そうですね。快く出してくれるところが多いですよ。装飾に使う絵の具や画材も、予算の範囲内から買い出しに行ってもらう形になります」
「わかりました」
日野さんがメモを取りながら頷く。分かってはいたが、なかなか大変そうだ。
廊下を歩きながら、日野さんはメモに目を落としている。
「意外と自分たちでやることが多いね」
「そうだね。ダンボール集めは、さっき聞いた通り商店街に声かけるのが早いと思う」
「だよね。来週から作り始めることを考えると、週末とかに動けるといいなー」
彼女は楽しそうに笑いながら、教室への廊下を歩いていった。
教室に戻って、各自の荷物をまとめ始めた頃。
「日野さん、これから部活?」
「うん。今日は練習試合の振り返りミーティングがあるから、六時くらいまで」
「じゃあダンボールのお願いとか、必要なものは僕が揃えるよ」
日野さんが驚いたようにこちらを振り向く。
「え、なんで?」
「実行委員の雑務は僕の方が時間作りやすいから」
「瀬川くんだってバイトあるじゃん」
「バイトのない日にやるよ」
「それって結局、一人でやるってことじゃん」
彼女は鞄を置いて、腰に手を当てた。
「ダメだよ、そういうの。二人で実行委員なんだから、二人でやらないと」
「でも時間的に…」
「時間は合わせるから。ね?」
「……」
「ね?」
彼女は一歩だけ近づいてきて、上目遣いにこちらを見た。
怒っているような目ではなく、こちらが折れるのを待っているような、静かな目だった。強引というか、頑なというか。すこしカッコつけるようなことを言ったのは失敗だったか。
「……わかった」
「よし」
日野さんは途端に笑顔になった。切り替えの速さは相変わらずだと思わされる。
「じゃあ、明日って空いてる?土曜日」
「バイトはないよ」
「私も昼からは空いてるんだよね。商店街の方に、ダンボールを協力してくれそうなお店があるか確認しに行こうよ」
まさか本当に休日に行動を起こすとは思わなかった。確かに来週から準備を始めていく以上、早いに越したことはないのだけど。
やる気に満ち溢れてるのだろう、と自分の中で結論付け、「わかった、行こうか」と返事をする。
それでも一つだけ確認したくて、口を開いた。
「あのさ、男と二人で出かけて大丈夫なのか」
日野さんがきょとんとした顔でこちらを見る。なんのこと?ととでも言いたげな顔だ。
「何が?」
「友達とかに何か言われないか、とかそういう意味で」
「何かって?」
「……仲いいね、とか」
彼女は二秒ほど沈黙してから、ぷっと噴き出した。
「それが心配なの?」
「心配というより、日野さんの方に迷惑じゃないかという…」
「全然!むしろなんで?文化祭の準備のために友達と出かけるだけじゃん」
「それとも、瀬川くんは意識しちゃってるのかな〜?」
ニヤニヤしながら彼女は言葉を続ける。
意識していない、と言えば嘘になるかもしれない。女の子と二人で出かけるなんてイベント、これまでの人生で経験したことはない。
昨日、下駄箱から校門までを一緒に歩いただけでも視線を集めたんだ。もし休日に一緒にいるところを誰かに見られたりでもしたら、たちまち噂になりそうだ。
「そういうわけじゃないけど。まぁ日野さんが大丈夫ならいいよ、行こうか。」
「うんうん、行こう! さっきも言ったけど準備のために出掛けるだけだから、気楽にいこうよ」
こちらが慎重になっていたのが馬鹿みたいな、清々しい返しだった。
「まあ、そういう感覚なら」
「じゃあ決まり。昼の一時に商店街の入り口で。遅刻しないでよ」
「しないよ」
「よし。じゃあ私部活行ってくる。またね、瀬川くん」
彼女は鞄を肩にかけて、教室を出て行く。廊下を歩く足音がどんどん遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
僕はしばらく、その方向を眺めていた。
新しいクラスが始まって、その中にたまたま日野咲がいた。放課後の教室で偶然出くわして、夜の公園でまた会って。文化祭の実行委員をくじで引き当てて、バイト先に呼んで。
そして明日、二人で商店街に出かけることになった。
どれ一つとして、こちらから望んで起きたわけじゃない。ただ気がついたら、そういう流れになっていただけだ。
本当に、ここ最近の自分の生活はどうなっているんだろう。
ただ、不思議と悪い気はしない。
「文化祭、楽しみだな」
自然と漏れた声にハッとする。
そうか、僕は今の現状やこれから変わるかもしれない生活を楽しみにしているのか。
たった一人、関わる人間が増えただけだと思っていた。でも間違いなく、彼女と関わってからたくさんの非日常が生まれた。
なんとも言葉に出来ない感覚が渦巻いてくるが、明日着ていく服がないな、なんて思いながら僕は帰路についた。




