第36話 『小さくて、大きい』
「彗くん!!!」
聞こえるはずのないその声に、顔をあげる。
「……咲」
ここにいるはずのない彼女は、走ってこちらに向かってくる。すぐに僕の目の前に来た咲の肩は大きく上下している。
なんで、どうして。ここにいるんだ。
目が合った彼女は一瞬、苦しそうな顔をした。それも束の間、キッと顔を引き締め、声をかけてくる。
「…彗くん、なにかあったの…?」
「……そんなことより、どうしてここに」
「彗くんのお母さんから連絡があったの。まだ彗くんが帰ってきてないけど一緒にいるのかって。彗くんにも連絡入れたみたいだけど、返事がないって」
そう言われてスマホを確認すると、母さんから電話の履歴やメッセージがいくつか届いていた。咲のものもある。全く気づいていなかった。
「……ごめん、心配かけちゃったね」
「いいの。見つけられたから。……私から、彗くんのお母さんに連絡入れておくね」
そう言って咲は、手早くスマホを操作する。
「…連絡先、交換してたんだね。いつの間に」
「初めて彗くんの家にお邪魔した時に二人で話してる時にね。…よし」
操作を終えた咲は、僕と目線を合わせるように、しゃがみ込む。真っ直ぐに僕の目を見つめてくる。
「……彗くん、なにがあったの」
「……なんでも、ないよ」
「嘘つかないで。なにもなくて、そんな顔するわけない」
怒っているのだろうか。いつもの咲の声のトーンより低い。…いや、わかっている。心配してくれているのだと。
話さないのも不誠実だろうか。ただ、咲にこんな話をしてしまってもいいのだろうかと、思考がうまくまとまらない。
「……話したくないなら、それでもいいの。でも、ずっとここにいるから。…もう彗くんを一人にしないって。そう決めたの」
そう言って、彼女は両手で僕の左手を包み込む。
あぁ、不思議だ。それだけのことなのに、それまでざわついていた心が、落ち着いていくような気がする。
「…膝が汚れちゃうよ」
「そんなことどうでもいいの。私にとっては、彗くんが何より大事なの」
咲の両手に、グッと力が入る。少し痛いくらいに。真っ直ぐに僕を見つめる彼女の表情は、とても力強い。
…こんなにも、彼女は強かったのか。それに引き換え僕の情けなさといえば、本当にどうしようもない。
一緒にいたいと、いてほしいと、そう言ったのは僕だ。力になりたいと、そう思っているのは、僕だけじゃないんだ。その気持ちに寄りかかっても、いいのではないか。
「……父さんと、話してきた」
「……うん」
「あの日、目が合ったのは勘違いじゃなかった。離婚してからも、僕達のことを忘れたことはなかったって」
「うん」
「離婚したのは、価値観の違いだって言うんだ。…なんだろうね、それ。僕には、わからないや」
「うん」
「…父さんは、見つけられなかったって。家族や、愛の本当の形を。……僕に、見つけてほしいって」
「…うん」
「……わからない。僕に、見つけられるのかな。…母さんも、父さんも見つけられなかったものが」
「……」
それまであった相槌は、なかった。なかったけれど、それまで感じていた左手の温もりが、消えた。
代わりに、僕の体が、顔が。隣に座った咲の胸に、引き寄せられた。
「……え?」
「…ありがとう。話してくれて。嬉しい」
突然のことに、体が動かない。頭も、回らない。
「…ね、彗くん。知ってる?辛い時はね、泣いたっていいんだよ」
その言葉に、いままで必死に抑えていたものが、溢れ出してくる。
「ぼ、僕はっ…!」
「うん」
「自分が…情けないっ…!なにも、わからないことが…!話しただけでっ…こんなに怖くなってしまうことが…!」
「…知ってるよ。彗くんの弱い部分も。でもそれ以上に、優しくて、強いところも知ってる」
「そんなことっ…!」
「ない。なんて言わせてあげない。私は、まだ全部じゃなくても、彗くんのことをたくさん知ってる」
「…っ」
「好きになった頃は、知らなかった。彗くんの弱さなんて。でも彗くんの弱さに触れて、どうにもできなくて。悲しくなったけど、それでも」
