第5話 『ファミレスの窓際で』
ドリンクバーのコーナーで、いちごオレのサーバーを傾ける。
珍しいものがあるなぁ、嬉しいけど。
グラスの中で赤とピンクがゆっくりと混ざり合うのをぼんやりと眺めながら、案内された窓際の席に戻った。
こうして外でどこかに入ってゆっくり時間をつぶすなんて、いつぶりだろう。
声をかけてもらえてよかった、と思う。正直に言えば、バイト先の前で別れてから帰るつもりだった。
でも家が近づくにつれて足がどうにも重くて、瀬川くんが声をかけてくれた瞬間、断る理由をうまく探せなかった。
グラスに口をつけながら、フロアをちらりと見渡す。
瀬川くんが、働いている。
厨房とフロアを行き来しながら、料理を運び、伝票を処理し、お客さんへ声をかける。一つひとつの動作に無駄がなくて、テキパキとしていた。制服の白いシャツを腕まくりして、腰から下にはエプロンをして、そういう姿が。
なんというか、学校で見る瀬川くんと、ぜんぜん違う。
教室での瀬川くんは、いつも静かだ。授業中は淡々とノートを取っていて、休み時間も本を読んでいたり、窓の外を見ていたりする。
一人だけ仲の良さそうな人がいたような気がするけれど、大人数の輪に入って騒いでいるような姿は見たことがない。話しかければちゃんと返ってくるけれど、自分から場の中心に入っていくこともない。それでいて浮いているわけでもなく、ただ自分のペースで過ごしている。そういう印象の人だった。
でも今の瀬川くんは、笑っている。
年配のお客さんに呼び止められて、何かを確認して、すみませんと頭を下げてから、小さく口元をほぐして答えていた。
あれが営業スマイルってやつなのかな。さりげない笑顔だけれど、確かにお客さんに向けられている。
そういえば。
私は、あの笑顔を向けてもらったことが、まだないかもしれない。
少し考えてから、ああでも、と思い直す。
公園のブランコで隣に座ってくれたとき、あの横顔は優しかった。今日の帰り道でファミレスに来ないかと声をかけてくれたとき、こちらを見る目は、確かに柔らかかった。
笑顔というより、もっと静かなものだったように思うけれど。
でもあの表情は、他の誰かに向けているものとは少し違った気がして。
「……っ」
グラスを持ったまま、頬に熱が集まってくるのを感じた。
いや、何を考えているんだ、私は。ちゃんと話し始めてまだ一週間ちょっとしか経っていない。公園で話したのが先週で、一緒にいる時間が長かったのは今日が初めてだ。
それだけのことで、何がどうなるというわけでもないし、そういう話でも全然ない。絶対そういう話ではない。
グラスをテーブルに置いて、首を軽く振った。
「日野咲さんだよね?」
顔を上げると、小柄な男性が立っていた。年齢は四十代半ばくらいだろうか。笑顔がやわらかくて、声に圧迫感がない。名札を見ると「店長 古川」と書いてある。
「あ、はい」
「慧くんから聞いてるよ。友人が来るって」
古川さんは向かいの椅子に手をかけながら、「座ってもいいかい?」と尋ねてくる。
頷くと、ゆっくりと腰を下ろした。
「今日は来てくれてありがとうね。慧くん、いつもは一人でご飯食べて帰るから。まさか友人を連れてくるなんて、私も嬉しくて」
「こちらこそ、突然お邪魔してしまってすみません」
「全然いいんだよ」と古川さんは笑った。
「慧くんの頼みだしね」
頼み。その言葉が少し気になって、思い切って聞いてみる。
「あの、瀬川くんは古川さんに何か話してましたか?私のことで…」
古川さんは「うん?」と少し考えるそぶりをしてから、首を横に振った。
「特には何も。友人が来るのでよろしくお願いします、とだけ聞いているよ」
「……そうですか」
「でもそういうことを聞くっていうことは、何か事情があるんだろうね」
古川さんの口調は変わらず柔らかい。詮索しているのとは違う、ただ受け止めているような。そんな声色だ。
「何があったかは分からないけれど、何より慧くんの頼みだから。気にせずゆっくりしていってね」
