第35話 『手の届かない遥か先へ』
「……父さん」
その人に対して放つのはいつぶりか分からない言葉に対し、父さんは黙って僕を見つめている。
なんでここにいるのか。なんで声をかけてきたのか。この前一緒に歩いていた女性は誰なのか。思い浮かぶことはいくつもある。
それでも不思議と、頭の中はスッキリしている。
「……久しぶりだね、彗」
少しの沈黙の後、父さんはそう口にした。久しぶり。話をするという意味では、それだけで片付けていい期間ではない気がするけれど。
「…そうだね」
「…元気だったかい?」
「…僕も母さんも、元気だよ」
「…そうか、良かった」
良かった。2年以上も顔を出さないで、そんなことが言えるのか。本当にそう思っているのか。
頭はスッキリしていたはずなのに、怒りのような感覚が湧き上がってくる。顔に出さないよう、必死に抑え込む。
「……なんで声をかけたの」
そう言うと、父さんは少し苦笑いをした。
「この前、そこの公園で彗を見かけてね。…次に見かけた時には、声をかけようと思ってたんだ」
「……やっぱり、見てたんだね」
僕の言葉に、頷いて答える。あの夜、父さんが僕を見ていたのはやっぱり勘違いではなかったらしい。
「…一緒にいた女の子は、彼女かい?」
「父さんには関係ないだろ」
「関係ない、か。それもそうだね」
そう言う父さんの顔は、最初に顔を合わせた時より曇っていく。
なんなんだ。なんでそんな顔をするんだ。なにがしたいんだ。
「…もう一回聞くよ。…なんで声をかけたの」
無意識に、さっきよりも声が低くなってしまった。
「…自分の息子に声をかけるのに、理由が必要かい?」
その言葉に、感情が抑えきれなくなった。
「なにを…っ!なにを言ってるんだよ!ずっと僕たちに顔も見せずにいたくせにっ…!女の人と歩いてて何を今更っ!!」
「…そう言われると、耳が痛いね」
「なんだよっ…!何がしたいんだ…!!」
わからない。わからない。わからない。この人は本当になにがしたいんだ。
「……少し時間をもらえるかい?どこかでゆっくり話そう」
「ここでいいだろ」
「…そうは言ってもね。あまり騒いでも。ほら、人も集まってきてしまってるしね」
その言葉にハッとし、周りを見渡してみると、数人が立ち止まって僕たちの方を見ていた。気づかないなんて、頭に血が昇り過ぎていた。
それでも、昇ってしまったものを抑えつけることなんて出来ない。
「この近くに、僕がよく行くお店があってね。あまり騒げるような場所ではないけれど、ここよりはいいだろう」
「……わかった」
その言葉を聞いて歩き出した父さんの後を、ゆっくりと着いていく。距離を取りながら。
歩いていると、先ほどまで昂っていた怒りのようなものが少しずつ引いてくるような気がした。
時間を取ってまで、言いたいことがあるのか。…いや、僕から聞かないといけないこともある。先程のように冷静さを欠いてはいけないと自分に言い聞かせる。
そして十分ほど歩き、着いたのは古風な喫茶店だった。
「入ろうか」
そう言って中に入ると、女性の店員が迎え入れてくれる。その顔は、見たことがある。うっすらとしか覚えていないが、あの夜、父さんと歩いていた人だ。
「朗さん、いらっしゃい。あら、後ろの子は?」
「この前話していた、息子だよ」
「あぁ!いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
突然のことに、言葉が出なかった。頷くことも何もできず、案内された席に座ることしかできない。
「彗は何にする?」
「……コーヒーで」
「大人だね。私もそうしよう」
そうして父さんは軽く手をあげて先程の女性を呼び、注文をした。待つ間に会話はなく、静かな時間だけが過ぎる。
軽く店内を見渡してみると、座っているのは僕たちだけで、働いているのも先程の女性だけだ。
少しして注文したコーヒーが運ばれてくるが、飲む気にはなれない。父さんは香りを嗅いでから少し喉に通していた。
