第38話 『咲がいてくれたから』
一週間後、土曜日の午後。僕と咲は、以前父さんと話した喫茶店にいた。約束の時間までは、まだ少しある。
「おしゃれなお店だね」
僕の緊張をほぐそうとしてくれているのだろうか。咲はいつにも増して声をかけてくれる。
「そうだね。この前はあんまり見る余裕もなかったけど、落ち着く雰囲気だ」
「うん。こういうところのデザートは美味しいに決まってる」
「…もう少し時間あるし、食べる?」
「…ごめん、そうは言っても喉を通らないかも」
そう言って咲は苦笑い気味に笑う。咲だって、僕の父親に会うのだから緊張しているに決まっている。
かける言葉を間違えてしまったと後悔していると、声をかけられる。
「いらっしゃい。また来てくれましたね」
「…あなたは」
声の方向に顔を上げると、先日も案内をしてくれた、あの日、父さんと歩いていた女性が立っている。
「朗さんから聞いています。今日、お話をするって。…その前に少し、私からもいいでしょうか」
少し重苦しい空気を醸し出しながら、丁寧な言葉遣いでそう言ってくる彼女に対し、思わず咲の方を見てしまう。
咲はゆっくりと頷き、大丈夫だと伝えてくれる。
「…はい」
「ありがとう。座らせてもらいますね」
前回と同様に、他のお客さんはいない。多少の時間は取れるのだろうが、一体何を話すつもりなのか検討もつかない。自然と、身構えてしまう。
「彗くん、と呼ばせてもらっても大丈夫ですか?隣の子は…」
「咲といいます」
「咲ちゃん、ですね。ありがとう」
キッパリと言い放つ咲に対し僕は頷くことで返答をすることしかできなかったが、女性は少し柔らかくなった笑顔で、同じように頷く。
「私は、相川といいます。…少し時間をもらったのは、彗くんのお父さんについてです」
その言葉に、体が少し震えてしまった。
「おそらく、彗くんは気づいていますよね。私が朗さんと歩いていたことに」
「…はい。朧げでしたが」
「話そうと思っているのは、そのことについてです。先週、朗さんと彗くんがここで話をした後、朗さんからいろいろ聞いて、話しておかないとと思って」
「……」
相川さんはそう言って、僕と咲を交互に見つめてくる。
「…誤解なんです。私と朗さんは、彗くんが考えているような関係ではありません。名前で呼んでいてなにを、と思われるかもしれませんが」
その言葉に、驚いてしまう。咲はただ真っ直ぐ、相川さんを見つめている。
思考が追いつかないが、必死に言葉を絞り出す。
「……では、どういう」
「…この喫茶店、人が全然いませんよね。私が経営しているんですけど、なかなか上手くいかなくて…。朗さんには仕事の関係で相談に乗ってもらっているんです。あの日は、その帰りでした」
「……そうだったんですね」
「はい。なので朗さんからこの話を聞いた時、彗くんには本当に申し訳ないことをしてしまったと思ったんです。私からも、ちゃんと謝らないとって」
勘違いさせるようなことをしてしまって本当にごめんなさい、と相川さんは付け足し、僕たちに向かって頭を下げた。
咲は少し不安そうな顔で僕を見つめてくる。頭の中には、まだよくわからない感情が渦巻いている。
そういう関係ではないからといって、だからなんなのだろう。勘違いしてしまっていたのは僕だとしても、謝られても困る。
それが本当のことだとして、引っかかっていたものの一つは解消されたかもしれない。それでも、僕が本当に解消したいことの答えではない。
それでも頭を下げられたままというのも落ち着かないので、声をかける。
「…頭を上げてください。勘違いだということは分かりましたから」
「…ありがとうございます」
「…一つだけ、聞いてもいいですか」
「…なんでしょう」
「…本当に、それだけですか?」
そう言うと、相川さんの目が少し開く。少しの沈黙の後、深呼吸をしてまた話し出した。
「…そうですね。私から話しておいて、隠そうなんて虫が良すぎますね」
さらに一呼吸おいて、言い切る。
「…私は、朗さんが好きです」
「…」
「ただ、これも勘違いしないでください。あくまで私からの一方的なものです。朗さんは、私のことなんて全くそういう目で見ていませんから」
そう言う相川さんの表情は、悲しげに映る。
「…もうそろそろ朗さんも来てしまいますね。彗くん、改めてごめんなさい。…でも、これだけは知っておいてください」
「…」
「朗さんは本当に、あなたのことを忘れたことなんてきっとありません。…父親としては失格だったかもしれません。でも本当に、あなたのことを話している時の朗さんは、とても優しい表情をしていますよ」
そう言い残して、相川さんはキッチンの方へと戻って行った。
告げられた内容は、まだ咀嚼できない。そうかもしれない、とどこかで引っかかっていたものは、現実だった。…本当に、人の感情というものは難しい。
不意に、左手に温もりを感じる。顔を向けると、咲がこちらを柔らかく見つめている。