胸の奥で、何かがほぐれる感覚がする。
瀬川くんは何も言わなかった。公園でのことも、家のことも、今日足が重くなっていたことも、何一つ他人に伝えていなかった。
それがなんだか嬉しくて、ほっとして、じわりと胸の中が温かくなっていくのを感じた。
「瀬川くんって、こちらでも信頼されてるんですね」
「もちろん。本当に助かってるよ」
古川さんは目を細めた。
「本当に真面目でね、あの子。言われたことをちゃんとやるだけじゃなくて、自分で考えて動くんだよ。そんなことなかなかできないんだよ、最初は特に」
「学校でも、そういう感じです。自分のペースがあるというか」
「そうそう。それに素直でね。私が何か言ったときに素直に受け取ってくれるから、話しやすくて。変にプライドがないというか」
「わかります。なんか、こっちの言葉をちゃんと受け取ってくれる感じがして。返しがあっさりしてるのに、ちゃんと届いてる気がするんですよね」
「そうそう、そういう感じ。うまいこと言うね」
古川さんが笑う。私もつられて少し笑った。
「あの、店長」
フロアの方から声がした。振り向くと、瀬川くんが困り顔でこちらに近づいてきた。
「十番テーブルのお客さんがパスタのソースを変更したいって言ってるんですけど、オーダー確定した後だから対応できるかどうか確認したくて」
「ああ、それは厨房に聞いてみよう。一緒においで」
古川さんが立ち上がろうとして、そこで瀬川くんが私の方に気づいた。
「……なにかあった?」
視線が合って、私は一瞬だけ固まった。
いつから見ていたんだろう。気づかないうちに、瀬川くんのことをずっと見ていたらしい。
それを本人に気づかれたのかと思うと、じわりと顔が熱くなった。
「え、あ、いや」
うまく言葉が出てこなくて、咄嗟に口から出たのは
「真面目に働いてるんだね」
「……当たり前だろ」
瀬川くんはさも当然のように言い返して、先に厨房の方に歩いていった。立ち止まりもせず、振り返りもせず。その背中があまりにも自然で、私はしばらくその方向を眺めていた。
隣で、古川さんがくすくすと笑っているのに気づいて我に返る。
「仲良さそうで、よかった」
「……あ、はい」
「慧くんと、これからも仲良くしてあげてね」
少しキョトンとした。改めてそう言われると、どう返せばいいのかよくわからない。
でも口から出た言葉は、考えるより先に出てきた。
「こちらからお願いしたいくらいです」
古川さんは満足そうに微笑んで、「そっか、よかった」とだけ言い残して、厨房の方へ向かっていった。
一人になって、グラスを両手で包むように持った。
こちらからお願いしたいくらいです。
自分で言っておいて、なんでそんなことを言ったんだろうと思った。
間違ってはいない。瀬川くんはちゃんと話せるし、返してくれるし、余計なことを言わないし、聞かない。公園のあの夜だって、今日の帰り道だって、ちょうどいい距離感にいてくれた。
だから仲良くしたいというのは、別に変な話じゃない。
変な話じゃ、ないんだけど。
なんで自然に出てきたんだろう。
考えるのをやめようと、鞄の中から課題のプリントを取り出した。
シャープペンを走らせながら、英単語の穴埋めを片付けていこうとするけど……わからない。
瀬川くんならこの程度、サッと終わらせちゃうんだろうなと思いながらドリンクバーのグラスをもう一口飲んで、集中しようとした時。
フロアの方が、少し騒がしくなった。
家族連れのお客さんが来たようで、瀬川くんが席まで案内している声が聞こえる。
子どものお客さんに何か声をかけながら、瀬川くんがメニューを手渡している。子どもが何かを指差して、瀬川くんがそれに頷いて、ほんの少しだけ口元をほぐした。
さっきも見た、あの笑顔だ。
プリントに戻ろうとするけど、視線が動かなかった。
また気づけば自然と彼を目で追っていることに私が気づくのは、もう少し後の話だ。