「…」
「…それでも、全部受け止めたいって思った。もっと彗くんを好きになった。彗くんが言ってくれたみたいに、一緒にいたいって、そう思ったの」
「……」
「今度は、私の番。今までずっと私を支えてきてくれた彗くんを、私が、支えるの」
より強く、引き寄せられる。
…小さい。僕よりずっと小さな体なのに、とても大きく感じる、そんな不思議な感覚。
両腕を咲の背中に回して、しがみつくように力を入れる。咲は黙って、そんな僕を受け入れる。
体から感じる温もりに、吐き出した恐怖はいつの間にか消えていた。
そこからしばらく、互いに言葉はなかった。ただ身を寄せ合い、温もりだけを感じる。恐怖と共に感じていた孤独感のようなものも、とうに消えている。
「……咲」
「…なに?」
「…ありがとう」
「ふふっ。どういたしまして」
そうして、寄せていた体を離す。咲は、あっ、と声を出して名残惜しそうな顔をするが、誰かに見られでもしていたら恥ずかしいなんてものではない。そんなことを考えても、後の祭りかもしれないが。
「…本当に、ありがとう。情けないとこ見せちゃったね」
「さっきも言ったでしょ。全部、受け止めるよ。もう一回来る?」
そう言って咲は、両手を広げる。
「…次の機会に、取っておくよ」
「むぅ。いつかわかんないじゃん」
「そんな頻繁に今回みたいなことが起こっても困るよ」
「それもそうなんだけどね。別に弱った時じゃなくても、いつでもいいのに」
「…部活終わりは嫌なんじゃなかった?」
「……その返しはずるい」
普段に近いやり取りに、自然と笑みが溢れる。
ふと時計を見ると、二十一時を回っていた。いつからいたのか覚えてもいないが、それなりに時間は経っている。
「…もう落ち着いたし、帰ろうか。送るよ」
「ダメ。今日は私が送る」
「いや、でももう遅いし…」
「大丈夫。お母さんにも連絡入れるから」
僕の返事を待たず、咲はスマホを操作し出す。今の彼女は、行動力が凄まじい。
「うん、これで大丈夫。行こっか」
そう言って立ち上がった彼女は、右手を差し出してくる。今日は何を言っても咲には勝てなさそうだと諦め、左手で握り返して立ち上がり、歩き出す。
あまり会話はなかったけれど、冷たい夜風にさらされながらも、確かな温もりを感じる。
「……ね、彗くん」
「どうしたの?」
「……私もね、彗くんと一緒。弱くて、どうしたらいいかわからないことなんて、たくさんある」
「……」
「家族って、本当になんなんだろうね。わかんないや。好きってだけじゃ、ダメなのかもしれない」
「……」
「…わかんないけど、それでも。いま私は、彗くんが好き。それだけは確かなの」
「…僕だって」
「うん。…これからもね、こんなことがあるかもしれない。次は私が考えこんじゃうかもしれない」
「…」
「そうなったら絶対、彗くんは私を助けてくれる。…だからね、今度は私から言わせて」
「…なにを?」
「二人で一緒に、見つけにいこうよ。好きだけじゃ足りないかもしれない、なにかを」
前を向いたまま、力強くそう告げる彼女に、思わず目が見開いてしまう。
その力強さに、また自分の弱さを突きつけられるような感覚を覚える。いや、これは僕の悪い癖だ。
咲の強さに、彼女の隣に並んで歩けるように、僕も強くならなければならない。
…咲の隣に他の誰かがいるなんて、僕には到底受け入れられないのだから。
「咲」
「んー?」
「本当に、ありがとう。好きだよ」
「ふふっ。私の方が好きだと思うなー」
「比べるようなものでもないでしょ」
「それもそうだけどね。負けないよっ!」
「なんの勝負なの…」
「わかんない。でも、それでいいと思うの!」
そう笑顔で軽やかに言い放つ咲に、また心が洗われていく。
僕一人では絶対に見つけられそうにないものも、咲と一緒なら見つけられる。何の根拠もないけれど、そう思える。
二人で寄り添って歩く今が、こんなにも満たされているのだから。