「……さて、何から話そうか」
コーヒーカップをテーブルに置き、父さんは口にした。
「…すまない。私も、まとまっているわけではないんだ。聞き辛い部分もあるかと思うが、許してほしい」
その言葉に、なんの反応もしなかった。少しの間の後、父さんは話しだした。
「……まずは謝らなければならないね。2年以上も顔を合わせることができず、本当に申し訳なかった」
僕の目を真っ直ぐに見つめて、そう言う。
「信じてもらえないかもしれないが、彗のことを忘れたわけではなかった。もちろん、母さんのことも」
「……なにを」
「全ては、私の責任だ。離婚してしまったことも、疎遠になってしまったことも」
「……」
「……怖くなってしまったんだ。離婚してから、彗とたまに二人で会っていた時。会うたびに、心を閉ざしていくかのように笑わなくなっていく彗に。…私が、その原因を作ってしまったのだと」
「……」
「それから、仕事に没頭するようになった。少しでも離れた方が彗のためになるんじゃないかと言い聞かせて。…分かってはいたんだ。言い訳だと。ただ私は逃げ出してしまった。父親失格だ」
コーヒーを口に運び、言葉を続ける。
「…気づけば、2年も経ってしまっていた。本当に、どうしようもない父親だ。…でも、この前に公園で見かけた時。すぐに彗だと分かった。…何を言ってるんだと思われても仕方ないが本当に、嬉しかった」
「……なにを言ってるんだ」
「…本当にね。情けない父親で申し訳ない」
「……なんで離婚なんてしたんだよ」
「…そうだね。簡単に言えば、価値観の違いってやつなのかな。母さんと過ごすことが、苦しくなってしまった。人としては、今でも尊敬しているよ」
「……わからない。…僕には、わからない。…好きだから、結婚したんじゃないのか…」
「…そうだね。そこはその通りだ。ただ一緒に過ごすことで、それまで見えなかったものが見えてくる。…これも、言い訳にしかならないのだけど」
「なんだよっ…!家族って…!そんな簡単に捨てられるものなのかよ…!!」
わからない。なんだよ、価値観の違いって。そんなもので、好きって気持ちは消えてなくなってしまうのか。それだけで、一緒にいられなくなってしまうものなのか。
「……本当に、耳が痛いね。…何を言っても信じてもらえないと思うが、簡単ではなかった。一度は愛した女性を、愛する息子を手放すなんて」
「僕がっ…!母さんが…!!どんな思いで…!!」
「……本当に、心から申し訳なく思っている。…ただ、私にも譲れないものがあった。それだけは、分かってほしい」
そこから、言葉は出なかった。いや、言葉にならなかった。
父さんの言うことは、半分も理解できない。……家族って、一体なんなんだ。
「……私は、見つけることができなかった。…家族の。愛の。本当の形を。…だからこそ彗には、本当の意味を見つけてほしいと、心から願っているよ」
そう言い残し、父さんは席を立った。振り返ることもできず、会計のやり取りと店の扉が開いて閉まる音だけが聞こえた。
なにも考えることができない。何もわからない。店員の女性が声をかけてくるが、聞こえない。
何も答えずに席を立ち、店を出る。あてもなく歩いていると、気づけばいつもの公園にいた。
ベンチに座り、父さんの最後の言葉の意味を考えようとする。
"彗には、本当の意味を見つけてほしい"
なんだよ。わかるわけないだろ。母さんも、父さんも。見つけられなかったものが僕に見つけられるわけない。
なんでそんな無責任なことを言うんだ。僕にどうしろって言うんだ。好きって気持ちだけじゃ、いけないのか。
深く、深く。思考の沼にハマっていく感覚。話せば少しは分かるかもしれないと思っていたものは、より手の届かない遥か先に消えていくような。
冷たい夜風が、僕の体温までも奪っていく。
もう考えることを辞めたい。そう思った矢先。
「彗くん!!!」
聞こえるはずのない声が、聞こえた。