そうだ。僕は咲と二人で見つけていくと、そう伝えるために今日ここに来た。
わからないことを怖がる必要なんて、ない。咲の手を握り返したその時、カラン、と扉の開く音がした。
「すまない、待たせてしまったね」
「…いや、大丈夫だよ」
「彗から連絡をもらえるなんて思ってもいなかったからね。もっと早く来たかったのだけれど」
そう言いながら、父さんは向かいの席に座った。
「…聞いてもいいかな、彗。隣の子は?」
「日野咲。…僕の、大事な人だよ」
「…日野咲です。すみません、お邪魔してしまって」
父さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかい表情へと戻った。
「…そうかい。咲さん、ありがとう」
「…え?」
「わかるよ。君のおかげなんだろう。一週間前の彗とは、顔が違う。…また私が彗を追い詰めてしまったのだろうと後悔していたが、どうやら素敵な人と巡り会えたようだ」
「…そうだね。その通りだよ。だから今日、ここに来れた」
真っ直ぐに、父さんの目を見つめる。
「…考えたんだ、あれから。父さんの言葉の意味を」
「…」
「…考えたけど、やっぱりわからない。価値観の違いも、家族や愛の本当の形なんて。僕にわかるわけ、ない」
「彗…」
「でもね」
無意識のうちに下がりそうになった視線を引き戻し、またしっかり目を見据える。
「それで、いいんだって。咲が教えてくれた。一緒に見つけていこうって、そう言ってくれた。…だから僕は、わからないことを受け入れる。答えは、咲と二人で見つけていく」
「…私も、彗くんと一緒に見つけていきたいと、そう思っています」
真っ直ぐに告げた言葉は、どう届いたのだろうか。父さんは真剣な表情を崩さない。
やがて右手を両目に当て、抑え出した。
「…すまない、こんなつもりじゃ」
声が、震えている。
「すまないっ…!本当に、すまない…!本当に、ありがとうっ…!!」
「…父さん」
「こんなにもっ…!成長していたなんて知らなかった…!私はっ…!」
「…僕一人じゃ、立てなかった。咲の。…友人達のおかげだよ」
「あぁっ…!ああ…!」
そこから少しの間、咽び泣く声だけが店内に響いた。
少しすると、父さんは落ち着いたのか、まだしゃがれた声で話し出した。
「…すまない、情けないところを見せてしまったね」
「…いや、別に」
「恥ずかしいね。咲さんも、すまなかった」
「い、いえ、私は…」
「…改めて咲さん。本当に、ありがとう。君のような女の子が彗の隣にいてくれることを、心の底から嬉しく思うよ」
「…はい」
「強い目だ。…これからも彗のこと、よろしく頼むよ」
そう言って父さんは、咲に向かって頭を下げた。
「…はい。絶対に、一人になんてさせません」
その言葉に、父さんは申し訳なさそうな、満足そうな顔で頷いた。
「彗」
「…なに?」
「咲さんのこと、大事にするんだよ。…私が言っても、説得力はないかもしれないが」
自虐を込めているのか、苦笑いでそう言う。
「…大丈夫。咲と二人で、歩いていくから」
あぁ、と答え、父さんはまた涙を流し出した。ふとキッチンの方へと目を向けると、相川さんが心配そうに父さんを見つめている。
正解なのかはわからないが、この場は彼女に任せる方が良い気がした。
「…じゃあ、僕たちはそろそろ行くよ。咲、行こうか」
その言葉に父さんは顔を上げ、咲はお辞儀をしてから出口の方へと向かった。
「…また、連絡するね」
そう言い残して、店を出た。
先に店の外に出ていた咲と自然と手を繋ぎ、歩き出す。
…上手く、伝えられただろうか。正直、言葉を選んでいる余裕なんてなかった。相川さんの話も、まだ腑に落ちたとは言い難い。それでも、心は少しスッキリしている気がする。
「…彗くん、出てきちゃって良かったの?」
「…うん。伝えたいことは、伝えられたと思うから」
「…そっか」
「うん。本当に、一緒に来てくれてありがとう」
「ううん。私は、隣にいただけだから」
「そんなことないよ。少し俯きそうになった時も、咲が手を握ってくれたから、また前を向けた。助けられてばっかりだね」
「まだまだ助けてもらった分、返せてないけどね。でも、それなら良かった」
そう言って咲はニコッと笑う。
その笑顔に、どれだけ救われてきたか。返しきれないほどの救いを差し伸べてもらったと思うことは、傲慢だろうか。
いや、そんなことを考える必要はない。これからも二人で支え合っていけばいいだけの話だ。
「…ね、咲。なにか甘いものでも食べに行こうか」
「え!いいの!?」
「うん。なんだか僕も食べたくなってきちゃった」
「ふふっ。よーし、じゃあ商店街の方行こう!」
そう言って咲は、少し小走りになって僕の手を引いていく。
今までなら引かれるままだったかもしれない。それでも、わからなくても、二人で並んで歩いていくと、そう決めたのだから。
僕も少し小走りをして、咲の隣に並ぶ。顔を見合わせて、歩幅を揃える。
見上げた空からは、光が差し込んできた。




